* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第六十六句「義仲山門牒状」(よしなかさんもんてふじゃう)

2009-04-15 12:55:24 | 日本の歴史

   中央の“義仲”に対し、比叡山への訴え状を書く大夫坊“覚明

<本文の一部>

 木曾(義仲)は越前の国府に着いて合戦の評定あり。井上の九郎、高梨の冠者、山田の次郎、仁科の次郎、長瀬の判官代、吾妻の判官代、樋口の次郎、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太以下、しかるべき者ども百人ばかり前に並みゐたりけるに向かって、木曾のためひけるは、「そもそも、われら都にのぼらんずるに、近江の国を経てこそのぼらんずるに、例の山法師のにくさは、また防ぐこともやあらんずらん。蹴破って通らんことはやすけれども、平家こそ、当時は仏法をほろぼし、僧をも失へ。それを、守護のために上洛せんずる者が大衆にむかって合戦をせんずること、すこしもちがはざる二の舞なるべし。これこそ安大事(案外の難問題)のことなれ。いかにせん」とぞのたまひける。

 木曾の大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「さん候。衆徒は三千人にて候。必定、一味同心なることは候はじ。みな思ひ思ひにてこそ候はんずれ。
まづ牒状を送りて御覧候へ。事の様は返牒に見え候はんずらん」。
「さらば書け」とて、覚明に牒状を書かせて、山門へこそ送られけれ。

『義仲つらつら平家の悪行を見るに、保元・平治よりこのかた、長く人臣
の礼を失ふ。しかりといへども、貴賎手をつかね、・・・・・・・』
   
         (注)カッコ内は本文ではなく、注釈記入です。

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     <あらすじ>

 義仲、比叡山に訴えの文書を送る
(1) 義仲は、越前の国府(現:福井県武生)で、主だった者たち百人ほどを前
  に合戦のための評定を行った。「我々が都に攻め上るに際しては、近江
  の国を通ることになるが、比叡山の法師達が妨害をするかも知れぬ。蹴
  散らして通ることはできるが、それでは平家のやっていることの二の舞
  になってしまう。(仏法をないがしろにし、僧侶を殺している)どうした
  ものか・・・?」と諮る。

(2) 大夫・覚明は、「山門の大衆たちの心はまちまちでしょうから、先ず
  訴えの文書を送って打診するのが良いでしょう」と申し上げる。
   義仲は、「もっともである、すぐにも書状を書くように・・」と命じ
  覚明は直ちに長文の書状を書きあげて、叡山に送り届ける。

比叡山は詮議し、源氏(義仲)に味方する返書を送り返す
(1) 山門の大衆たちの意見は、平家の心を寄せる者も、源氏びいきの者もあ
  り議論百出する。しかし老僧たちが時勢を洞察して源氏への加担を決め
  一同もこれに従うことになり、直ちに返書をしたため国府の義仲の陣所
  に届けたのであった。

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  【大夫坊覚明
     比叡山では“法然”の弟子となり、“親鸞”とも親しくした。
    この後、南都・興福寺に入り“得業・信救”と名乗っている。

     出家前、藤原氏の学問所:勧学院に出仕、非常に学才に長けて
    いたと云われる。

     源義仲の書記役となり、“木曾の頭脳”と称された。

     以仁王を迎えた園城寺の援軍依頼の返牒に「清盛は平家のカス
    武家のゴミ・・」と書いて、後に清盛の知るところとなり、激怒
    した清盛は“刺客”を向けたとある。(源平盛衰記)