* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第四十五句「咸陽宮」(かんやうぎゅう)

2006-06-27 10:48:43 | 日本の歴史

    (古代中国)の国の太子””を赦免するの”始皇帝
      庭に”角の生えた”木には”頭の白くなったカラス

  <本文の一部>

  異国に昔の先蹤をたづぬれば、燕の太子丹、秦の始皇に囚はれて、いましめ(監禁)をかうぶること十二年、燕丹涙をながして、「われ本国に老母あり。暫時のいとまを賜びてましかば、かれを見ん」とぞ申しける。始皇あざわらひて、「なんじにいとま賜ばんことは、馬に角生ひ、烏の頭白うならん時を待つべし」とぞのたまひける。

  燕丹天に仰ぎ地に伏して、「願はくは、孝行の心ざしをあはれみ給ひて、馬に角生ひ、烏の頭白うなって、いま一度故郷にとどめおきし老母を見ん」とぞ祈りける。

・・・・冥顕三宝(一切を見通す仏)孝行の心ざしをやあはれみおぼしめしけん、馬に角生ひ、宮中に来たり。
烏の頭白うなって庭前の木に至る。烏の頭、馬の角の変ずるにおどろいて、始皇帝綸言(りんげん)返さざることを信じて(”帝王は言葉を覆さない”ことを守り)、燕丹をなだめて(許して)本国へ帰されけれ。

  始皇帝なほにくみ給ひて・・・・帝官軍をつかはして、燕丹が渡らんとき、橋を踏まば落つる様にしつらうて、太子丹を渡されけり。なじかはよかるべき。川中にして落ち入りぬ。されども水にもおぼれず、平地を行くがごとくにして、向かひの岸にぞ着きにける。「こはいかに」とうしろを顧みければ、亀どもいくらといふ数を知らず、水の上に浮きて、甲を並べてぞ歩ませける。これは孝行の心ざしを冥顕あはれみ給ふによってなり。

  されば、燕丹うらみをふくんで始皇帝にしたがはず。帝怒って官軍をつかはし討たんとし給ふほどに、燕丹恐れをののきて、荊軻(けいが)といふ兵をかたらふ。荊軻また大臣に田光先生(でんこうせんじょう)といふ兵をかたらふ。

  かの田光が申しけるは、「君はこの身の若うさかんなつしときを知ろしめしてたのみおぼしめし候ふか。『麒麟も老いぬれば駑馬にもおとれり』今はいかにもかなふまじ。兵をかたろうて奉らん」とて出でけるに、荊軻、田光が袖をひかへて。「あなかしこ、この事人に披露すな」と言ひければ、「人に疑はれぬるに過ぎたる恥はよにあらじ。もしこの事漏れぬるものならば、われ疑はれなんもはずかしし」とて、荊軻がまへにて自害してこそ失せにけれ。・・・・・

 <この後、荊軻が始皇帝の命を狙うが、果たさず遂に八つ裂きにされ果てる>

  「されば今の頼朝もさこそあらんずらめ(同じような結果になるだろう)」と色代する人もおほかりけり。

        (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。

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  <あらすじ>

(1) 昔むかし、古代中国でのお話。(前221~前206)の始皇帝は、敵対する
    
周りの国々を滅ぼしたが、燕という国の太子で””という者は、囚われ
    て監禁されること十二年に及び、本国に居る母にひと目合うための許しを
    求めるが、”始皇帝”は、「絶対に起ることは無いであろうこと」を条件
    に示して、それまで待つがよかろう・・・とあざ笑う。
    (馬に角が生える、烏の頭が白くなる・・・・など)

(2) ところが、””は、天地に祈り、仏も孝行の心ざしを憐んでか、馬に角
    が生え、烏の頭が白くなって咸陽宮に現れたのであった?。
     ”帝王はその言葉を覆さない”の通り、”始皇帝”は””を許し国へ
    帰すのであった。

(3) しかし、悔しい思いの始皇帝は、”丹”が帰国する途中の橋に仕掛けをし
    て、渡ったとたんに川へ落としてしまう。 が、不思議なことに水にも
    溺れず、向こう岸に着いてしまう。
     見ると、たくさんの数も知れない”亀”が甲羅を並べて、その上を歩か
    せていたのであった。

(4) 燕の”丹”の味方について要職に任ぜられた”荊軻”という”つわもの”
    
は、あらゆる手段をつかって”始皇帝”の命を狙ったが、成功の直前で
    遂に捕まり、八つ裂きにされて最後を遂げるのであった。

(5) だから、いまの”頼朝”も、それと同じような結果になるだろうと、多く
    の人々は”平家”に追従(お世辞)するのであった、と云う。

        しばしば故事、先例、逸話などが挿入されています。
       このお話は、結果は裏目に出てしまう”頼朝”が滅亡する
       予言とされますが、その頃の都の人々の保守的な考え方を
       象徴するものとも見られています。


