* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第百五句『早鞆』(はやとも)

2012-11-14 11:11:11 | 日本の歴史

 左上の御座船に、幼い安徳帝を抱き「波の底にも都がござりまするぞ」と慰める二位の尼

<本文の一部>

 新中納言知盛、御所の御船に参り給ひて、「女房たち、見苦しきものどもみな
海に沈め給へ」とのたまへば、女房たち、「この世の中は、いかに、いかに」と
のたまふ。新中納言いとさわがぬ体にて、「いくさはすでにかう候ふよ。今日より
のちは、めずらしき東男こそ御覧ぜんずらめ」とうち笑ひ給へば、「なんでふ、
ただ今のたはぶれぞや」とぞをめき叫び給ひける。

 二位殿、先帝をいだきたてまつり、帯にて二ところ結ひつけたてまつり、宝剣
(草薙の剣)を腰にさし、神璽(八尺瓊曲玉ヤサカニノマガタマ)を脇にはさみ、
練袴のそば高くはさみ、鈍色の二衣うちかづき、すでに船ばたに寄り給ひ、「わ
が身は君の御供に参るなり、女なりとも敵の手にかかるまじきぞ。御恵みに従は
んと思はん人は、いそぎ御供に参り給へ」とのたまへば、国母をはじめたてまつ
り、北の政所、臈の御方、帥の典侍、大納言の典侍以下の女房たちも、「おくれ
まゐらせじ」ともだえられけり。

 先帝、今年は八歳、御年のほどよりもおとなしく、御髪ゆらゆらと御せな過ぎ
させ給ひけり。あきれ給へる御様にて、「これはいづちへぞや」と仰せられけれ
ば、御ことばの末をはらざるに、二位殿、「これは西方浄土へ」とて、海にぞ沈
み給ひける。

 あはれなるかなや、無常の春の風、花の姿をさそひたてまつる。かなしきかな
や、分段の荒波に龍顔を沈めたてまつる・・・・・・・・・・・・

       ( )内は本文ではなく、注釈記入です。

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<あらすじ>

(1) 新中納言・平知盛は、帝(安徳帝)のお召船に参り、「戦(いくさ)は最早こ
   れまで・・・」と、女房たちに敗戦を告げると、不必要なものは海に捨てるよ
   うに伝える。 慌てふためく女房たち。知盛は『やがて珍しい東男をご覧じ
   られましょうぞ』と、笑う。

(2) 二位の尼(平時子・清盛の妻)は、八歳になる幼い安徳帝を抱き、草薙の
   を腰に、八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)を脇にはさみ、『波の底にも都は
   ござりましょうぞ・・・・』とお慰めしながら海中に身を躍らせたのであった。

    続いて北の政所(関白基通の奥方である、清盛の娘・定子)、臈の御方
   (源義朝の愛人・常盤と清盛との間に生まれる)、帥の典侍(ソツノスケ・時忠妻)
   大納言の典侍(平重衡の妻)などが遅れまいと入水(ジュスイ)する。

(3) 建礼門院(清盛の娘・平徳子)も、硯など重しになるものを左右の懐へ入れ
   て続いて海に身を投げたが、源氏渡辺党の”(ツガフ)”と云う者に熊手を
   使って引き揚げられてしまい、女房たちの多くも皆生け捕られてしまうので
   あった。

(4) 源氏の兵どもが、八咫の鏡(ヤタノカガミ)を納めた唐櫃の錠をねじ切って蓋を
   開けようとしたが、とたんに眼が眩み鼻血が出た。捕らわれていた平時忠
   『それは神鏡として尊いものぞ、只の人が見てはならぬものじゃ』と制止し
た。
   兵士たちは身震いして恐れおののいたと云う。

   源九郎義経は、時忠と相談して元通りに紐を結んでお納めするのであった。

(5) 平中納言・教盛、修理大夫・経盛の兄弟は、互いに手に手を組んで鎧の上に碇を背負い海の中に沈んだ。小松の三位中将・資盛、同じく少将・
有盛、従弟の左馬頭・行盛も、これ又手を組み合って碇を背負うと三人
一緒に入水するのであった。

(6) 平家一門の人々は次々に入水したが、前内大臣・宗盛清宗父子が舷に
   立って辺りを見回しているのを見た平家兵士たちが、あまりの情けなさに
   宗盛を海へ突き落し、これを見た清宗はすぐに海へ身を投げた。

    宗盛は、清宗が沈んだら自分も沈もうと、もし助かったら自分も助かろうと
   あちこち泳ぎ回っているうちに、伊勢三郎義盛が二人を引き揚げて生け捕
りにしてしまった。

(7) 一方、平家随一の勇猛な能登守・平教経の矢面に立ち向かう者は誰一人
   居なかったが、矢種も尽き”今は最後”と、大太刀と白柄の大薙刀を左右の
   手に持って、源氏の軍兵どもを次々に薙ぎ倒していった。

    そして遂に源氏方の大将・九郎判官・義経に出会い討ちかかるが、義経
   
は”かなわぬ”と思ったか、近くの味方の他の船に飛び移りあやうく逃れた
   のであった。

        自らは身軽に飛び移れぬことを悔しがる平教経

   そして義経配下で三十人力を誇る安芸太郎次郎ら主従三人が同時に
  平教経に討ちかかるが、郎党を海へ蹴落として、太郎と次郎の二人を左右の
  脇に抱え込み、教経はそのまま海中に飛び込み”最後”を遂げたのであった。

