* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第五十八句「須俣川」(すのまたがわ)

2007-06-13 16:28:40 | 日本の歴史

      大仏殿の造営のための”手斧始め”の儀式が行われる
      (造寺・造仏の奉行(長官)として、藤原行隆が任ぜらる)

 <本文の一部>

  同じく(治承五年(1181)閏二月)二十二日、法皇、院の御所法住寺殿へ
  御幸なる。この御所は、去んぬる応保三年(1163)四月十五日に造出され
  て、新比叡(いまひえい)、新熊野(いまぐまの)を左右に勧請したてまつ
  り、山水(せんずい)の木立にいたるまで、おぼしめす様なりしかば、こ
  の二三年は平家の悪行によって御幸もならず、「御所の破壊したるを修
  理して御幸なしたてまつるべき」よし、右大将宗盛の卿奏せられけれど
  も、法皇、「なにの沙汰にもおよぶべからず。ただとくとく」とて御幸
  なる。

   まず故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の柳、みぎはの松、「年経に
  けり」とおぼえて、木だかくなれるについても、御涙ぞすすみける。

   同じく三月一日、南都の僧綱等本位に復して、「末寺、荘園、もとの
  ごとく知行すべき」よし仰せ下さる。

   同じく三日、大仏殿つくりはじめらる。事はじめの奉行には、蔵人左
  少弁行隆参られける。この行隆、先年八幡へ参り、通夜せられたりける
  夢に、御宝殿のうちより、びんづら結うたる天童の出でて、「これは大
  菩薩の御使なり。東大寺の奉行のときは、これを持すべし」とて、笏を
  くだし給ふと夢に見て、さめてのち見給へば、うつつにありけり。「あ
  な不思議、当時なにごとによってか、行隆、大仏殿の奉行には参るべ
  き」とて、懐中して宿所に帰りて、深うをさめておかれたりけるが、平
  家の悪行によって、南都炎上のあひだ、行隆、弁のうちにえらばれて

  事はじめの奉行に参られける宿縁のほどこそめでたけれ。

   同じく三月十日、美濃の国の目代(国守の代官)、都へ早馬をもって申
  しけるは、「東国の源氏ども、すでに尾張の国まで乱入し、道をふさ
  ぎ、人を通さざる」よし申したりければ、やがて討手をつかはす。

   討手の大将軍には左兵衛督知盛、左少将清経、同じく少将有盛、その
  勢三万余騎にて、尾張に発向す。入道相国(清盛)失せ給ひて、わずかに
  五旬だにも過ぎざるに、乱れたる世とはいひながら、あさましかりし事
  どもなり。(あきれ果てたことだ・・・)

   源氏の方には、十郎蔵人行家大将軍にて、兵衛佐の舎弟卿の公円成、
  都合その勢六千余騎、尾張の国須俣川の東に陣をとる。平家は三万余
  騎、川より西に陣したり・・・・・・・

            (注)カッコ内は本文ではなく、注釈記入です。
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 <あらすじ>

 <後白河院、法住寺殿へ御幸

    治承五年(1181)閏二月二十二日、後白河院は久方ぶりにお気に入りの
  御所・法住寺殿にお出でになり、故・建春門院(平滋子・高倉院の母)の南御
  所をご覧になり、感慨にふけるのであった。

    同じ三月一日、南都の高僧たちの役職や荘園などを元通りに復する旨
  を仰せ出だされた。

 <東大寺・大仏殿造営のこと

   三月三日、蔵人左少弁・藤原行隆を奉行として、大仏殿造営のための
  ”手斧始め”の儀式が行われる。

 <源氏の軍勢が、尾張に進出

   三月十日、美濃の国(岐阜)から、「東国の源氏がすでに尾張(愛知)に入
  り支配している・・・」との報せが早馬で届く。

   直ちに平家は討手を整え、大将軍には平知盛(故・清盛四男)、左少将の
  清経(故・重盛の子)など、三万余騎にて尾張へ向い、須俣川の西岸につく。

   清盛が没して僅か五十日ほども経ぬうちに、乱世は目まぐるしく変転する。

  源氏側は、大将軍に十郎行家(源為義十男)、頼朝の舎弟・円成(義経の兄)
  など六千余騎で須俣川の東に陣を敷いた。

 <須俣合戦のさま、十郎行家の源氏大敗

   同じく十六日の夜、源氏勢は川を渡り西岸の平家の軍勢に突入するが、
  その殆どが討ち取られ、頼朝舎弟の円成まで討死し、行家は命からがら
  引き退いた。

   大将の行家は、三河の国(愛知)の八橋川で平家の軍勢を防ごうとしたが、
  支えきれずに攻め落とされてしまう。

   ところが、平家の大将・知盛は病気を理由に、源氏を追撃せずに都へ
  引き返してしまうのである。

 <平家一門の命運衰える

   平家としては、一昨年(治承三年)に清盛・嫡男の”重盛”を病で亡くし、今年
  大相国・清盛を病で失う・・・という事態に至っていた。

   このため、平家の命運の衰えを感じてか、永年恩顧の武将を除けば、みな
  平家から離れていき、東国では特に”草木も源氏になびく”との噂が聞こえて
  くる有様であったという。

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         こゝ数年、社会的な名声を得た著名人の何と多くの人が”晩節”を汚し
   て消えたことでしょうか。

    ダイエー、西武鉄道、カネボウなど等のトップに君臨した人たち・・・・
   いずれも引き際を誤り、汚点を残してしまいました。残念なことです。

    平成の世の各界のトップにも、”志の無い”その向きでないと思われる人
   が見受けられますし、テレビカメラに向って「金儲けをしてどこが悪い!」
   などと、うそぶく経済人も有りで、これは”絶句”です。

    かつて、三井物産社長から国鉄総裁になった方の言葉に・・・・・・・
       ”粗にして野だが、卑ではない” というのがありました。

   日本人も、全員”聖人君子”なんかであるわけ無いのですが、それにして
   も、小さいときの家庭での保護者の”躾”が、どれほどその人の人格形成
   に影響するか・・・・・・、などと云うことは”判っちゃいるけど”世の流れには
   さからえない、と思っているのでしょうか?。

                     きょうは、愚痴りました。