       


第四十四句「頼朝謀叛」(よりともむほん)

2006-06-22 16:50:56 | 日本の歴史

      (右下)夜を日に次いで福原へ到着の大庭景親の使者
      (左上)使者に早く”注進状”を、とせかす平家の侍たち

     <本文の一部>

  同じき九月二日、相模の国の住人大庭三郎景親、福原へ早馬をもって申しけるは、

「去んぬる八月十七日、伊豆の国の流人、前の右兵衛佐(さきのうひょうえのすけ)頼朝、舅北条の四郎(時政)をつかはして、伊豆の目代(代官)、和泉の判官兼隆を山木が館にて夜討にす。そののち土肥、土屋、岡崎をはじめとして、伊豆、相模の兵三百余騎、頼朝にかたらはれて、相模の国石橋山にたて籠って候ふところに、景親、御方に心ざしを存ずる者ども三千余騎引率して、押し寄せ、攻め候ふほどに、兵衛佐七八騎に討ちなされ、大わらはに戦ひなって、土肥の杉山へ逃げこもり候ひぬ。畠山庄司次郎五百余騎にて御方つかまつる。三浦の大介義明が子ども三百余騎、源氏方をして、由比、小坪の浦にて戦ふ。畠山いくさに負けて武蔵の国へ引きしりぞく。そののち畠山の一族、河越、稲毛、小山田、江戸、葛西、そのほか七党の兵ども三千余騎三浦の衣笠の城に押し寄せて、一日一夜攻め候ふほどに、大介討たれ候ひぬ。子ども久里浜の浦より船に乗り、安房、上総に渡りぬ」とこそ申したれ・・・・

  畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮の左衛門尉朝綱、これら三人は大番役にて、をりふし在京したりけるを、太政入道(清盛)怒って、三人を召し寄せ。「源氏に同心せじといふ起請文を書きて参らせよ」とのたまへば、・・・・・・・・

  入道相国(清盛)怒られける様ななめならず。「頼朝をば死罪におこなふべかつしを、池殿(池禅尼)のしひて嘆き給ひしあひだ、慈悲のあまりに流罪になだめしを、その恩を忘れて当家に向って弓を引くにこそあんなれ。神明三宝もいかでか許し給ふべき。ただいま天の責めをかうぶらんずる兵衛佐なり」とぞのたまひける。

  それわが朝に朝敵のはじめをたずぬるに、日本磐余彦(神武天皇)の御宇四年紀伊の国名草の郡高尾の村に、一つの雲あり。・・・・・・・・

・・・・・悪左府、悪衛門督にいたるまで、すべて二十余人なり。されども一人として素懐をとぐる者なし。みな屍を山野にさらし、首を獄門にかけらる。

  今の世こそ王位もむげに軽けれ、昔は宣旨を向かひて読みければ、枯れたる草木も花咲き実なり、空飛ぶ鳥までもしたがひ来たる。・・・・・・・

          (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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      <あらすじ>

(1) 治承四年(1180)八月十四日、伊豆の代官・山木兼隆を”流人の頼朝
   が夜討ちをかけて誅し、この後、石橋山の戦いで敗れた”頼朝”勢は敗
   走し、九死に一生を得て”房総”へと逃れる。

(2) 同じ九月二日、相模の大庭三郎景親は”早馬”で、流罪中の源頼朝
    兵を挙げ謀叛を起こした旨を、福原の”清盛”に知らせる。

(3) 諸国の武士が、三年交替で京の宮廷警固などのお役目を命じられる
    が、たまたま在京中のいづれも東国の武者”畠山重能””小山田有重
    ”宇都宮朝綱”に対して「源氏に味方をしない」という”誓約書”を書いて
    差し出せ!と”清盛”は迫る。

(4) 清盛は、”死罪”にすべき”頼朝”を、池禅尼(清盛の父・忠盛の後妻)
    のたっての助命嘆願で、流罪に減じたその”頼朝”が、その恩を仇で
    返した!と、大へんな怒りようで「天罰が下るだろう」と、憤懣やるかた
    ない有様であった。

(5) かつての”朝敵”の名を挙げて、それらはいづれも屍を山野にさらし首
   を獄門に かけられたと、”決して本望を遂げることは無い”のだと強調
   するのである。

       神武天皇の御世に、紀州での叛乱をはじめ、崇峻帝のときの
      物部守屋、皇極女帝の御世の蘇我入鹿、桓武帝のときの氷上
      の川継、また早良親王、そして平将門藤原純友、保元の乱
      での藤原頼長、平治の乱の藤原信頼・・・・など等、多数を列挙
      する。