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第百四句『壇の浦』

2012-10-21 13:07:17 | 日本の歴史

  源氏側に嫡男を生け捕られている阿波の民部成能は、
    ついに平家を裏切って源氏に味方し、平家の船に討ちかかる・・・

<本文の一部>
 同じく二十四日の卯の刻に、源平鬨をつくる。うえは梵天にも聞
こえ、下は海龍神
までもおどろきぬらんとぞおぼえたる。門司、赤
間、壇の浦は、みなぎりて落つる潮
なれば、源氏の船は潮に引かれ
て心ならず引き落さる。

 平家の船は潮に追うてぞ来たりける。沖は潮の早ければ、なぎさ
について、梶原、
敵の船の行きちがふを熊手うちかけて、乗りうつり、
乗りうつり、散々に戦ふ。分捕
あまたしたりければ、その日の
功名の一にぞつきたりける・・・・・・・・

・・・・・平家は千余艘の船を三手に分かつ。先陣は、山鹿の兵頭
次秀遠五百余艘
二陣は、松浦党三百余艘にて参り給ふ。先陣にすす
みたる山鹿の兵頭次秀遠がはかりごととおぼえて、精兵を五百人そ
ろへて、五百艘の船の舳に立て、射させけ
るに、鎧も、盾も射通さる。
源氏の船射しらまされて漕ぎしりぞく。

 平家はこれを見、「御方すでに勝ちぬ」とて、攻め鼓を打って、
よろこびの鬨を
つくる。

 陸にも源氏の軍兵七千余騎ひかえて戦ひけり。そのうちに相模の
国の住人、
三浦の和田の小太郎義盛、船には乗らで、これも馬に乗り、
ひかへて戦ひけるが、
三町がうちの者は射はづさず。三町余が沖に
浮かび
たる新中納言の船を射越し
て、白箆の大矢を一つ波の上
にぞ射浮かべたる。

 和田の小太郎、扇をあげて、「その矢こなたへかへし賜ばん」と
ぞ招きける。

新中納言、この矢を召し寄せて見給へば、白箆(しらの)に鵠の羽に
て矧いだる
矢の、十三束三伏(じゅうさんぞくみつぶせ)ありけるが、

沓巻のうへ一束おきて、
「三浦の和田の小太郎義盛」と漆をもって
書きたりけり・・・・・・・・

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<あらすじ>

(1) 元暦二年(1185)三月二十四日の午前六時ごろ、源氏平氏共
   に鬨(とき)の声を上げて、激しい潮流の中で平家側では新中納
   言知盛の檄が飛ぶ!

(2) 平の知盛は、大臣殿(おほいどの)(宗盛)に、『今日は侍の士
   気が大へん盛んですが、ひとり阿波の民部成能(しげよし)だけ
   が“変心”したのか闘志が見えません。彼の首を刎(は)ねたい
   ものです』と進言するが、宗盛はそのことを信じられず、『証
   拠も無いのに首は斬れない』と、許さなかった。

(3)千余艘の船を三手に分けた平家勢は、先陣に“強弓精兵”の者
   を配して連射に次ぐ連射で、これにより源氏方は射すくめられ
   船団を後退させた。これを見た平家勢は勝ち誇って勝鬨の陣太
   鼓を打ち鳴らした。

    しかし源氏の中には陸地にいて馬に乗り、海中の平家の船の
   兵を射落とす者あり。平家側もこれに呼応して射返し、源平共
   に強弓の猛者たちが激しく戦うさまを描写する。

(4) 源平乱れあい数時間の後、この間に阿波の民部成能は、平家
   側にありながら、嫡男の田内左衛門(でんないざえもん)を源氏
   に生け捕られている為、親子の情愛耐え難く遂に平家を裏切り
   源氏方に寝返ったのであった。

    これを見た四国九州の兵たちは、平家に利あらずと忽ちに
   一斉に源氏方に寝返り、平家勢の多数の将兵が射倒され斬り伏
   せられて船底にばたばたと倒れたのであった。

 

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第百三句『讒言梶原』(ざんげんかじわら)

2012-07-16 14:49:38 | 日本の歴史

  元暦二年(1185)三月二十四日、先陣のことで源義経と梶原景時とが口論となる。

<本文の一部>
 同じく十九日、判官(義経)、伊勢の三郎義盛を召して、「阿波の
民部成能が嫡子田内左衛門教能(でんないざえもんのりよし)、河野
を攻めに伊予の国へ越えたんなるが、これにいくさありと聞きて、
今日はさだめて馳せ向かふらん。大勢に入れたててはかなふまじ。
 なんぢ行き向かひ、よき様にこしらへて召して参れ」とのたまへ
ば、伊勢の三郎、「さ候はば、御旗を賜はつて向かひ候はん」と申
す。「もっともさるべし」とて、白旗をこそ賜はりけれ。

 その勢十六騎にて向かふが、みな白装束なり。兵どもこれを見て、
「三千余騎が大将を、白装束十六騎にて向かひ、生捕にせんことあ
りがたし」とぞ笑ひける。・・・・・・・略・・・

