猫間中納言光隆(左)に食事をすすめる、木曽義仲(中央)
<本文の一部>
木曽は都の守護にてありけるが、みめよき男にては候ひしかども、
たちゐ、ふるまひ、もの言うたる言葉のつづき、かたくななることか
ぎりなし。
あるとき、猫間の中納言光隆の卿といふ人、のたまひあはすべきこ
とありておはしければ、郎等ども、「猫間殿と申す人の、『見參申す
べきこと候』とて、入らせ給ひて候」と申せば、木曽これを聞き、
「猫もされば人に見參することあるか、者ども」とのたまへば、「さ
は候はず。これは『猫間殿』と申す上臈にてましまし候。『猫間殿』
とは、御所の名とおぼえて候」と申せば、そのとき、「さらば」とて
入れたてまつりて対面す。
木曽、なほ「猫間殿」たはえ言はいで、「猫殿はまれにおはしたる
に、ものよそへ」とぞのたまひける。中納言、「ただいまあるべうも
候はず」とのたまへば、「いやいや、いかんが、飯時におはしたるに
ただやあるべき」。・・・・・
田舎合子の荒塗なるが底深きに、てたてしたる飯をたかくよそひな
し、御菜三種して、平茸の汁にて参らせたり。木曽殿のまえにもすえ
たりけり。木曽は箸をとり、これを召す。中納言も食されずしてはあ
しかりぬべければ、箸をたてて食するやうにし給ひけり。木曽は同じ
体にてゐたりけるが、残り少なくせめなして、「猫殿は少食におはしけるや。召され給へ」とぞすすめける。
中納言は、のたまひあはすべき事どもありておはしたりけれども、
この事どもに、こまごまとも、のたまはず、やがていそぎ帰られぬ。
中納言帰られてのち、木曽出仕せんといでたちけり。木曽は、「官
加階したる者の、なにとなく直垂にて出仕せんもしかるべからず」と、はじめて布衣に、とり装束す。されども車につかみ乗りぬ。
鎧着て矢かき負ひ、馬につい乗ったたるには似も似ずしてわろかり
けり。牛、車も平家の牛、車。牛飼も大臣殿の召し使はれし弥次郎丸
といふ者なり牛の逸物なるが、門を出づるとき、一むち当てたれば、
なじかはよかるべきつと出でけるに、木曽、車のうちにてあふのけに
倒れぬ。蝶の羽根をひろげたる様に左右の袖をひろげて、「起きん」
「起きん」としけれども、なじかは起きらるべき。五六町こそ引かせ
たれ。
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<あらすじ>
(1) 都の守護を預かる“木曽義仲”は好い男振りであったが、言葉
遣いが乱暴で立ち居振る舞いが武骨のうえ、礼儀作法をわきまえ
ない男で、都の人たちの評判は良くなかった。
(2) 猫間の中納言“光隆”卿が、相談したいことがあって、ある日
義仲邸を訪れた。“義仲”は昼食を用意してもてなすが、出て
きた“飯を山盛りにした田舎風の大椀”に、おかず三品と平茸
の汁を目の前に、気味が悪くて箸を取れないでいる、すすめられ
て“ひと口”食べるふりをして箸を置いてしまう。
“義仲”は「猫殿は少食でござるな、日ごろ聞く“猫の食べ残
し”でござるか、さぁかき込みなされよ・・・」と無理強いし、
“光隆”はすっかり興ざめして、用件も話さずに早々に帰って
しまったのである。
(3) その後、“義仲”は、院の御所に出仕することになり「狩衣」
で正装するのだが、冠の額際や袖口、裾さばき等“さま”になら
ず、常日ごろ鎧を着て弓矢を手に、兜の緒を引き結んで馬にうち
乗った雄々しい姿とは、似ても似つかぬ“ぶざま”な格好であっ
たという。
そして牛車に乗り込むが、勢いよくとび出した牛に牛車の
中で仰向けに引っくり返り、袖をバタバタとさせながら五~
六町も走るという有様であったと云う。
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平家物語の中では珍しい“滑稽譚”であり、木曽の山国育ち
の“義仲”と、根っからの貴族として生まれた“光隆”の二
人を対比して描く。そして、牛飼い(平宗盛の召使いだった)や
都の下々の人たちから、“田舎者”扱いされる“義仲”たち
・・であった。