* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第五十四句「義仲謀叛」

2007-02-16 15:23:49 | 日本の歴史

      ”木曾義仲”の挙兵を恐れる平家の人々。しかし”清盛”(右上)は、
      「義仲ごときは恐れるに足らず」と豪語し、一座の者は「さよう」
      「さよう」と、うなずいてはいるものゝ、一方では密かに心配する
      声も上がって居たのであった。

 <本文の一部>

  そのころ信濃の国に、木曾の冠者義仲といふ源氏ありと聞こえけり。
 これは故六条の判官為義が次男、帯刀先生義賢が子なり。義賢は久寿二年
 (1155)八月十六日、武蔵の国大倉にして、甥の鎌倉悪源太義平がために誅
 せられたり。

  そのとき義仲二歳になりけるを、母泣く泣くいだいて、信濃の国に越え
 て、木曾の中三兼遠がもとへ行き、「いかにもしてこれを育て、人になし
 て見せ給へ」と言ひければ、兼遠請けとって、かひがひしう二十四年養育
 す。

  やうやう人となるままに、力も世にすぐれて強く、心も並ぶ者なし。
 つねには「いかにもして平家を滅ぼして、世を取らばや」なんどぞ申しけ
 る。兼遠おほきによろこんで、「その料にこそ、君をばこの二十四年養育
 申し候へ。かく仰せられ候ふこそ、八幡殿(源の八幡太郎義家)の御末とぞ
 おぼえさせ給へ」と申しければ、木曾、心いとどたけくなって、根の井の
 大弥太滋野の幸親をはじめとして、国中の兵をかたらふに、一人もそむく
 はなかりけり・・・・・・・

  木曾といふ所は、信濃にとっても南の端、美濃の国(岐阜)の境なり。都
 も無下にほど近ければ(とても近いので)、平家の人々漏れ聞きて、「こは
 いかに」とぞさわがれける。

  入道相国(清盛)のたまひけるは、「それ心にくからず。思へば、信濃一
 国の兵こそしたがひつくといふとも、越後の国(新潟)には、余五将軍の末
 葉、城の太郎資長、同じく四郎資茂、これらは兄弟ともに多勢の者なり。
 仰せ下したらんずるに、などか討ちてまゐらせざるべき」とのたまへば、
 「いかがあらんずらん」と、内々はささやく者おほかりけり・・・・

  同じく(二月)九日、河内の国(大阪)石川の郡に候ひける、武蔵権守入道
 義基が子息石川の判官代義兼、兵衛佐頼朝に同心のよし聞こえしかば、入
 道相国やがて討手をさし遣はす・・・・

  同じく十日、義基法師が首、大路をわたさる・・・・

  同じく十二日、鎮西(九州)より飛脚来たりけり。宇佐の大宮司公通が申
 しけるは、「九州の者ども、緒方の三郎をはじめとして、臼杵、戸次、菊
 池、原田、松浦党にいたるまで、ひたすら源氏に心を通じて、大宰府の下
 知にもしたがはず」とぞ申しける・・・・
   
       (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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 <あらすじ>

(1)信濃の国(長野)、木曾の中原兼遠に育てられた”義仲”は、気性も剛
   毅に成人して、周辺の豪族たちを語らい、これを味方に引き入れ「何
   としても平家を滅ぼして、天下を取りたい」と考える。

(2)木曾は、都からも遠くないので、やがて入道相国”清盛”もこの噂を
   耳にするが、ほとんど歯牙にもかけず、恐るるに足らずと考えていた。

(3)治承五年(1181)二月九日、河内の国(大阪)の”石川義兼”(八幡太郎義
   家の子孫)が、”頼朝”の味方をするとの噂を聞き、”清盛”は直ちに
   これを討たせ、傷を負った”義兼”を捕え、父・義基入道の首を取り
   大路を引き廻す。(石川城の落城)

(4)二月十二日、鎮西(九州)の豪族たちの多くが”頼朝”に心を通じて、
   大宰府(九州を管轄する役所)の命令も聞かない!との報告がもたらさ
   れ、すでに東国や北国が平家に叛き、今また”親平家派”であった熊
   野水軍を擁する、熊野の別当”湛増”も、源氏への味方を鮮明にした
   現在、反乱が四方に広がり”風雲急を告げる”事態となったのである。

(5)清盛の嫡男・重盛の亡きあと、平家を預かる前の右大将・平宗盛は、
   昨年の討手も全く成果無く、このたびは自分が総大将として東国へ
   向かいたいと云い、皆もこれに異存なく従うことゝなった。

      この後、”宗盛”の平家の軍勢が出陣の折に、にわかに”清盛
      が熱病?の”病に倒れる”という、思わぬ事態にいたる。