 三月二十四日の卯の刻に、長門の国(山口)壇ノ浦、赤間が関にて
源平矢合せとぞ定めける。その日すでに判官と梶原といくさせんと
することあり。

 梶原、判官に申しけるは、「今日の先陣をば侍のうちに賜はり候
へ」と申せば、判官、「義経がなからんにこそ」。「まさなや。君
は大将軍にてまします」と申せば、「鎌倉殿こそ大将軍よ。義経は
奉行を承ったれば、ただおのおのと同じことぞ」とのたまへば、梶
原先陣を所望しかねて、「天性この殿は侍の主にはなりがたし」と
ぞつぶやきける。判官、「総じてなんぢは烏滸の者ぞ」とのたまへ
ば、「こはいかに、鎌倉殿のはかは主を持ちたてまつらぬものを」
と申す。判官、「にくいやつかな」とて、太刀に手をかけ、立ちあ
がらんとし給へば、梶原も太刀に手をかけ、身づくろひするところ
に、三浦の介、土肥の次郎むずと中にへだたりたてまつる。

 三浦の介、判官に申しけるは、「大事を御目の前にあてさせ給ふ
人の、か様に候はば、敵に力をそへさせ給ひなんず。なかんずく、
鎌倉殿の聞かせ給はんところも、穏便ならず」と申せば、判官しず
まり給ふうへは、梶原すすむにおよばず。

 これより梶原、判官をにくみはじめて、つひに讒言してうしなひ
けるとぞ聞こえける。

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 <あらすじ>

(1)元暦二年(1185)二月十九日、義経は、伊勢三郎義盛に命じて、
  阿波の民部成能(しげよし)の嫡男で、田内左衛門教能(のり
よし)
  を調略させる。

   義盛は白装束姿の僅か十六騎で向かい、三千余騎を率いる
  田内左衛門教能
の一行と行き会い、「貴方の叔父・桜間の介殿
  は、鎌倉(頼朝)殿の御弟・九郎判官義経殿に討たれ、昨日は屋島
  の平家内裏や御所の全てを焼き払い、中でも新中納言・知盛殿や
  能登守・教盛殿は立派に戦って自害なされた旨、そして大臣殿父
  子(宗盛、清宗)も生け捕ったこと。貴方の父・民部成能殿も降参し
  て、この義盛が身柄を預かっている・・・等など、あること無いことを
  出まかせに言い、遂には田内左衛門もかねての噂どおりかと思い
  込み、降伏してしまうのであった。

(2) 長らく平家側に従っていた熊野権現の別当・堪増は、平家の運
  が尽きるとみて心変わりし、伊予(愛媛)の河野水軍などと合流して
  源氏の側に付くことを決心した。
   
   平家は田内左衛門教能が生け捕られたと聞き、讃岐(香川)を出て
  船に乗り合わせて、いづこともなく去って行ったと言う。

(3) 二月二十二日、梶原景時ら二百余艘の船がやっと屋島の磯に着
  き、
義経の配下の兵に冷やかされる。

(4) 三月二十四日早朝に、”壇ノ浦・赤間が関”が源平の矢合わせと定
  まるが・・・・・・・

   その日の内に義経梶原の口論から、今にも同士討ちするのでは
  ないかという事件が起こる。

   梶原義経に、「今日の先陣を侍の私達に賜りたい」と云うと、義経
  は、「戦の奉行を仰せつかっただけ」で同じ立場だと譲らず、口論とな
  り太刀に手をかけ身構え、”あわや”というところまでいき、三浦義澄
  土肥実平が中に割って入り止めたと云う。

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第百二句『扇の的』

2012-06-12 19:45:31 | 日本の歴史

                         那須の与市が見事に“扇の的”を射抜く

<本文の一部>

 阿波、讃岐に、平家をそむき、源氏を待ちける者ども、かしこの洞、ここの谷
より馳せ来たって加はる。源氏の勢ほどもなく三百余騎にぞなりにける。「今日
は日暮れぬ。勝負は決せじ、明日
のいくさ」とさだめて、源氏引きしりぞかんと
するところに、沖の方より尋常にかざりたる小船一艘、
なぎさに寄す。

 「いかに」と見るところに、赤き袴に柳の五衣着たる女の、まことに優なりけるが、
船中より出でて
みな紅の扇の日出だしたるを、船ばたにはさみ立て、陸へ向か
ひてぞ招きける。

 判官、後藤兵衛を召して、「あれはいかに」とのたまへば、「射よとこそ候ふらめ。
ただしはかりご
とごさんなれ。大将軍さだめてすすみ出でて、傾城(けいせい)を
御覧ぜんずらん。そのとき手だれ
をもって射落さんと候ふか。扇をばいそぎ射さ
せらるべうや候ふらん」と申しければ、「射つべき者
はなきか」。「さん候。下野の
国、那須の太郎助孝が子に、余市助宗こそ小兵なれども手はきいて
候へ」。「証
拠はあるか」。「さん候。翔け鳥を、三よせに二よせはかならずつかまつる」と申す。

 「さらば召せ」とて召されたり。

 余市そのころ十八九なり。褐(かちん)に、浅葱(あさぎ)の錦をもってはた袖いろ
へたる直垂に、
萌黄(もえぎ)にほひの鎧着て、足白の太刀を帯き、中黒の矢の、
その日のいくさに射残したるに、薄切斑(うすぎりふ)に鷹の羽はぎまぜたるぬため
の鏑差し添へたり。

 二所藤(ふたどころどう)の弓脇ばさみ、兜をぬいで高紐にかけ、御前にかしこま
る。判官、「いか
に余市、傾城のたてたる扇のまん中射て、人にも見物させよ」との
たまへば、余市、「これを射候は
んことは不定に候。射損じ候ふものならば、御方
の長ききずにて候ふべし。自余の人ににも仰せつ
けらるべうや候」と申せば、判官
怒って、「鎌倉を出でて西国へ向かはん殿ばらは、義経が命をそむ
くべからず。
  それに子細を申さん殿ばらは、いそぎ鎌倉へ帰りのぼらるばし。そのうへ多くの
中より
一人選び出ださるるは、後代の冥加なりとよろこばざる侍は、何の用にかた
つべき」とぞのたまひける。

