* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第二十七句「金渡し 医師問答」

2006-05-22 12:11:56 | Weblog
            治承三年(1179)、突如として旋風が巻き起こり公家屋敷も
            庶民の家も、轟音とともに倒壊し人々はその下敷きとなって
            助けを求める地獄絵図

         <本文の一部>

  さるほどに、同じく五月十二日の午の刻ばかりに、京中は辻風おびたたしう吹いて行くに、棟門、平門を吹き倒し、四五町、十町吹きもって行き、桁、長押、柱なんどは虚空に散在す。檜皮、葺板のたぎひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。おびたたしう鳴り、動揺すること、かの地獄の業風なりともこれには過ぎじとぞ見えし。

  舎屋破損するのみならず、命失ふ者もおほかりけり。牛馬のたぐひ、数をつくしてうち殺さる。「これただ事にあらず。御占形あるべし」とて、神祇官にして御占形あり。「いま百日のうちに、禄を重んずる大臣のつつしみ。別して天下の御大事。ならびに仏法、王法ともにかたぶきて、兵革相続すべき」とぞ神祇官、陰陽頭どもは占ひ申しける。

  小松の大臣は、か様の事どもを伝え聞き給ひて、よろず心細うや思はれけん、そのころ熊野参詣のことあり、本宮証誠殿の御前に参らせ給ひて、よもすがら敬白せられけるは、親父入道相国のふるまひを見るに、ややもんずれば、悪行無道にして、君をなやましたてまつり、重盛、嫡子として、しきりに諌めをいたすといへども、身不肖のあひだ、彼もって服膺せず。そのふるまひを見るに、一期の栄華なほあやふし。

  枝葉連続して親をあらはし、名をあげんことかたし。このときにあたって、重盛いやしくも思へり。なまじひに世につらなって浮沈せんこと、あへて良臣孝子の法にあらず。名をのがれ、身をしりぞいて、今生の名利をなげうって、来世の菩提をもとめんにはしかじ。ただし、凡夫薄地、是非に迷へるがゆゑに、心ざしをほしいままにせず。

  南無権現金剛童子、ねがはくは子孫繁栄に絶えずして、朝廷に使へてまじはるべくは、入道の悪心をやはらげて、天下の安全を得さしめ給へ。栄耀また一期をかぎって、後昆の恥におよばば、重盛が運命をつづめて、来世の苦患をたすけ給へ。両箇の求願、ひとへに冥助をあふぐ。

  と、肝胆ををくだいて祈り申されければ、大臣の御身より燈籠の火の光の様なるもの出でて、ばっと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見たてまつりけれども、恐れてこれを申さず・・・・・・・・

  盛俊泣く泣く福原へ馳せ下り、このよしを申したりければ、入道大きにさわいで、「これほど国を思う大臣、上古いまだなし。末代にあるべしともおぼえず。日本不相応の大臣なれば、いかさまにも今度失せなんず」とて、泣く泣くいそぎ都へ上られけり。同じく七月二十八日、小松殿出家し給う。法名をば「照空」とぞつき給ひける。

  やがて八月一日、臨終正念に住して、つひに失せ給ひぬ。御年四十三。世はさかりとこそ見えつるに、あはれなりしことどもなり・・・・・・

  大臣は天性滅罪生善の心ざし深うおはしければ、未来のことをなげいて、「わが朝にはいかなる大善根をしおきたりとも、子孫あひつづきてとぶらはんこともありがたし。他国にいかなる善根をもして、後世をとぶらはればや」とて、安元のころほひ、鎮西より妙典といふ船頭を召して、人をはるかにのけて対面あって、金を三千五百両召し寄せて、「なんじは大正直の者であるなれば、五百両をなんぢに賜ぶ。三千両をば宋朝へわたして、一千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、わが後世をとぶらはせよ」とぞのたまひける・・・・・・・・・

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      <あらすじ>

(1)治承三年(1179)五月十二日正午ころに、京の街中は旋風が吹き、屋敷の門や屋根、柱などを、空中高く舞い上げて人や牛・馬も数え切れないほど命を落した。

     この頃は、鴨長明の「方丈記」にも記されているように、災害が続いてますます世相
     不安になっていたようです。治承四年(1180)春四月の辻風(強旋風)で、家・家財が
     宙に舞い、犠牲者の数知れずとあり。

     そして、安元(1177)の大火、養和(1181)の飢饉、元暦(1185)の大地震などの天
     変地異が続き、藤原兼実の”玉葉”(日記)にも、この大地震で
     「土裂けて、水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る・・・」と書
     かれているくらいで、今で云う液状化現象のことなのでしょうか。

(2)小松の大臣(重盛)は、これらの事を伝え聞き、熊野参詣で神仏に申し上げて・・
   ・曰く・・・・「父・入道相国の悪行無道の振る舞いがあり、これでは平家の安泰も
   危うい、私の名誉や命に代えて神仏のご加護を願う・・・」と、一心不乱にお祈りを
   するのであった。

(3)重盛 は、この後”病”を得て床につくが、神仏への願いが叶えられたのもだと、治療
   も祈祷もしなかった。
    その頃、宋の名医が日本に滞在していたこともあって、清盛重盛に、その名医の治
    療を受けることを薦めるのであったが重盛は、「この病は天意であり、これが運命なら
    治療を加えても意味が無い」と、治療を受けることをしなかった。

   そして、七月二十八日、出家して「照空(証空?)」と名乗る。

(4)治承三年(1179)八月一日、重盛薨じ、享年四十三歳であったと伝える。
   清盛の強引な政治手法に、”抑え役”であった唯一の人物を失って、この後
   天下にどんなことが起きるのかと、世人は嘆きあったと言う。

(5)重盛は、罪障を断ち善根を積む、心の非常に強い人で、来世の安泰を願い、
   「わが国でどんな善根を積んでも、子孫が冥福を祈ってくれる期待はできないと、
   よその国に善根を施して後世の安泰を祈ってもらおう」と、人を介して宋の国の育王
   山(宋代五山の一つ)に寄進してもらうようにと、三千両の大金を届けさせるのであ
   った。

   清盛の頃は、宋銭を大量に輸入して流通させており、”両”とは古代中国の
   ”重量単位”でした。

   中国では「半両」という、最初の”円形方孔銭”が造られていて、今「日本銀行・貨幣博
   物館」で陳列されています。

    しかし、平安末期でも””は、依然として”砂金”のまゝ、袋に入れたり、竹筒に入れ
   たりして使われていたようです。たぶん重盛の寄進した””は、重量の金「砂金」であっ
   ただろうと思われます。