* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第六十七句「平家の一門願書」

2009-05-02 15:58:04 | 日本の歴史

<本文の一部>

 平家これを知らずして、「興福寺、園城寺は、いきどほり深きをりふしなり
かたらふとも、よもなびかじ。山門は当家のために不忠を存ぜず。当家もまた
山門のために怨をむすばず。山王大師に祈誓して三千の衆徒かたらひとらん」
とて、一門の公卿、同心の願書を書いて山門に送る。

 願書に曰はく、

  敬白
 延暦寺をもって、帰依して氏寺と准じ、日吉の社をもって、尊敬して氏社の
ごとくにす。一向天台の仏法を仰ぐべき事。

 右、当家一族の輩まことに祈誓ありし意趣如何となれば、それ叡山は桓武天
皇の御宇、伝教大師入唐帰朝ののち円頓の教法をこの所にひろむ。遮那の大戒をそのうちにつたへしよりこのかた、もっぱら仏法繁昌の霊窟たり。久しく鎮護国家の道場にそなはれり。まさにいま、伊豆の国の流人前の兵衛佐源
の頼朝、身の咎を悔いせず、かへって朝憲を嘲り、しかるに奸謀に与し、同
心いたす源氏等、行家、義仲、以下党を結んで数あり。隣境、遠境数国を抄
領し、土宣、土貢、万物押領す。これによって、かつうは累代勲功の跡を追
ひ、かつうは当時弓馬の芸にまかせ、すみやかに賊徒を追罰し、兇徒を降伏
すべきのよし、かたじけなくも勅命をふくみ、しきりに征罰をくはだつ・・

 もし神明仏陀の加被にあらずんば、いかでか反逆の兇乱をしずめん。
ここをもって一向天台の仏法に帰し、不退に日吉の神慮を頼むらくのみ。

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<あらすじ>
   平家は、比叡山が源氏に味方したことを未だ知らずにいたので、
  この三千の衆徒を味方につけたいと、一門の公卿たちが連署して
  訴え状を送った。  文面の大意は……

(1)  敬って申し上げます。延暦寺をもって平家の氏寺に准じ、日吉社を
  もって氏社として、ひたすらに天台の仏門に帰依いたします。

     ……と、書き出され。

   右は当家一族が祈誓するものであります。
  叡山は、桓武天皇の御代に伝教大師(最澄)が唐に渡って帰国ののち、
  天台の仏教をこの地に広めて以来、、もっぱら仏法繁昌の地として
  鎮護国家の道場の任を果たしてきました。

   ところが今、伊豆の流人・源の頼朝が朝廷を嘲弄して、木曽義仲
  や源の行家ら数多くの軍兵が徒党を組み、近隣、遠国の数か所を略奪
  占領して、その国々の年貢や産物を全て押領しています。

   この為、わが平家は勅命を受けて再三征伐を企てました。
  しかし、神仏のご加護が無ければこの反乱を鎮圧することはできません
  平家一門は、ひたすら天台の仏法に帰依し、あわせて日吉山王権現の神
  恩を頼み奉るのみであります。

   まして我々の先祖は、恐れ多くも延暦寺建立の発願者たる桓武天皇
  子孫でもあります……
   この手紙は、現在の世の中の静謐を祈り、主上(帝)のために賊徒の
  討伐を願うものであります……

   この上の願いは、神仏の感応をお示しください。しかれば逆賊たちは
  わが軍門に降り、都に凱陣することができるでしょう。

   この故に、一門の公卿たちが声を揃えて礼拝をおこない、祈誓する
  こと以上の通りでございます。

               従三位行兼越前守 平朝臣通盛以下
               従一位前内大臣  平朝臣宗盛

     寿永二年(1183)七月五日
                  敬って申し上げます

      ……と、書かれていた。

  これを見た叡山の大衆の中には、平家の立場に同情する声も無いわけ
 ではなかったが、日頃の平家の振る舞いや、すでに源氏(木曾義仲)に味方
 する旨の返書を送った後であったこともあり、
   “くつがえすわけにもいかない…”と云うことになったのである。

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 【比叡山延暦寺

  延暦寺は、高野山、恐山と共に日本三大霊山の一つとされる。
 比叡山に広大な寺域を持つ天台宗の総本山である。

   奈良時代末期、最澄(767~822)19歳のとき比叡山に登り草庵を結ぶ。
 788年、32歳の時、平安京の鬼門鎮護のために一乗止観院(後の根本中堂)
 を創建。823年(弘仁十四)、“延暦寺”の名を勅賜。

  以後1200年もの間、不滅の法灯を護り続ける。
 比叡山で修業した僧には、円仁円珍源信法然慈円親鸞栄西
 道元日蓮弁慶などを輩出している。

  日本仏教の母山として、確固たる地位を築いてきたのであるが、平安
 時代末期には3塔・16谷・3000坊を数えていたと云われる。