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<あらすじ>

(1) 源氏勢の前に現れた平家側の小船一艘、紅色金地の日輪を描いた“
       をふなばたに立て、
   これを射て見よ・・・とのさそい・・・。

    義経は、後藤実基と相談し射手に“那須の与市”を選ぶ。

(2) 与市は、揺れ動く船上の小さな的に天を仰いで神仏に祈り、“ひょう”と射て
       見事に“”を射抜く。
これを見た源平双方の兵は、どよめいて褒めそやした。

(3) その直後に、長刀(なぎなた)を持って現れた平家武者ひとり、船の上で舞
        い踊る。 義経の命
を受けた“与市”は、この武者をも射抜き、源氏側の兵の
        気勢は上がるばかりであった。

(4) 音もなく沈んでいた平家側から、船に乗った武者たちが源氏側の水際に上
        がり、源氏の兵士たち
を“けしかけ”る。 すると義経の下知で武蔵の水尾谷
        (みおのや)四郎をはじめ五騎ばかりが駆け
入るが、先頭の水尾谷が馬を射
        られて危うく飛び降りると、平家の豪傑・上総の悪七兵衛景清が、
その水尾
        の兜を掴み取ろうと揉みあい、遂には兜の“しころ”を引きちぎって水尾谷
        は危うく窮地
を脱して味方の中へ戻ったのであった。

    義経は、平家の剛の者・悪七兵衛景清を逃すなと大声を上げて、自ら馬を
      走らせ三百余騎も
これに続き、平家側も“景清”を討たすなと、しばし激しく戦う。

(5) 敵陣に深入りしすぎた義経を、平家側は船の中から熊手で引き落とそうとし、
       義経ははずみで
弓をかけ落とされて、必死に鞭の先で取り戻そうとする。源
       氏の兵の制止にも耳を貸さず、遂に
取り戻すのであった。

    義経は、叔父の鎮西八郎為朝のような剛弓ならとに角、こんな弱い弓を拾
       われて、“笑いもの”
にされるのが残念だと、その理由を打ち明ける。 

    今日は暮れぬ、戦は明日と定めて源氏は引き退き高松に陣を取る。

(6) 源氏はこの三日間、“寝て”おらず、皆疲れ切って寝入ってしまう。 平家側
       では「夜討ち」を図った
ものの、先陣争いをしている内に夜が明けてしまう。

    もし“夜討ち”が実行されていれば、源氏はその夜のうちに滅ぶ筈であった
       のに、平家の“運の無さ
を象徴するできごとであったと・・・・・・・・・。

 


第百一句『屋島』

2012-05-13 08:48:46 | 日本の歴史

            前(さきの)能登守・教経(画面左)に射落とされる佐藤三郎兵衛嗣信(画面中央右)。
                    (右下)の忠信に射抜かれる(下段左)の菊王丸(教経の従者)

本文の一部)

 元暦二年(1185)正月十日、九郎大夫の判官、院の御所へ参り、大蔵卿泰経の朝臣をもって申されけ
るは、「平家は宿報つきて神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上にただよふ落
人となれり。しかるをこの二三箇年、攻め落とさずして、おほくの国国をふさげつるこそ口惜しう候へ。
今度義経においては、鬼界、高麗、天竺,震旦までも、平家のあらんかぎりは攻むべき」よしをぞ申され
ける。

 院の御所を出で、国々の兵に向かって、「鎌倉殿の御代官として、勅宣をうけたまはって、平家追討に
まかり向かふ。陸は駒の足の通はんほど、海は櫓櫂のたたんかぎりは攻むべきなり。命を惜しみ、妻子を
かなしまん人は、これより鎌倉へ下らるべし」とぞのたまひける。

 屋島には、ひまゆく駒の足早め、正月もたち、二月にもなりぬ。春の草暮れては、秋の風におどろき、秋の
風やんでは、春の草になれり。送り迎へて三年にもなりぬ。しかるを、「東国の兵ども攻め来たる」と聞こえ
しかば、男女の公達さし集まって泣くよりほかのことぞなき。

 同じく二月十三日、都には二十二社の官幣あり。これは「三種の神器、事ゆゑなく都へ返し入れ給へ」との
御祈念のためとぞおぼえたる。同じく十四日、三河守範頼、平家追討のために七百余艘の船に乗って、摂津
の国神崎より山陽道を発向す。九郎大夫判官、二百余艘の船に乗りて、当国渡辺より南海道へおもむく。

 同じく十六日卯の刻、渡辺、神崎にて日ごろそろへたる船のともづな今日ぞ解く。風枯木を折って吹くあひだ、
波蓬莱のごとく吹きたて、船を出だすにおよばず。あまつさへ大船どもたたき破られて、修理のためにその日
はとどまる。

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<あらすじ>

(1) 平家攻略に手をこまねく兄・源範頼の遠征を“手ぬるい”と批判した弟・義経は、元暦二年(1185)二月、
    摂津国渡辺からニ百余艘の船で南海道(紀伊~四国)へ向かった。

(2) 船戦(ふないくさ)の戦法で“逆櫓”を進言する梶原景時と、これに反対する源義経は対立し、「他の船は
   知らず、自分の船には“そんなもの”を付けてはならぬ!」と言い放つ。

