* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第五十句「奈良炎上」

2006-10-24 14:53:53 | 日本の歴史

      平家の軍勢、福井の友方ら、”命”により、民家にをつける。
       (折からの強風でやがて、興福寺や東大寺などを焼く大火とな
        って、多くの僧たちが焼け死ぬことになる。)

  <本文の一部>

 都には、「高倉の宮(以仁王)、園城寺へ入御のとき、南都の大衆同心して、
あまつさへ御迎へに参る条、これもって朝敵なり。さらば奈良をも攻むべし

といふほどこそあれ、南都の大衆おびたたしく蜂起す。

 摂政殿(藤原基通)より、「存知の旨あらば、いくたびも奏聞にこそおよばめ」
と仰せけれども、ひたすら用ゐたてまつらず。有官の別当忠成を御使にして下さ
れければ、「しや乗物より取ってひき落せ。もとどり切れ」と騒動するあひだ、
忠成色をうしなひて逃げのぼる。

 つぎに右衛門佐親雅を下さる。これも「もとどり切れ」と大衆ひしめきれば、
取る物も取りあへず。そのときは、勧学院の雑色二人がもとどり切られにけり。

 また南都には、大きなる毬杖の玉をつくりて、これは平相国(清盛)の頭と名
づけて、「打て」「踏め」なんどぞ申しける。「言のもれやすきは、禍を招く
なかだちなり。事つつしまざるは、敗れをとる通なり」といへり。

 この入道相国(清盛)と申すは、かけまくもかたじけなくも、当今の外祖にてま
します。しかるをか様に申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞ見えたり
ける。

 太政入道(清盛)か様の事ども伝え聞きて、いかでかよしと思はるべき。
「かつうは南都の狼藉をしずめん」とて、備中の国の住人、瀬尾の太郎兼康を
大和の国の検非違使に補せられ、兼康五百余騎にて大和の国へ発向したりしを、
大衆起つて、兼康が勢散々に打ち散らし、家の子、郎等二十余人が首を取って、
猿沢の池のはたにぞ懸けならべたる。

 入道相国(清盛)大きに怒って、「さらば南都を攻めよ」とて、やがて討手を
さし向けらる。大将軍には入道の四男、頭の中将重衡、副将軍には中宮亮通盛、
その勢四万余騎にて南都へ発向す。

 南都の大衆も、老少きらはず、七千余人、兜の緒をしめ、奈良坂本、般若寺
二箇所の城郭、二つの道を切りふさぎ、在々所々に逆茂木をひき、掻楯かいて
待ちうけたり・・・・・・・・

 大衆はみな徒歩立ちになって、打物(太刀)にてたたかふ。官軍は馬にて駆け
むかひ、あそこ、ここに、追っかけ、追っかけさしつめ、ひきつめ、散々に射
れば、おほくの者ども討たれにけり。卯の刻(午前六時頃)に矢合せして、一日
戦ひ暮らしぬ・・・・・・・・

 夜いくさになりて、暗さはくらし、大将頭の中将(重衡)、般若寺の門の外に
うち立ちて、「同士討ちしてはあしかりなん。火を出だせ」と下知せられける
ほどこそあれ、平家の勢のなかに、播磨の国の住人、福井の庄司二郎大夫友方
といふ者、楯をわり、たい松にして、在家に火をぞつけたりける・・・・

                (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。

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  <あらすじ>

(1)都では、高倉の宮(以仁王)が、園城寺へ入る時、奈良の諸寺が同調して、
   しかも宮をお迎えにまで参ったのは、まさに”朝敵”に他ならず、奈良を
   攻めるべし・・、との評議があり、これを聞き、南都の大衆(だいしゅ・
   僧兵たち)は多数蜂起して、騒然となる。

    これを鎮めさせようと、相次いで使者を出すが、いづれも僧兵(大衆)た
   ちに散々に乱暴されてしまう有様で、面目を失ってしまう。

(2) 南都では、木製の毬を”清盛”と名づけて、これを打ったり踏ん
   だり…南都の大衆たちの、傍若無人の振る舞いを伝え聞いた清盛は、
   瀬尾の太郎兼康を治安警察の官に任じて、蜂起を制止させようと大和へ
   向わせるが、兼康らは散々に打ち敗られ、多数の家来たちの首が猿沢の
   池のほとりに、見せしめに並べられてしまう始末となる。

(3)ついに清盛は、重衡(清盛四男(史実は五男))を大将軍に四万余騎の大軍
   を差し向ける。南都の大衆たちは、老いも若きも集まり七千余人でこれ
   を迎え撃ち、一日中激しい戦いに暮れるが、多くの者は討たれてしまう。

(4)夜に入って、南都側の二箇所の城郭が破られ、平家側は野戦の照明のため
   にと、民家をつける!折からの激しい強風にあおられて、またたく間
   に火は広がり、やがて興福寺(摂関家・藤原氏の累代の寺)や東大寺(聖武
   天皇の御願寺)までもが焼け落ちてしまう惨状となった。

(5)この戦いで、討死した千余人をはるかに上回る”焼け死んだ者”三千五百
   余人と記される。

      後に、鎌倉に送られた”重衡”は、この「南都炎上」の張本人
     として南都の大衆に引き渡されて、”首を晒される”ことになる
     のである。(第百十二句「重衡の最後」)

     
      前代未聞の、この平安末期の”奈良諸寺の焼打ち”は、後に
     十六世紀の織田信長の”叡山(延暦寺)焼打ち”をも上回る衝撃を
     世の人に与えたと評される。