(6) 醍醐帝の御世、延喜年間のエピソードとして、空飛ぶ鳥の””さえも
    ”帝の御言葉”に従い平伏?し、殊勝であると””を授けた・・・・・、
    というお話で、天皇の御威光の高かったことを述べ、今の世の天皇の
    軽んじられ方を嘆くのであった。


    

 

  


第四十三句「物怪の巻」(もっけのまき)

2006-06-16 10:19:44 | 日本の歴史

    御所の”物の怪”の騒ぎに、”蟇目”を射る番人たち。岡の御所は新造で
   庭に大木も無いのに、夜、大木の倒れる音や地鳴りがして、又、二~三十人
   もの人の高笑いが聞こえるなど、不気味のことが起る。
        (蟇目=鏑矢の形の大きく、鏃(やじり)の無いもの)

      <本文の一部>

  そのころ福原には、人々夢見ども悪しう、常は心さわぎのみして、変化の物おほかりけり。
  あるとき入道(清盛)の臥し給へるところに、一間にはばかるほどの物出で来って、入道をのぞいて見たてまつる。入道少しもさわぎ給はず。はたとにらまへてましましければ、ただ消えに消え失せぬ。

  また岡の御所と申すは、新造なれば、しかるべき大木もなかりけるに、ある夜大木の倒るる音して、二三十人が声にてどっと笑ふことあり。これは天狗の所為といふ沙汰にて、蟇目の番を、夜百人、昼百人そろへて射させらるるに、天狗のある方へ向かひて射たるときは音もせず、なき方へ向かひて射たるときは、どっと笑ひなんどしけり・・

  ある朝、入道相国(清盛)帳台(寝所)より出で、妻戸を押し開き、坪のうちを見給へば、曝れたる首どもいくらといふ数を知らず、みちみちて、上になり下になり、ころびあひ、ころびのき、中なるは端へころび出で、端なるは中へころび入り、おびたたしうからめきあひければ、入道相国、「人やある、人やある」と召されけれども、をりふし人も参らず。

  「こはいかに」と見給へば、多くの髑髏(しゃりかうべ)どもが一つにかたまりあひて、「高さ四五丈もやありけん」とおぼしくて、一つの大頭に千万の眼あらはれて、入道をにらまへて、まだたきもせず・・・・・

  ・・・・・日ごろは、平家天下の将軍にて、朝敵をしずめしかども、今は勅命にそむけばにや、節刀をも召し返されぬ。心細うぞ聞こえける。

  憂き世をいとひ、まことの道に入りぬれば、往生極楽のいとなみのほか他事やはあるべきなれども、善政を聞きては感じ、悪事を聞きては嘆く、これみな人間のならひなり。

         (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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   <あらすじ> 

(1) この頃”平家”の人々は、いつも胸騒ぎがして夢見悪く、不思議な
    怪しのものが現れることしきりであった。

(2) 清盛の寝所には、巨大な妖怪が現れたり、造ったばかりの岡の御所
    では、夜になると大木の倒れる音や地鳴りがしたり、大勢の笑い声
    が聞こえたりした。

(3) あるとき、清盛が寝所から出て中庭を見ると”髑髏(しゃれこうべ)
    が無数に転がり合い音を立て、一つの大きな”頭”になって、多数の
    ””が清盛を睨みすえる。

(4) ある貴人に仕える若侍の見た夢には、厳島の大明神(平家の尊崇する)
    や八幡大菩薩、春日大明神などが現れて、””が朝敵征討の将軍に
    下賜する剣(節刀)を、今までは”平家”に預けておいたが、これか
    らは伊豆の流人・”源の頼朝”に授けようとの夢を見る。

(5) 清盛は、この話を人づてに聞いて、その夢見若侍を急いで呼び寄せ
    るが、その若侍は既にその場から行方をくらましてしまったという。

(6) 日頃は、”平家”が天下の将軍で朝敵を平定してきたが、今は勅命
    背いたので、征東将軍の”剣”も召し返されるだろう、先行き心細い
    ことだ・・・・と、人々は噂し合うのであった。

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        つまりは、度重なる”平家”の横暴には、さすが全盛を誇る
        平家の世も”末”になったものと、世人は敏感に感じ取って
        の一連の話ということであろうか・・・・・

        次の第四十四句「頼朝謀叛」へと続く・・・・・

  

        


第四十二句「月 見」

2006-06-13 14:49:24 | Weblog

          舟の上でのお月見(左上は、住吉の社頭であろうか・・・)  