(3) 強風で荒れる海の中、義経は船を出すことを命じ、結局二百余艘の船のうち五艘のみが進発し、僅か
   四~五時間で阿波(徳島)の勝浦に着くという強行ぶりであった。
    夜が明け、敵の襲来を察したか平家側では赤旗の“のぼり”を上げるが、義経たちを見て五十騎ばかり
   が退却する。この中の阿波(徳島)の板西(ばんざい)の武者一人を降参させて、土地の状況や平家側の
   様子を聞き出した上で、平家に組する桜間(さくらば)の能遠(よしとう)を討ち取り軍神に備えるのであった。

(4)  二月十八日、源義経勢は一斉に白旗の“のぼり”を上げて岸辺に寄せる、これを見た平家側は慌てて
   船を海に下し、安徳帝や女院、女房などそして宗盛や武将たちが乗り移り漕ぎ出した。
    義経は真っ先に進んで名乗りを上げ、平家側は大将(義経)を射倒そうと一斉に弓を射る。

(5)  激しい合戦のさ中、前(さきの)能登守・教経の従者である“菊王丸”(18歳)の討死。さらには源義経
   従者“佐藤三郎兵衛嗣信”(28歳)の討死があり、親しく仕えた家来の死によって、その主はいずれも最前
   線から身を退くと云うエピソードが挟まれ、武家社会の歴史の中で主従の“一心同体”の人間関係をあら
   わす逸話として語られている。

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第百句『藤戸』

2012-04-15 10:24:13 | 日本の歴史

    浅瀬を教わった漁夫を、他の者に教えないようにその場で殺してしまう“佐々木三郎盛綱”

<本文の一部>

 同じく九月十二日(寿永三年(1184))、三河守範頼、平家追罰のために山陽道へ発向す。
あいしたがふ人々には、足利の蔵人義兼、北条の四郎時政、侍大将には、土肥の次郎実平、その子
弥太郎遠平、和田の小太郎義盛、佐原の十郎義連、佐々木の三郎盛綱、比企の藤四郎能員、天野
の藤四郎遠景、一法房性賢、土佐房昌春を先として、都合その勢三万余騎、都をたって播磨の国へ
馳せくだり、室山に陣をとる。

 さるほどに、「平家の方の大将軍には、小松の新三位の中将資盛、同じき少将有盛、丹後の侍従
忠房、侍大将には、飛騨の三郎左衛門景経、越中の次郎兵衛盛嗣、上総の五郎兵衛忠光、悪七兵
衛景清を先として、五百余艘の船に乗り、備前の国児島に着く」と聞こえしかば、源氏三万余騎、播磨
の室山をたって、備前の藤戸へぞ寄せたりける。

 源平両方、海のあはひ五町あまりをへだてたり。船なくしてはたやすく渡るべき様もなし。船はあれど
も、平家方に点じ置きたれば、「源氏方には船なし」と見て、平家方よりはやりをの者ども、小船に乗りて
おし浮かべ、扇をあげて、「源氏、ここを渡せ」とぞまねきける。されども、船なければ渡るにおよばず。

 むなしく日数をおくるほどに、同じき二十五日の夜に入りて、佐々木の三郎盛綱、この浦の遠見をする
よしにて、浦の男を一人かたらひて、「や、殿。『ここを渡さん』と思ふはいかに。馬にて渡すべき所はなき
か」と問へば、「案内知らせ給はでは、悪しう候ひなん」と申す。そのとき佐々木の三郎、小袖と刀を取ら
せて、「知らぬことはよもあらじ。教えよ」と言ひければ、「たとへば、川の瀬の様なる所こそ候へ。この瀬
が不定にして、「月がしらには東に候。月の末には西に候。馬の脚のおよばぬ所は、三段にはよも過ぎじ」
と申す。「うれしきことを聞きつるものかな」と思ひて、家の子、郎等にも知らせず、人ひとりも具せず、裸に
なりて、この男を先にたて、渡りてみれば、げにも、いたう深うはなかりけり。・・・・・・・・・・

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

<あらすじ>

(1) 平家追罰のため山陽道に進んだ“源範頼”の源氏勢三万余騎の「武者揃え」を記す。
   寿永三年(1184)九月十二日、大将軍に三河守範頼、足利の蔵人義兼(頼朝の従弟)、北条四郎
   時政、侍大将には土肥次郎実平、その子遠平、和田の小太郎義盛らの名をあげ、都から播磨の国
   へ下り、室山に陣を敷いた。

(2) 一方平家勢は、大将軍に小松の新三位中将資盛、少将有盛、丹後の侍従忠房(以上三名は兄弟)
   侍大将には飛騨の三郎左衛門景経、越中の次郎盛嗣、悪七兵衛景清ら五百余艘の船に乗り、備前
   の国児島に着陣する。 これを聞いた源氏勢は室山を立って備前の藤戸に着く。源平両軍の間“五町
   余り”だが、平家に船はあるが源氏には船が無く海を渡ることができない。

(3) 空しく日を重ねる中、源氏の佐々木盛綱は地元の漁夫に声をかけ、馬で渡れる浅瀬や流れの様子
   を詳しく聞き出し、そのまま自ら裸になって海に入り確かめる。そしてその男が他の源氏武士に同じ
   ことを教えられては“まづい”と、その場で殺してしまった。九月二十五日の夜のことである。

