* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第七十八句「妹尾最後」

2010-04-23 09:46:25 | 日本の歴史

  画面左上は、肥満で動けない嫡男の小太郎・宗康を残して落ち行く
   瀬尾の太郎兼康の一行。

  「命惜しさに、一人息子を捨てたと言われるのは恥ずかしい」と、
  息せき切って小太郎のところへ戻ったところ(画面の左下)。

   画面右は、瀬尾兼康を追ってきた五十騎ばかりの木曽源氏の軍勢。

<本文の一部>
 平家は備中の国水島の軍に勝ってこそ、会稽の恥をばきよめけれ。
木曽これを聞き、一万余騎にて馳せ下る。

  ここに平家の侍に聞こふる強者、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康と
いふ者あり。去んぬる五月に砺波山にて生捕にせられたりしを、「聞
こふる剛の者なれば」とて、木曽惜しんで切られず。加賀の国の住人
倉光三郎成澄にあづけられたりけるが、瀬尾、あづかりの倉光に申し
けるは、「木曽殿、山陽道へ御下りとうけたまはり候。兼康が知行の
所、備中の瀬尾と申す所は、馬の草飼よき所にて候。申して、御辺賜
はらせ給へかし。

 去んぬる五月よりかひなき命を助けられたてまつり候へば、げに、
いくさ候はば、まっさき駆けて命を奉らうずるにて候」と申せば、倉
光の三郎この様を木曽左馬頭殿に申す。木曽殿これを聞
き、「きやつ
は剛の者と聞くが惜しければ、生けおきたるなり。具して下りて案内
者させよ」とぞのたまひける。・・・・・・・

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<あらすじ>

瀬尾兼康・宗康の親子が討ち取られる
 

(1) 寿永二年(1183)五月、般若野の戦いで“木曽勢の今井四郎”は
  平家(平盛俊)を破ったが、この時“砺波山”で捕らわれた平家の
  強者・瀬尾太郎兼康という者、聞こえた豪の者とてこれを惜し
  んで、木曽義仲は斬首せず配下の倉光三郎成澄に預けた。

(2) 瀬尾兼康は、木曽義仲に忠節を尽くすと思わせて、山陽道を下
  る途中、備の国(本文では備の国となっているが)三石の宿で
  酒を勧めて、旅の疲れもあって前後不覚に酔いつぶれた倉光一行
  を全て刺し殺してしまう。

   これを知った義仲は、恩を仇で返されたと激怒して今井四郎
  
に命じて「追っかけて切れ!と」。

(3) 今井四郎は、三千余騎にて瀬尾親子を追いかけて、遂に兼康
  嫡男の宗康を討ち取り、鷺の森で“さらし首”にかけた。

義仲が、行家に讒言される

(1) 義仲は、備中の国から屋島(平家軍)へ渡るばかりに準備中に、
  都の留守役からの飛脚で「源の十郎行家が、“義仲”のことを
  悪しざまに、有ること無いこと陥れるような中傷讒言を“後白河
  院”に伝えているので、一刻も早く都へ戻るように・・」と報せ
  てきた。

   義仲は、急遽“戦さ”を中断して都へ駆けつける。義仲が都
  へ入ったことを知って驚いた 行家 は、急いで都を立ち退き
  播磨の国へ下っていった。

行家は、平家軍に戦いを挑み敗れて落ちて行く

(1) 一方、平家は 平知盛 の二万余騎が千艘の船に分乗して播磨の
  “室山”に陣を敷いた。

  これを知った 行家木曽義仲との仲直りの手土産にと、二千
  余騎を率いて室山の平家軍に攻撃をかけ、一日戦闘を続けるも
  のの多勢に無勢、散々に討ち取られて引き退き、落ちて行くの
  であった。

   結局、行家 は播磨を 平家 に押さえられ、都 は 義仲 をは
  ばかって、河内へ逃れたと云う。

  


第七十七句「水島合戦」

2010-04-19 14:55:00 | 日本の歴史

  平家の平知盛率いる一万余騎が、木曽勢の矢田義清七千余騎を攻める

<本文の一部>

平家は讃岐の屋島にありながら、山陽道八箇国、南海道六箇国、都合十四箇国
を討ち取れり。木曽左馬頭これを聞き、「やすからぬことなり」とて、やがて
討手をつかはす。大将軍には足利の矢田判官代義清、侍大将には信濃の国の住
人海野の弥平四郎幸広を先として、都合その勢七千余騎にて山陽道を馳せくだ
る。

 平家は讃岐の屋島にましましければ、源氏は備中の国水島が磯に陣をとる。
たがひに海を隔ててささへたり。

 閏十月一日、水島がわたりに、小船一艘出で来たり、「海士の釣船か」と見
るほどに、平家の方より牃の使いの舟なりけり。これを見て、源氏の舟五百余
艘の船に乗り、押し寄せたり。

 <あらすじ>
(1) 讃岐の屋島に本営を置いた“平家軍”は、山陽道(岡山、広島、山口等)
  八か国と南海道(和歌山~四国)六か国を、またたく間に支配下に置いて
  しまった。
   木曽義仲は、「これは容易ならぬ事態じゃ」と、矢田義清(大将軍)
  と海野の四郎幸広(絵巻では“行広”)を侍大将に、七千余騎の攻撃軍を
  山陽道へ向かわせ、備中(岡山)の水島に陣を取り、平家軍の屋島と海を
  隔てて向かい合った。

(2) 寿永二年(1183)閏十月一日、平家方から開戦の通告状が届けられると、
  浜辺に干し上げてあった源氏の船五百艘余りを一艘残らず、我先にと
  海中に降ろした。
      平家方は、新中納言・平知盛を大将軍に、平教経を副将に千余艘一万
  余騎で、水島の瀬戸に攻め寄せる。

(3) 平家勢は、教経の下知で船尾と船首の綱を結び、“歩み板”を敷き渡したの
   で船の上が陸地にように平らになり、兵士たちは縦横に活躍できた。
   壮絶な戦いが繰り広げられたが、船の戦さを得意とする平家勢に、た
  ちまち木曽源氏の侍大将・海野幸広
が討ち取られ、これを見た総大将の
   義清は主従で奮戦するものゝ、どうしたことか船を転覆させてしまい一同
   水死してしまったと云う。
     源氏の兵たちは、二人の大将が討ち取られて総崩れとなり、船を捨てて我
   れ先にと逃走していった。

        「水島の戦い」は、こうして平家軍大勝でを終わったのだった。