       <本文の一部> 

 同じく(治承四年(1180))六月八日、福原には、「新都の事始めあるべし」とて、上卿に徳大寺殿左大将実定の卿、土御門の宰相の中将通親の卿、奉行には頭の弁光雅、蔵人左少弁行隆、官人どもあひ具して、和田の松原の西の野を点(たひら)げて、九条の地を割られけるに、一条より下五条まではその所ありて、五条より下はなかりけり。

  行事(奉行)、官人ども参りて、このよしを奏しければ、「さらば播磨の印南野(明石郡)か、また摂津の国の昆陽野(現伊丹市の西)か」なんどと、公卿僉議ありしかども、事ゆくべしとも見えざりけり。

  旧都をばすでに浮かれ(離れて)ぬ。新都はいまだ事ゆかず。ありとしある人みな浮雲の思ひをなす。もとこの所に住む者は、地をうしなひてうれへ、今遷る人々は土木のわずらひを嘆きあへり。総じて夢の様なる事どもなり。

 土御門の宰相の中将通親の卿の申されけるは、「異国には『三条の広路を開いても、十二の通門を立つる』と見えたり。いはんや五条の都に、などか内裏を建てざるべき。まづ里内裏を造られべし」とて、五条の大納言邦綱の卿、臨時に周防の国を賜はって造進せらるべきよし、入道相国(清盛)はからひ申されけり・・・・・・・・

 六月八日、新都の事始めありて、八月十日棟上げ、十月七日御遷幸と定めらる。
旧都は荒れゆく。今の都は繁昌す。

  あさましかりし(意外な事件の続いた)夏も過ぎ、秋にもすでになりにけり。福原におはする人々の、秋もなかばになりぬれば、名所の月を見んとて、あるいは、源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおし渡り、絵島が磯の月を見る。あるいは白浦、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂の尾上の月のあけぼのを、ながめて帰る人もあり。旧都にのこる人々は、伏見、広沢の月を見る。

  そのうちに、徳大寺の左大将実定の卿は、旧都の月をしたひて、入道相国の方へ案内(了解)をえて、八月十日あまりに、福原より都の方へのぼられけり・・
・・・・・故京の名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞおはしける。

  実定の卿、その御所へ参り、・・・・大宮(二代の后の多子)は、昔もや御慕はしうおぼしめされけん、南殿の格子をあげさせ、御琵琶あそばしけるをりふし、大将つつと参られたり。「これは夢かや、うつつかや、これへこれへ」とぞ召されける・・・・

  小夜もやうやうふけゆけば、大宮は旧都の荒れゆくことどもを語らせおはしませば、大将は今の都の住みよきことをぞ申されける。
待宵の小侍従と申す女房も、この御所にぞ侍はれける。そもそもこの女房を「待宵」と召されけることは、あるとき、大宮の御前にて「待つ宵と帰る朝とは、いづれかあはれはまされるぞ」と御たづねありければ、いくらも侍はれける女房たちのうちに、かの女房、
       待つ宵の ふけゆく鐘のこゑきけば
                あかぬ別れの 鳥は物かは

と申したりけるゆゑにこそ「待宵の侍従」とは召されけれ。背のちひさきによってこそ「小侍従」とも召されけれ。

          (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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       <あらすじ>

(1) 福原(神戸)での新都造営についての話が先ずあり、六月から始めて
    十月にはご遷幸と決る。

(2) 新都・福原に在る人々は、”中秋名月”を見んと須磨や明石の瀬戸
    内に遊び、旧都に残る人々は伏見や広沢の月を楽しむ。

(3) 徳大寺実定の卿は、旧都の月を慕い清盛の許しを得て、京の旧都へ向う
    あちらこちらが、すっかり荒れ果て秋草の茂る野辺となり、たゞ二代の
    后と云われた”近衛河原の大宮”たゞお一人が住まっておられるだけで
    あった。

(4) 実定の卿は、この”近衛河原の大宮”を御所にお訪ねしての四方山話に
    大宮は、「旧都の荒れゆくことを・・・」、実定は、「新都の住み良い
    ことを・・・・」お話する。

(5) 大宮に仕える”小侍従”と云われる女房は、旧都の荒れゆくさまを今様
    にして歌う。
        
古き都をきてみれば 浅茅が原とぞあれにける
            月の光は隈なくて 秋風のみぞ身にはしむ

      ”小侍従”の「待つ宵の ふけゆく鐘のこゑきけば・・・」
      は、名歌として喧伝されたという。

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 下々のことゝは別天地!、都を遷すなどという大へんな折でも、お公家さん
 たちは優雅に月を愛でるのであります。


    
    
    

                                                                  


第四十一句「都遷し」(みやこうつし)

2006-06-08 12:00:05 | Weblog

    清涼殿の西、陰明門のあたり幼帝・”安徳天皇”のための輿が差し入れ
    られ、法皇上皇にお供する摂政など殿上人などの牛車がひしめく!

