* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第六十八句「法皇鞍馬落ち」

2009-06-03 10:59:51 | 日本の歴史

  都落ちの途中から引き返して“藤原俊成卿”に歌を託す“平忠度

<本文の一部>

  同じき二十日(寿永二年・1183)、肥後守貞能(平家の重臣)、鎮西の謀叛た
 ひらげ、菊池、原田、松浦党(九州の豪族たち)を先として、三千余騎をあひ
 具し、都へ参りけり。西国ばかりは、わずかにたひらげたれども、東国、北
 国の源氏いかにもしづまらず。

  同じき二十二日、夜半ばかりに、六波羅の辺、大地をうちかへしたるごと
 くに騒ぎあへり。馬に鞍をおき、腹帯しめ、物の具東西に運び隠しあふ。
 明けてのち聞こえしは、美濃の源氏に佐渡の右衛門尉重貞といふ者あり。こ
 れは一年(ひととせ)保元の合戦に、八郎為朝がいくさに負けて落ちゆきける
 を搦めまゐらせたりし勲功に、衛門尉になりたり。八郎搦め取るとて、源氏
 どもに憎まれて、去年平家をへつらひけるが、夜半ばかりに馳せ参って、
 「木曽すでに近江の国に乱れ入る。その勢五万余騎、東坂本にみちみち
 て、人をも通さず。

  郎等に楯の六郎親忠、木曽の大夫覚明、六千余騎天台山(比叡山)にに攻
 めのぼり総寺院を城郭とす。大衆みな同心して、ただいま都に攻め入る」
 と申したりけるゆゑとかや。

  平家これを防がんがために、瀬田へは新中納言知盛、三位の中将重衡、
 三千余騎にて向かはれけり。宇治へは越前の三位通盛、能登守教経、三千
 余騎くだられけり。さるほどに、「十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治より
 入る」といふ。「足利矢田の判官代、五千余騎にて、丹波の国大江山を経
 て京へ入る」といふ。「摂津の国、河内の源氏は、同じく力を合はせて淀
 川尻より攻め入るべし」とぞののじり(大騒ぎする)ける。

    平家これを聞きて、「こはいかにすべき。ただ一所にていかにもなら
 ん」とて、宇治・瀬田の手をもみな呼びぞ返されける。

  「帝都名利の地、鶏鳴いて、安き心なし。をさまれる世だにもかくのご
 とし。いはんや乱るる世においてをや。吉野山の奥へも入らなばや」とは
 思へども、諸国七道ことごとく乱れぬ。いずれの浦かおだやかなるべき。
 「三界無安猶如火宅」と、如来の金言、一乗の妙文なれば、なじかは少し
 もちがふべき。

  同じき二十四日、小夜ふくるほどに、前の内大臣宗盛、建礼門院の六波
 羅の池殿にわたらせ給ひけるに参りて、申されけるは、「この世の中のあ
 りさまを見たてまつるに、『世はすでにかう』とこそおぼえて候へ。され
 ば『院をも、内をも取りまゐらせて、西国の方へ行幸をも、御幸をもなし
 まゐらせて見ばや』とこそ思ひなして候へ」と申させ給へば、女院、「と
 もかくもただ大臣殿のはかりごとにこそ」とぞ仰せける。大臣も直衣の袖
 しぼるばかりにて、泣く泣く申されければ、女院も御衣の袂にあまる御涙
 ところ狭いでぞ見えさせ給ひける。

    (注) (  )内は、本文ではなく“注釈”です。
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 <あらすじ>
源氏が都に攻め入るとの報せに、騒然となる

(1) 寿永二年(1183)七月二十二日の夜半、六波羅の辺りが家
  具調度を運び出すなど、人と牛車で騒然となった。
   (都落ちをする“平家の軍勢”が、どんな乱暴狼藉を
    働くか判らないので、恐れおののいていた。)
   木曽の軍勢五万余騎がすでに近江の国に入り、比叡山
 
 の登り口(東坂本)に押し寄せて、木曽の大夫覚明などが
  比叡山に攻め上り、東塔の西の総寺院を砦として叡山の
  大衆が皆これに味方して今にも都に攻め入る有様である
  と・・・・・、美濃源氏の佐渡の重貞が報せてきた為で
  あったと云う。

(2) 平家はこれを迎え討つために、瀬田へは平知盛重衡
  三千余騎を、宇治へは通盛教経の三千余騎を向かわせ
  たが、間もなく源氏の軍勢は源十郎行家の一万余騎が宇
  治から、そして源義清(八幡太郎義家の子・義国の後裔)
  の五千余騎が大江山を経て都に、さらには、河内源氏の
  軍勢が淀川河口から入る・・・・との報せに、平家は驚
  き「運命を共にしよう」と、討手の兵をみな呼び戻した
  のであった。
   (知盛:清盛の子)(重衡:清盛の子)(通盛:清盛の弟
    の子)(教経:清盛の弟の子)

(3) 七月二十四日宗盛は、「平家の世も、もはやこれまで」
  と覚悟し、後白河院安徳天皇を西国にお連れして都を
  落ちようと図るが、すでに後白河院は平家を見限り、密
  かに御所を脱出して、鞍馬へ姿を隠されたのであった。

   都落ちの際の、平家一門の慌てぶりと騒然としたさま
  は、天皇家の神器(やさかにのまがたま、やたのかがみ
  、くさなぎのつるぎ)の運び出しにも、取り落とす者が
  現れる始末であった。

平忠度(薩摩守)、詠歌を藤原俊成卿に託す
(1) 都落ちの、どこから引き返したのか忠度は、侍五騎に
  童を一人伴い、五条の三位・俊成卿の屋敷前に来てみる 
  と、門は固く閉ざされていた。「薩摩守忠度でござる」
  と告げると、邸内では「落人が帰ってきた」と大騒ぎに
  なった。
   忠度は自ら門内に呼び掛け「たとえ門を開けずとも、
  三位殿に御門近くまでお寄り下され、申し上げたいこと
  があります」・・・と、俊成は「その方ならば差し支え
  ない、お入れ申せ」と門を開いて対面するのであった。

   忠度は、「かねて歌のご指南をいただきました私
  は、これなる一巻に百首ばかりの詠草をしたためまし
  た。撰集開始の折には“たとえ一首なりとも”撰歌た
  
まわれば、わが身の冥加、死出の旅路の土産ともなり
  嬉しいことに存じます。また遠いあの世から貴方様を
  お守りいたしましょう」と、俊成の卿に巻物をお渡し
  したのであった。

      世が静まって勅撰あり、「千載集」である。
     忠度は朝敵の身のため、“詠み人知らず”と
     して一首選ばれる。(文治三年(1187))

   さざ波や 志賀の都は あれにしを
                      昔ながらの 山ざくらかな

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