* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第五十二句「紅葉の巻」(こうえふのまき)

2006-12-17 11:58:34 | 日本の歴史

   八十代・高倉帝が「もみじ」を愛でて、「紅葉の山」を造らせる。

  <本文の一部>

おほかたは、賢王の名をあげ、仁徳をなほ施させましますことも、君御成人
ののち、清濁を分たせ給ひての上のことにこそあるに、この君、無下に幼少
の御時より、性を柔和にたもたせまします。

 去んぬる承安のころほひ、御在位の初めつかた、御年未だ十歳ばかりにも
やならせましましけん、あまりに紅葉を愛させ給ひて、北の陣に小山を築か
せ、櫨(はじ)や楓(かえで)、色いつくしく紅葉したるを植えさせて、
「紅葉の山」と名づけて終日に叡覧あるに、なほあきたらせ給はず。

 しかるを、ある夜の嵐はげしう吹いて、紅葉みな吹き散らし、落葉すこぶ
る狼藉なり。殿守のとものみやづこ「朝ぎよめす」とて、これをことごとく
掃き捨てけり。のこる枝、散れる木の葉をかき集めて、風すさまじかりける
朝なれば、縫殿の陣にして酒あたためてたべける(飲む)薪にこそはしてんげれ。

 奉行の蔵人行幸より先にいそぎ行きて見るに跡かたなし。「いかに」と問
ふに、「しかじか」と答ふ。
「あな、あさまし(一大事)。」さしも君の執しおぼしめされつる紅葉を、か
様にしけることの心憂さよ。知らず、なんぢら、禁獄、流罪にもおよび、わ
が身もいかなる逆鱗にかあづからんずらん」など申しけるところに、主上い
とどしく(いつもより早く)夜の御殿を出でさせ給ひもあへず、かしこに行幸
なって紅葉を叡覧あるに、なかりければ、「いかに」と御たづねありき。

 業忠なにと奏すべきむねもなうして、ありのままに奏聞す。天気ことに御
心よげにうち笑ませ給ひて、「『林間に酒をあたためて、紅葉を焼く』とい
う詩の心をば、さればそれらには誰が教へけるぞや。やさしうもつかまつり
けるものかな」とて、かへって叡感にあづかるうへは、あへて勅勘なかりけり。

・・・・ある辻に、あやしの女童部の長持のふたさげて泣くにてぞある。
「いかに」と問ふに、「主の女房の、院の御所にさぶらはせ給ふが、このほ
どやうやうにして仕立てられたる御装束をもちて参るほどに、ただ今男二三
人まうで来て、奪ひ取りてまかりぬるぞや。いまは装束がさぶらはばこそ、
御所にもさぶらはせ給はめ。また、はかばかしうたちやどらせ給ふべき親し
い御方もさぶらはねば、これを案じつづくるに泣くなり」とぞ申しける。

 女童を具して参りつつ、この様を奏聞す。主上は聞こしめし、「あな無惨
や。何者のしわざにてかあらん」とて、龍顔より御涙をながさせ給ふぞかた
じけなき。「尭の民は尭の心のすなほなるをもって心とせり。かるがゆゑに
みなすなほなり。今の世の民は、朕が心をもって心とするがゆゑに、かだま
しき(心がねじけてる)者朝にあって罪を犯す。これわが恥にあらずや」とぞ
御嘆きありける。

 「さて、取られつる衣は何色ぞ」と御尋ねありければ、「しかじか」と申
す。建礼門院(平徳子)そのころ中宮にてましましけるとき、その御方へ、
「さ様の色したる御衣や候ふ」と御尋ねありければ、さきのより、はるかに
いつくしきが参りたりけるを、くだんの女童にぞ賜ばせける。
「いまだ夜深し。またもさるめにもやあはん」とて、上日の者つけて、主の
女房の局まで送らせ給ふぞかたじけなき。

 されば、あやしの賤の男、賤の女にいたるまで、ただこの君、千秋万歳の
宝算(帝の年齢)を祈りたてまつるに、わずかに二十一歳にて崩御なるこそ悲
しけれ。

      (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  <あらまし>

(1) 高倉帝のご在位の初めころ、大へん紅葉を愛で、このため宮中の縫殿寮の近くに
   小山を築かせて、ハゼノキやカエデ等を植え、「紅葉」と名づけて、それこそ
   一日中ながめていられたと云う。

(2) ある夜のこと、嵐が吹き荒れて”紅葉”を吹き散らし、庭に”もみじ葉”が散乱してし
   
まった。 お掃除の雑役の者が、朝これをキレイに掃き清めて、枝や木の葉を集め
   て、風の冷たい朝だったので、酒を温める薪にして燃やしてしまった。

(3) 行幸からお戻りになった高倉帝は、「紅葉の山」へお出でになって見ると”もみじ
   が無い!、おたづねになると、奉行の蔵人(後白河院の近習:平業忠)はオロオロ
   とするが、天皇のお叱りを覚悟して、しかたなく有りのまゝを奏聞する。

(4) ところが、高倉帝は殊のほかご機嫌よく、にっこりとほゝえみ「林間に酒をあたためて
   紅葉を焼(た)く」の詩の心を、誰があの者に教えたか、風流なものよ・・・と、かえって
   お褒めあずかったほどで、何のお咎めもなかった。

         このは、中唐の詩人で、李白・王維と並ぶ大詩人といわれた
         ”白居易(白楽天)”の詩。

(5) 安元(1175~1176)の頃、眠れぬ深夜に”叫び声”をお聞きになった帝の仰せで、
   当番の者が夜の街を走り回り、泣いている女童を見つけ、何があったかを聞くと、
   「院御所にお仕えするご主人(女房)が、せっかく仕立てた装束を今、男たちに奪わ
   れてしまった・・・」と、泣くのであった。

(6) この女童を御所に連れて行き、ことの次第を申し上げると、帝は仁政の行き届かぬ
   ことを恥じ、盗られたものよりはるかに立派な装束を女童に与え、さらに当番の者を
   付き添いに、送り届けさせたのであった。

       このように下々の者までにも慕われた、この帝が僅か二十一歳の若さでお亡
      くなりになったのは、大へん悲しいことだと人々の噂になったと云う。

      (注) この仁慈説話は、実は80年ほど前の(73)堀川院のお話を、(80)高倉院
         ことと誤って伝えられたとされます。