   <本文の一部>

  治承四年(1180)六月三日、「福原へ行幸あるべし」とてひしめきあへり。
この日ごろ「都遷しあるべし」とは内々沙汰ありしかども、「今明のほどとは思はざりつるものを、こはいかに」とて、上下さわぎあへり。
  三日にさだめられしが、あまつさへ今一日ひきあげて、二日になりにけり。

  二日の卯の刻に行幸の御輿を寄せたりければ、主上(安徳帝)は今年三歳、いまだ幼うましましければ、何心なう召されけり。主上のいとけなき御ときは、母后(平徳子)こそ同じ輿に召されるるに、今度はその儀なし。御乳母平大納言時忠の卿の北の方、帥の典侍殿ぞひとつ御輿には参られける。

  中宮(平徳子)、院(後白河法皇)、上皇(高倉)も御幸なる。摂政殿(藤原基通)をはじめたてまつり、太政大臣以下、公卿、殿上人、「われも、われも」と供奉せらる。
  
  三日、福原に着かせ給ふ。池の大納言頼盛の卿の宿所、皇居になる。頼盛の家の賞とて正二位になり給ふ。九条殿の御子、右大将良通の卿に越えられ給ひけり。摂籙(せふろく)の臣の公達、凡人の次男に加階越えられ給ふこと、これはじめとぞ聞こえし。

  さるほどに、法皇をば入道相国やうやう思ひなほりて、鳥羽殿を出したてまつり、八条烏丸の美福門院の御所へ御幸なしたてまつりかども、また高倉の宮の御謀叛によりて、大きにいきどほり、福原へ御幸なしたてまつり、四面に端板して、口一つあけたるところに、三間の板屋をつくりて、おし籠めたてまつる。

  守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ侍ひける。たやすく人の参りかよふこともなければ、童部、これを「籠の御所」とぞ申しける。聞くもいまいましく、あさましかりし事どもなり・・・・・・

  あはれ旧都はめでたくありつる都ぞかし。王城守護の鎮守は四方に光を和らげ、霊験殊勝の寺々は上下に甍をならべ給ふ。百姓万民わずらひなく、五畿七道もたよりあり。されども今は・・・・・・まれに行く人も小車に乗り、道を経てこそ通りけれ。

  軒をあらそひし人のすまひも、日を経つつ荒れぞゆく。家々は賀茂川、桂川にこぼち入れ(投げ入れ)、いかだに組み浮かべ、資財雑具は舟に積み、福原へとて運びくだす。ただなりに(移り変わる)、花の都、田舎となるこそかなしけれ。

  いかなる者のしわざにやありけん。旧都の内裏の柱に、二首の歌をぞ書きたりける。
    百年を 四かへりまでに過ぎにしを 愛宕の里の あれやはてなん
    咲きいづる 花の都をふり捨てて 風ふく原の すゑぞあやふき

  都遷りはこれ先蹤なきにはあらず。神武天皇と申すは・・・・・・・・
・・・・・「昔より代々の帝王、国々、所々、おほくの都を建てられしかども、かくのごとく勝れたる地はなし」とて、桓武天皇(50代・平家の祖)ことに執しおぼしめす。・・・・・

  「末代この京を他国へ遷すことあらじ。守護神となるべし」とぞ御約束ありける。されば天下に大事出で来んとては、この塚かならず鳴り動ず。「将軍塚」とて今にあり。

         (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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    <あらすじ>

(1) 治承四年(1180)六月、かねて”遷都”がある、との内定はあったが、
    急に決定し、都の中は騒然となる。

     二日、”安徳天皇”をお乗せする輿に、乳母の平大納言時忠の北
    の方が同乗して、これに後白河法皇や高倉上皇、摂政・藤原基通を
    はじめ大臣、公卿などがお供をして福原(神戸市)へ向う。

(2) 後白河法皇は、清盛がようやく怒りが治まり、院のことを思い直し
    はじめた矢先に、御子・高倉の宮のご謀叛があり、もしかしたら
    この企てに院が背後にあったのではないか?と、激怒して福原でも
    入口が一つしかない小さな家に押し籠めてしまった。

    人々は、これを「御所」と云いあったという。

(3) ”遷都”というのは、先例がないわけでは無い・・・と、神武天皇
    から現在(治承四年(1180))までに数十度もの遷都があったことを、
    まるで、古事記の記述のように初代・神武帝から50代・桓武帝までの
    遷都を行った代々の天皇を挙げて伝えている。   

    (古事記の場合は、33代・推古女帝までの記述ですが・・・・)