(4) 翌二十六日午前八時ごろ、佐々木盛綱主従七騎は馬を海に乗り入れ、大将の範頼の“制止”を振り
   切って前進し、これを見た土肥実平も乗り入れ、続いて全軍が乗り入れた。 平家軍は“びっくり”して、
   猛烈に船から矢を放ち奮戦するが、一日戦い暮らして夜に入り遂に“退却”を始め四国へと落ち延び
   戦は源氏勢の勝利に終わったのであった。
    この「藤戸の先陣・戦功」により、佐々木盛綱は頼朝から備前の「児島」を賜ったと云う。

(5) 九月二十五日都では源義経が“五位”に叙せられ、「大夫の判官」と呼ばれた。 そして十月都では
   後鳥羽天皇の“大嘗祭”(新帝の即位後初の新嘗祭)が行はれ、源九郎義経が先陣に供奉したが、
   二年前の、安徳天皇の際の平家公達の供奉と異なり、似ても似つかぬ“やぼったさ”と酷評される。

(6) 源氏勢は、“藤戸の勝利”に続いて攻勢を加えれば、その年のうちに平家が壊滅する筈であったが、
   大将の範頼は高砂辺に軍勢を留めて、遊女などを集め酒宴に遊び戯れ月日を送り、遂に元暦も二年
   (1185)となってしまった。

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第九十九句「池の大納言関東下り」

2012-03-16 15:53:07 | 日本の歴史

          “平頼盛”のもとへ運び込まれる引き出物の数々

<本文の一部>

 (寿永三年(1184))同じく四月一日、鎌倉前(さき)の右兵衛佐(うひょうえのすけ)頼朝、正四位下に叙す。
もとは従五位下なりしが、五階を越え給ふこそめでたけれ。

 同じく三日、崇徳院を神にあがめたてまつる。むかし保元のとき合戦ありし、大炊の御門の末にこそ社を
造り、宮遷りあり。賀茂の祭りの以前なれども、法皇の御はからひにて、内には知ろしめされず。

 そのころ池の大納言頼盛、関東より、「下らるべき」よし申されければ、大納言関東へこそ下られけれ。

その侍に弥平兵衛(やへいびょうえ)宗清といふ者あり。しきりに暇申して、とどまるあひだ、大納言、「なに
とて、なんぢは、はるかの旅におもむくに見送らじとするぞ」とのたまへば、弥平兵衛申しけるは、「さん候。
戦場へだにおもむき給はば、まっ先駆くべく候が、参らずとも苦しうも候ふまじ。

 君こそかうてわたらせ給へども、西国におはします公達の御事存知候へば、あまりにいとほしく思ひまゐら
せ候。兵衛佐殿を宗清が預かり申して候ひしとき、随分つねはなさけありて、芳志をしたてまつりしこと、よも
御忘れ候はじ。故池殿の、死罪を申しなだめさせ給ひて、伊豆の国へながされ給ひしとき、仰せにて、近江
の篠原までうち送りたてまつりしこと、つねはのたまひ出だされ候なる。下り候はば、さだめて饗応し、引出物
せられ候はんずらん。

 さりながらこの世はいくばくならず。西国にわたらせ給ふ公達、また侍どもが返り承らんこと、恥づかしくおぼ
え候」と申せば、大納言、「何とて、さらば都にとどまりしとき、さは申さざるぞ」とのたまへば、「君のかうてわた
らせ給ふを『悪しし』と申すにあらず。兵衛佐もかひなき命生き給ひてこそ、かかる世にも逢はれ候へ」と、しき
りに暇(いとま)申してとどまるあひだ、大納言、力および給はで、四月二十日関東へこそ下られけれ。・・・・・・・

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<あらすじ>

(1)源頼朝は、寿永三年(1184)四月一日、飛び級?で“五段階特進”の正四位下に昇進する。 四月三日、
   後白河院の独自の計らいで“崇徳院”を祀る社を造り、墓所から御霊を迎え鎮め奉った。
   (第75代・崇徳天皇。保元の乱に敗れ、讃岐へ流され没した。)

(2) 池の大納言(平頼盛)(清盛の弟)は、頼朝から鎌倉へ下向するように伝えられる。
     
    重臣に弥兵衛・宗清と云う者あり、かつて「平治の乱」で宗清は頼朝を捕らえ、身柄を預かり助命に
    奔走したという“いきさつ”があった。

(3) 宗清は、主の頼盛に「平家一門が都落ちし西海に漂泊の今、敵の大将軍・頼朝のもとに下向すること
   は、この宗清には心苦しく一門の方々や朋輩の郎等たちに恥ずかしいこと・・・」と、鎌倉への伴を断る
   のであった。
     宗清に恩義を感じ心待ちにしていた頼朝は、随伴の中に居ないことを聞き、非常に残念そうであった
   と云う。

(4) 「平治の乱(1159)」で敗れ、殺される命の頼朝を“池の禅尼(清盛の義母)”が清盛に助命嘆願をした
   結果、死を減じられ伊豆へ流されたこともあり、池の禅尼の子である頼盛にも、その母と同じように恩義
   を感じて、折に触れて周りの者にそのことを述べていたと云う。

(5) 頼盛は、元々知行していた荘園や私領の全てを元通りに戻された上、鞍置馬(乗馬の装備をした馬)
   五百頭などを賜った。なお頼朝やその大名、小名たちから莫大な引き出物を頂戴して都に戻ってきた。

(6) 一方、維盛の北の方は大覚寺(歴代法親王の入寺ある)に隠れ住んでいたが、手紙も途絶えた夫維盛
   のことを思い心も休まらない。結局は維盛が屋島を出て高野に詣で、勝浦の沖で入水して果てたことを
   知り、髪を下してその冥福を祈るのであった。

