木曾義仲軍の攻略に向う、「城四郎長茂」勢力(右側の軍勢)
”はかりごと”で赤旗(平家の旗)を振りかざす「木曾の軍勢」(左側)
<本文の一部>
五月二十四日、改元あって、「寿永(じゅえい)」と号す。
その日越後の住人、城の四郎資茂(すけもち)、越後守に任ず。「兄資長逝去のあ
ひだ、不吉なり」とて、しきりに辞し申しけれども、勅命なれば、力およばずして、「資
茂」を「長茂(ながもち)」と改名す。
同じく九月二日、城の四郎長茂、越後、出羽、会津四郡の兵ども引率して、
都合その勢四万余騎、木曾追罰のために、信濃の国へ発向す。
九月十一日、横田川原に陣をとる。
木曾はこれを聞き、三千余騎にて、依田の城を出でて馳せ向ふ。信濃源氏
に井上の九郎光盛がはかりごとにて、にはかに赤旗を七ながれつくり、か
しこの峰、ここの洞より、案内者なりければ、赤旗どもを手々にさしあ
げ、さしあげ、寄りければ、城の四郎これを見て、「何者か、この国にも
平家の方人(かたうど)する人がありけるが、着きぬよ」とて、いさみのの
じるところに、次第に近うなりければ、合図をさだめて七手が一つにな
る。三千余騎一所に、鬨をどっとぞつくりける。用意したる白旗ざっとさ
しあげたり。
越後勢ども(平家側)、「敵は何の十万騎といふことかあらん。いかにも
かなふまじ」とて、色をうしなふ。にはかにふためき、あるいは川に追ひ
入れ、あるいは悪所に追ひ落され、たすかる者はすくなう、討たるる者ぞ
おほかりける。城の四郎、頼みきつたる越後の山野の太郎、会津の乗湛房
なんどいひける兵ども、そこにてみな討たれぬ。わが身もからき命生きて
川をつたって越後の国へ引きしりぞく。・・・・・
(注)カッコ内は本文ではなく、注釈記入です。
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<あらすじ>
<城の四郎、越後守に任ぜられ”木曾追討”に向う>
(1)五月二十四日、年号を”寿永”(1182)と改めた。
越後の住人、城の四郎資茂(すけもち)が越後守に任ぜられた。
兄・資長の死去(前回の第五十九句)後のこともあって、辞退した
が、勅命のため任官して、名前を”長茂(ながもち)”と改名した。
(2)同じく九月二日、長茂は軍勢四万騎をもって「木曾追討」のために
信濃の国へ向って出発する。
<木曾勢の”はかりごと”によって、城の四郎側は惨敗する>
(1)迎え撃つ木曾勢の”井上九郎光盛”(信濃源氏)は、”はかりごと”で
平家の赤旗を造り、自らの三千騎をあちこちの峰に分けて、赤旗をさ
し上げながら近づき、城の四郎長茂の軍勢に接近したところで、源氏
の”白旗”に変えて一斉に襲いかかった。
(2)越後勢(城の四郎長茂)は、平家の”赤旗”が近寄ってくるので安心し
て進んでいたところ、いきなり”源氏”の”白旗”に変わったために
浮き足立って、名だたる勇者・豪傑ともども多数の者が討ち取られて
城の四郎長茂は、命からがら越後へ落ち延びたという。
<越後勢の敗戦に、中央の平家は無頓着、世人は呆れる>
(1)九月十六日、越後勢の敗戦などを問題にもせず、平宗盛の卿は
”大納言”に復任して”内大臣”となり、平家一門のほか公卿など
随行して華々しく拝賀に参上したと伝えられる。
(2)東国や北国に”源氏”の武士が立ち上がり、今にも都へ攻め上ろうと
する”非常時”に、このような華やかな昇進の祝い行事にうつつを
ぬかす平家一門の有様に、世人もいささか”あきれ顔”の様子。
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「平成の世相」
親が子を殺し、子が親を殺す・・息を呑むような事件が
日々起こる平成の世!
家族構成も、身内の扶養意識も全く変わってしまった
かのような今の社会に、人々の欲望だけが突出している
ように見えてなりません。
人間が欲求不満を持つのは、物が足らないことより
絶えず新しい欲望に駆り立てられることによるのだ!
・・・・と、大昔のえら~い人が言ってますが・・・