(4) ”桓武天皇”による平安京遷都(延暦十三年(794))以来、三十二代
    三百八十七年の間、栄えた京の都、しかも平家の祖である桓武天皇が
    とりわけ愛されたこの都を、
末裔の”清盛”が他所へ移すなどとは
    あきれたことだ・・・・と、人々は噂するのであった。

   (注)治承三年(1179)十一月の”後白河院”の鳥羽殿への”幽閉”と
      いうクデター?に
始まり、ご謀叛とは云え、宮様(高倉の宮・
      以仁王)を討ち、今また、天皇にしか許されない『遷都』を人臣
      の身で強行するなど、いわゆる”平家横暴”もこゝに極まった
      と、世の人は噂したという。

  


第四十句「鵼」(ぬえ)

2006-06-07 10:54:47 | Weblog

     暗雲に包まれる清涼殿、”妖怪”を射落とす”頼政

      <本文の一部>

  そもそも、この頼政と申すは攝津守頼光(源の頼光)がが五代の後胤、三河守頼綱が孫、兵庫守仲政が子なり。保元(保元の乱)に御方にてまっ先駆けたりしかども、させる賞にもあづからず。平治(平治の乱)にまた、親類を捨て(源の義朝を見限り)、参りたりしかども、恩賞これ疎かなり(僅かなものだった)。

  重代の職なれば、大内(大内裏)の守護うけたまはりて年久しかりしかども、昇殿をばいまだゆるされざりけり。年たけ、よはひかたぶいて(歳をとってから)のち、述懐の和歌一首つかまつりてこそ昇殿をゆるされたりけれ。
    人知れず 大内山のやまもりは 木がくれてのみ 月を見るかな
とつかまつり、昇殿したりけるとぞ聞こえし。

四位にてしばらく侍ひけるが、つねに三位に心をかけつつ、
  のぼるべき たよりなき身は 木のもとに しゐをひろひて 世をわたるかな
とつかまつりて三位したりけるとぞ聞こえし。すなはち出家し給ひて、今年は七十七にぞなられける。

  この頼政、一期の高名とおぼえしは、近衛の院の御時、夜な夜なおびえさせ給ふことあり。大法、秘法を修せられけれども、しるしなし。人申しけるは、東三条の森より黒雲ひとむらたち来たり、御殿に覆へば、そのときかならずおびえさせ給ふ。と申す。

  「こはいかにすべき」とて、公卿僉議あり。「所詮、源平の兵(つわもの)のうちに、しかるべき者を召して警固させらるべし」とさだめらる・・・・・・しかれば、「すなはち先例にまかせ、警固あるべし」とて、頼政をえらび申さる・・

  夜ふけ、人しづまって、さまざまに世間をうかがひ見るほどに、日ごろ人の言ふにたがはず、東三条の森のかたより、例のひとむら雲出で来たりて、御殿の上に五丈ばかりぞたなびきたる。雲のうちにあやしき、ものの姿あり。頼政、「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無帰命頂礼、八幡菩薩」と心の底に祈念して、とがり矢をとってつがひ、しばしかためて、ひょうど射る。

  手ごたへして、ふっつと立つ。やがて矢立ちながら南の小庭にどうど落つ。早太(頼政の家来)、つつと寄り、とって押さへ、五刀こそ刺したりけれ。そのとき、上下の人々、手々に火を出だし、これを御覧じけるに、かしらは猿、むくろ(胴)は狸、尾は蛇、足、手は虎のすがたなり。鳴く声は、鵼にぞ似たりける。「五海女」といふものなり。

  主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御剣を頼政に下し賜はる。(藤原)頼長の左府これを賜はり次いで、頼政に賜はるとて、ころは卯月のはじめのことなりければ、雲居にほととぎす、二声、三声おとづれて過ぎける。・・・・・・

  ・・・・・日ごろは山門の大衆こそ乱れがはしきことども申せしに、今度は穏便を存じて音もせず。南都、三井寺は事を乱し、あるいは宮を扶持したてまつり、あるいは御むかへに参る。「これ、もっぱら朝敵なり」とて、「奈良をも、三井寺をも攻めらるべし」とぞ聞こえける。

  「まづ寺(三井寺)を攻めらるべし」とて、同じく二十六日、蔵人頭重衡(清盛の五男)、中宮亮通盛(門脇宰相・教盛の嫡男)、その勢三千余騎、園城寺(三井寺)へ発向す。寺も思ひきり(覚悟を決めて)しかば、逆茂木ひき、戦ひけり。大衆以下法師ばら三百人ぞほろびける。・・・・・・・