(7) 頼朝は、流罪にとりなしてくれた“池の禅尼”への思いと同時に、清盛に嘆願した平重盛への恩義も、
   その子・維盛にも感じていて、もし頼ってくれたら“お助け”したものを・・・・・と言ったという。

(8) 寿永三年(1184)七月二十一日、都では第82代・後鳥羽天皇の“即位の式”が「三種の神器」の無い
   まま行われ、同じく八月六日に源範頼が三河守、源義経が左衛門尉(さえもんんのじょう)に任用された。

     この頃、“改元”あり、「元暦」となった・・・・・・・・・・・・・・

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第九十八句『維盛入水(これもりじゅすい)』

2012-02-27 08:44:14 | 日本の歴史

      
        沖の小島に上がり、松の木に“名跡”を書きつける「維盛」入道

<本文の一部>

 維盛、まず証誠殿の御前にに参り、法施参らせて、御山の様を拝し給ふに、心も言葉もおよばれず。
大悲擁護の霞は、熊野山にそびえき。霊験無双の神明は音無川に跡を垂れ、かの一乗修行の峰には、
感応の月くまもなし。六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。

 いずれもいずれもあはれをもよほさずといふことなし。夜もすがら祈念申されけるなかにも、父大臣
(おとど)治承のころこの御前にて「命を召し、後世をたすけさせましませ」と、申させ給ひけんこと思い出
でてあはれなり。「本地弥陀如来にておはしければ、摂取不捨の本願あやまたず、西方浄土へ迎へ給へ」
とかきくどく申されける。

 なかにも「故郷にとどめおきし妻子安穏」と祈られけるこそかなしけれ。「憂き世を厭ひ、まことの道に入り
給へども、妄執はなほ尽きず」とおぼえて、いよいよあはれまさりけり。

 それより船に乗り、新宮へ参り、神倉を拝み給ふに、「巌松高くそびえて、嵐妄想の夢をやぶる。流水清く
流れて、波煩悩の垢をそそぐらん」とおぼえたり。飛鳥の社を伏し拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御
山へ参詣す。三重にみなぎり落つる滝の水、数千丈までよじのぼり、観音の霊j像あらはれ、「補陀落山」と
も申しつべし。  霞の底には・・・・・・・・・

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 <あらすじ>

(1) 維盛は、先ず熊野本宮に詣で、都に残してきた妻子の無事を祈るが、現世への執着の思いが一層
   あわれをつのらせる。

(2) 次いで、船で新宮(速玉大社)に参り、更に熊野那智大社に参詣し、三重に漲り落ちる滝の霞の底に
   法華経を唱える声聞こえ、まさに釈迦が法華経を説いた地(霊山)を思はせる有様であったと云う。

(3)  那智籠りの僧の中に、三位(さんみ)の中将・維盛を知る者があり。安元二年(1176)の“後白河院の
   五十歳”の賀宴に、雅楽(青海波)を舞われた立派な“維盛”の晴れの姿を思い浮かべ、あまりの変わ
   りように驚き、悲しさに涙するのであった。
   (延慶本は、越中の前司・盛俊の叔父と伝える。盛国の弟・盛信か・・?)

(4) こうして熊野三山を滞りなくお参りし終わった“維盛”は、沖の小島(勝浦湾外の山成島)に上がり、
   松の木に “名跡”を書きつける。

    「祖父六波羅の入道、前の太政大臣・平の朝臣清盛公、法名浄海。親父小松の内大臣・重盛公、
      法名浄蓮。その子三位の中将・維盛、法名浄円。 二十七にて浜の宮の御前にて入水おはん」

     そして船に乗り一首・・・・
        生まれては つひに死にてふことのみぞ さだめなき世の さだめあるかな  

            (この世に生まれたからには、所詮“死”と云うことだけが、定めないこの世で唯一つ、
               確かな“定め”なのだ・・・・・・・・・・・)

                          寿永三年(1184)三月二十八日の頃のことであった

(5) 維盛は、西に向いて高らかに念仏を唱えながら、未だ妻子への未練を残すが、滝口入道に励まされ
   思いを断ち切って“入水”する。

     伴の与三兵衛重景と石童丸も共に海に入る。

(6) 舎人の武里も、耐え切れずに続いて海に入ろうとするのを滝口入道に諭されて思い留まる。
   そして滝口入道は高野山に帰り、武里は屋島に戻って、新三位の中将・資盛(すけもり)以下の方々
   に、これまでの経緯を詳しく伝えたのであった。

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第九十七句『維盛出家』

2012-01-19 15:13:30 | 日本の歴史

  出家した“平維盛”主従と出会う、かつての平家譜代の家人“湯浅七郎兵衛宗光”の騎馬武者の一行

<本文の一部>

 「維盛が身は雪山の鳥の鳴くらん様に『今日よ、明日よ』と物を思ふことよ」とて涙にむせび給ふぞいとほし
き。塩風に痩(や)せくろみ給ひて、その人とは見えねども、なべての  人にはまがふべくもなし。
その夜は、滝口入道が庵室に帰りて、夜もすがら、昔、今のことをこそ語り給ひけれ。聖が行儀を見給へば、
至極甚深(しごくじんじん)の床のうへには、真理の玉をみがくらんと見え、後夜(ごや)、晨朝(じんでう)の鐘の
こえは、生死(しょうじ)のねぶりをさますらんとおぼえたり。

