* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第八十句「義経熱田の陣」

2010-06-21 10:00:09 | 日本の歴史

  木曽義仲の悪行を訴える“大江公朝”らに、直接鎌倉に下向して
  訴えるように頼む“範頼”と“義経”(右側、縁の上の人物)

<本文の一部>

 木曽左馬頭、郎等どもを召し集めて、「そもそも、義仲、十善の君
に向かひたてまつり、いくさは勝ちぬ。主上にやならまし、法皇にや
ならまし。主上にならんと思へば、童にならんも、しかるべからず。
 法皇にならんと思へば、法師にならんも、をかしかるべし。

よしよし、関白にならん」とぞ言ひける。大夫覚明すすみ出でて申し
けるは、「関白には、大織冠の御末、執柄の君達こそならせ給ひ候ふ
なれ」と申しければ、「さては力およばず」とてならず。

 法皇を見たてまつりて、「院」と申せば、「法師」と心得、主上の
幼くて御元服なかりけるを見まゐらせては、「童」と心得たりけるぞ
あさましき。院にもならず、関白にもならず、院の厩の別当におしな
って、丹波の国を知行しけり。

 前の関白松殿の姫君をとりたてまつり、婿になる。

 北面に侍ひける宮内の判官公朝、藤内左衛門時成、尾張の国へ馳せ
下る。これはいかにといふに、「鎌倉の兵衛佐の舎弟、蒲の冠者範頼
九郎冠者義経、二人都へ上るが、尾張の国熱田の大宮司がもとにおは
する」と聞きて、木曽が悪行のこと訴へんがための使節とぞ聞こえし

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<あらすじ>

(1) 院の御所を攻めて“戦さ”に勝利した“義仲”は、「一天万乗の
  君に対し、戦さを起こして勝利した。この身は“天皇になろうか
  法皇になろうか」、天皇となって少年の姿になるのも具合が悪い
  し、法皇になって法体になるのもおかしいこと、よし関白にでも
  なろうか・・・」と述べて、「関白には藤原鎌足公の子孫、関白
  家の若君でなければなれませぬ・・」と、たしなめられて、結局
  は武士らしく牛馬管理の長官になったと言う。

(2) 寿永二年(1183)十一月二十三日、義仲は三条の中納言以下の公家
  たち四十九人もの官職を召し上げて、幽閉してしまう。これは
  治承三年(1179)の清盛による大粛清を上回るもので、都の人々を
  驚かせた。

(3) 一方頼朝は、平家の三年分の滞納年貢を用意して、源範頼義経
  に命じて運ばせていたが、途中で“都に戦さあり”と聞き、一旦
  頼朝に事情を報告しようと、尾張の熱田大神宮に足を留めていた
   
   そこへ都から“後白河院”の密命を受けて“木曽勢の悪行”の
  仔細を伝えに“宮内判官・大江公朝”と“藤内判官・時成”の
  二人が駆け付けたのであった。

(4) 大江公朝らは、義仲による法住寺合戦で“八条”や天台座主
  明雲僧正などが討たれたことを訴えるが、直接に鎌倉へ下向する
  ように義経から勧められ、直ちに鎌倉へ向かった。

(5) 公朝らの訴えを受けた頼朝は、「役にもたたぬ鼓判官・知康など
  の言を入れ、御所を焼かれ、あたら多くの高僧・貴僧を死にいた
  らしめたこと誠に怪しからぬ」と述べ、この後は知康を召し使わ
  ぬようにと、飛脚を立てて後白河院に奏聞したと言う。

(6) 木曽追罰の頼朝の討手が都へ上ると聞いた義仲は、すぐに四国に
  陣取る“平家”に「都へ上って、一緒になって頼朝を討とう」
  と申し入れた。
   しかし平家では、時忠や知盛らが「平家は、天皇に従い御守り
  している、木曽は直ちに降参せよ・・」と返答する。
   義仲はこれを受け入れなかった。

(7) 治承三年(1179)の政変で配流された藤原基房は、この頃 義仲
  組み“政界復帰”を画策していた。さきに官職を召し上げ幽閉さ
  れた公家たちを全員、義仲に働きかけて全て許させた。

   そして、三男・師家を内大臣の摂政につけさせるのであった。

(8) 寿永二年(1183)も、平家は西国に、頼朝は東国に、都は木曽が
  支配し無理を強行する有様で、諸国乱れて都への年貢もまゝなら
  ず、不協和音のまゝに暮れてゆくのであった。

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