  寺の長吏八条の宮(円恵法親王)、天王寺の別当をとどめられさせ給ふ。僧綱十余人、解官せらる。悪僧には、筒井の浄妙坊明秀にいたるまで三十四人ぞ流されける。

           (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   
    <あらすじ>

(1) 始めに「源三位入道・頼政」の来歴を述べ、保元の乱や平治の乱
    
での働きも、恩賞が僅かにしかなく、大内裏の警固のお役目も長
    年に亘るが、昇殿も許されない地下人であった。

     老齢になってから、詠じた”和歌”によって昇進し、四位とな
    って(昇殿を許される)更には三位になったという。

(2) 頼政の生涯の名誉は、近衛帝(在1142~1155)の御世に、帝が夜
    な夜なものに怯えことがおありになり、その怪物、怪獣?を退治
    
したという「武勇伝」であった。
     帝は、大へんお喜びになり”獅子王という剣”を与えたという。

(3) 二条帝(在1159~1165)の頃にも、”鵼”という”怪鳥”を射落と
    して、大へんお褒めにあずかったという。

(4) 三井寺(園城寺)は、謀叛の”高倉の宮・以仁王”をご援助して戦
    ったのであり、まさに「朝敵」である、これを攻めるべし!・・と
    五月二十六日、平家の大軍が押し寄せ火をかけ、多数の僧たちが討
    たれ、寺は炎上したと伝える。

 


第三十九句「高倉の宮最後」

2006-06-05 17:09:11 | Weblog

   攻める平家の軍勢と、落命する高倉の宮”以仁王”(左上・鳥居の前)

       <本文の一部>(宇治川の合戦の続き)

  飛騨守景家は古き兵にて、「宮をば南都へ先立てまゐらせたるらん」と、いくさをばせで、五百余騎にて南都をさして追ひたてまつる。案のごとく、宮は二十四騎にて落ちさせ給ふに、光明山の鳥居の前にて、飛騨守、宮に追っつきたてまつる。雨の降る様に射たてまつる。いずれが矢とは知らねども、宮の御側腹に矢一つ射立てまゐらする。

  御馬にもたまらせ給はず落ちさせ給ふを、兵ども落ちあひまゐらせて、やがて御首をぞ賜はりける。鬼土佐、荒土佐、荒大夫なんどといふ者ども、そこにてみな討死してんげり。御供つかまつるほどの悪僧の、そこにて一人も漏るるはなかりけり。

  宮の御乳母子(おんめのとご)に六条の佐大夫宗信は、ならびなき臆病者なりけるが・・・・目ばかりさし出だしてふるひゐたれば、しばらくありて、敵、みな首ども取って帰る。その中に、浄衣着たる人の首もなきを、蔀(しとみ)に乗せて舁いで通るを、「たれやらん」と思ひて、恐ろしながらのぞいて見れば、わが主の宮にてぞましましける・・・・

  ・・・・宮の御首は、宮の御方へつねに参りかよふ人もなければ、見知りまゐらせたる者もなし。典薬頭定成が、ひととせ御療治のために召されたりしかば、「それぞ見知りまゐらせん」とて、召されけれども、所労とて参らず。

  御子を生みまゐらせける女房なれば、なじかは見損じたてまつるべき。御首を見まゐらせて、やがて涙にむせびけるこそ、宮の御首には定まりけれ・・・・・

  ・・・・前の右大将宗盛の子息、侍従清宗、三位して「三位の侍従」とぞ申しける。今年十二歳。「父の卿もこのよはいにては、わずかに兵衛佐にてこそおはせしに、おそろし、おそろし」とぞ人申しける。
 
  これは、「源の以仁ならびに頼政法師追討の賞」とぞ聞書にはありける。
「源の以仁」とは、高倉の宮を申しけり。まさしく太上法皇の御子を討ちたてまつるのみならず、凡人になしたてまつるぞあさましき。

         (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   <あらすじ>

(1) 平家の武者、飛騨守・景家は、老練の武士であったので、高倉の宮
    南都へ向けて先に落させたに違いないと考え、合戦には加わらず直ち
    に””の後を追い、途中で追いつき猛烈に矢を射かけ、”宮”は遂
    に射落されて御首を取られてしまうのであった。
     お供の荒法師たちも逃散する者一人も無く、すべて討死したという。

(2) ””の幼少のころから一緒に育った佐大夫・宗信は、臆病者であっ
    た為、御首を取られた遺骸を目の前にしても、取りすがることもでき
    ず、たゞ傍の池の中に隠れているばかりであった。
     やがて平家の軍勢が引き上げたあと、"宮"の遺骸から名笛「小枝
    を取り出し押し抱いて、泣く泣く都へ向ったという。

(3) 前の右大将(さきのうだいしょう)宗盛の子”清宗”は、父の功によ
    って三位に叙せられた。(”源の以仁”並びに”頼政”追討の賞)