 世を遁(のが)るるべくんば、かくもあらましくぞ思はれける。夜もすでに明けければ、三位の中将、戒の師を
請じたてまつらんと、東禅院の聖(ひじり)智覚上人を申し請けて、出家せんと出でたち給ひけるが、与三兵衛
石童丸を召して、「われこそみちせばく、のがれがたき身なれば、今はかくなるとも、なんじらは都のかたへ
のぼり、いかならん人にも宮仕ひ、身をたすけ、妻子をほごくみ、また維盛が後の世をもとぶらひなんどもせよかし」とのたまへば、重景も石童丸も、はらはらと泣きて、しばしはものも申さず。・・・・・・・・・・

<あらすじ>

(1) 維盛は、滝口入道の庵室で語り明かし、自らはしゅっけしようと定め、伴に連れる与三兵衛重景と石童
   丸を呼んで事情を伝え、『お前たち二人は都へ戻り、それぞれの生計を立てよ』と諭す。

       重景は、父の景康が仕えた重盛公の為に討死し、これ故に殊の外のお引き立てを受けたこと。自分と
   しては命に代えても維盛公にお仕えしてお守りする覚悟の身であるのに、今、その維盛公を見捨てよ、
   との命に、わが身の至らなさを恥じるばかり・・・と、自ら髻を切り、滝口入道に髪を剃らせて出家の身と
   なった。
  
    これを見た石童丸が、『われもお供いたしまする』と、これ又、自ら髻を切り放ってしまった。

   それらを見ていた維盛は、両掌を合わせると『あゝ出家前の姿で、妻子にいま一度逢いたかった』と
   一息深く吐き出した。やがて瞑想し教句を三べん唱えると、同じく滝口入道の剃刀によって髪を切り
   落とすのであった。

    維盛と重景が同じ年の“二十七歳”、石童丸が“十八歳”であった。

(2)  髪を落とした維盛は、屋島から連れてきた舎人の武里を呼び、『そなたは決して都へ上ってはならぬ
   もし北の方が、そなたからこの場の様子を聞いたら、即座に尼になるであろう。これから屋島へ立ち帰り
   新三位の中将(資盛)に、これまでの経緯を話し、更に平家に伝わる家宝(唐皮の鎧と小烏の太刀)を、
   預けてある平資能(平家重臣)から受け取って資盛に託し、もし平家が立ち直ったら、わが子の六代に
   与えるよう・・・・』と、くれぐれも言い含めるのであった。

(3)  山伏姿に身をやつした維盛入道一行は、紀伊路を南に進んで早くも岩代王子の社前にさしかゝるが、
   前方から七~八騎の武士の一団に出会う。すわっ!捕われるかも知れぬと腰の刀に手をかけていた。
   しかし騎馬武者の一団は馬から降りると丁重に会釈をしながら通り過ぎて行ったのである。

    これこそ、かつて平家譜代の家人・湯浅七郎兵衛宗光の一行で、様を変えた維盛一行の“人目を避け”
   る風を感じとり、あえて名を名乗らずに通り過ぎたのである。
    
    日本国の権力者であった維盛の、あまりの変わりように、ただ涙するのであった。
  
   
 
  

 

 

 

 


第九十六句『高野の巻』

2011-12-05 21:25:43 | 日本の歴史

 

  “斉藤滝口入道(時頼)”は、“平維盛”主従を大塔や金堂、大師の御廟を案内して回る。

<本文の一部>

 さるほどに三位の中将維盛、高野へのぼり、ある庵室にたち寄り、滝口たづね給ひ
ければ、内より聖(ひじり)一人出でたり。すなはち滝口入道(斉藤時頼)これなり。この聖
は夢の心地して申しけるは、「このほどは屋島にわたらせ給ふとこそ承つて候ひつるに、
なにとしてこれまでつたはり給ひて候ふやらん。さらにまぼろしとも、うつつともおぼえず」
とて、涙をながす。

 中将、見給ふに、本所(滝口の詰所)にありしときは、布衣(ほい)に立烏帽子、衣文
かいつくろひ、鬢をなでて、優なりし男の、出家ののちは、いまはじめて見給ふ。いまだ
三十にだにたらぬ者の老僧すがたに痩せおとろへ、濃き墨染の衣に同じ袈裟、香のけ
ぶりに染みかほり、さかしげに思ひ入りたる道心すがた、うらやましう思はれけん。

「漢の四皓が住みけん商山、晋の七賢がこもりし竹林のすまひもかくや」とおぼえてあは
れなり。・・・・・・・・・・・・・

         (注)   カッコ(  )内は“注釈記注 ”で本文ではありません。
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

<あらすじ>

(1)  三位の中将・平維盛は、高野山に上り、かつて自分に仕えた斉藤時頼、現在は
   
出家した“滝口入道”に逢う。

    かつての滝口武者の雄姿はそこに無く、三十歳にもならぬ身でありながら、行い
   澄ました老僧のごとき修行に徹した“高野の聖(ひじり)”の姿に感慨を覚えるので
   あった。

    維盛は、平家の屋島の館を抜け出して、都に残した妻子への想いを振り切って
   高野のお山へ登ってきた旨を“滝口入道”に訴える。

    “滝口入道”は、維盛主従を広い高野の山内を、大塔や金堂、弘法大師の御廟
   などを案内して歩いた。

    
 この他、六十代醍醐帝の時の話にさかのぼり、勅使と共に“大師”へのお召し物をお届
 した般若寺の僧正・観賢や、真言宗石山寺の護持僧・淳祐にかかわるエピソードを詳し
 く伝え、更に人里離れた高野のお山の静寂な佇まいを伝えている。

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