     叙位任官の文書に記された”以仁(みなもとのもちひと)”と
    は、”高倉”のことであり、太上法皇(後白河院)の御子を討っ
    たばかりではなく、臣下に扱うとは情けないばかりだと、世の人は噂
    したという。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  (注)
      ”高倉の宮”が討たれた場所は、「山槐記」には”加幡河原”
            で討たれたと、あり。
       現在は木津川とJR奈良線に挟まれたところに地名として
       ”綺田(かばた)”が残る。

  

  


第三十八句「頼政最後」

2006-06-04 15:18:48 | Weblog

          (右上)平等院に退く源三位入道”頼政

       <本文の一部>

   源三位入道は、長絹の直垂に、科皮縅の鎧着て、「いまを最後」と思はれければ、わざと兜は着給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧着て、「弓をつよく引かん」とて、これも兜は着ざりけり。

  橋の行桁を浄妙が渡るを手本にして、三井寺の悪僧、渡辺の兵ども、走り渡り、走り渡り、戦ひけり。ひっ組んで川へ入るもあり。討死する者もあり。橋の上のいくさ、火の出づるほどこそ見えにけれ。

  先陣上総守忠清、大将に申されけるは、「橋の上のいくさ、火の出づるほどになりて候。かなふべしともおぼえ候はず。今は川を渡すべきにて候ふが、をりふし五月雨のころにて、水量はるかにまさりて候。渡すほどにては、馬、人、押し流され、失せなんず。淀、一口(いもあらひ)へや向かひ候ふべき、河内路をやまはり候ふべき」と申せば、下野の住人、足利の又太郎すすみ出でて申しけるは、「おおそれある申しごとにて候へども、悪しう申させ給ふ上総殿かな。目にかくる敵をただいま討ちたてまつらで、南都へ入らせ候ひなば、吉野、十津川とかやの者ども参りて、ただいまも大勢にならせ給はんず。それはなほ御大事にて候ふべし・・・・・坂東武者のならひとして、川をへだつる敵を攻むるに、淵、瀬をきらふ様やある。この川の深さ、浅さも、利根川にいかほどの、劣り、まさりはよもあらじ。いざ渡さん」とて、手綱かい繰り、まっ先にぞうち入れける。

  同じく轡を並ぶる兵ども、・・・・・・三百余騎ぞうち入れたる。
足利(又太郎)、大音声をあげて下知しけるは、「強き馬をば上手に立てよ。弱き馬をば下手になせ。馬の足のおよばんほどは、手綱をくれてあゆませよ・・・・・敵射るとも、あひ引きすな。つねに錣をかたぶけよ。あまりにかたぶけて、天辺(兜の頂にある穴)射さすな。かねに(流れと直角に)渡して、あやまちすな。水にしなひて、渡せや、渡せ」と下知して、三百余騎を一騎も流さず、向かひの岸にざっと渡す。

  足利(又太郎)は、・・・・・・・宮の御方にわれと思はん人々は駆け出で給へや。見参せん」と言ひ、平等院の門のまへに押し寄せ、をめいて戦いけり。
 これを見て、二万余騎うち入れて渡す。馬、人にせかれて、さすがに早き宇治川の水は、上へぞたたへたる。

  いかがしたりけん、伊賀、伊勢両国の軍兵六百余騎、馬筏を押し切られ、水におぼれて流れけり。・・・・・・・

  宮(高倉の宮・以仁王)を南都へ先立てまゐらせて、三位入道(頼政)以下残りとどまって、ふせぎ矢射けり。三位入道、八十になりていくさして、右の膝口射させて、「今はかなはじ」とや思はれけん、「自害せん」とて、平等院の門のうちへ引きしりぞく・・・・・・三位入道は、釣殿(宇治川畔にあった)にて長七唱を召して、「わが首取れ」とのたまへば、唱、涙をながし、「御首、ただいま賜はるべしともおぼえず候。御自害だに召され候はば」と申しければ、入道、「げにも」とて、鎧脱ぎ置き、声高に念仏し給ひて、最後の言こそあはれなれ。

  むもれ木の 花さくことも なかりしに みのなるはてぞ かなしかりける

 と、これを最後のことばにて、太刀のきっ先を腹に突き立て、たふれかかり、つらぬかれてぞ失せ給ふ。・・・・・・首をば、唱泣く泣く掻き落し、直垂の袖に包み、敵陣をのがれつつ、「人にも見せじ」と思ひければ、石にくくりあはせて、宇治川の深きところに沈めてけり。・・・・・・・

  ・・・・競滝口をば、平家の兵、「いかにもして生捕りせん」とて、面々に心をかけたりけれども、競も心得て、散々に戦ひ、自害してこそ失せにけれ。

            (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
           ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     <あらすじ>
(1) 源三位入道・頼政は、弓を強く引くためにわざと兜をつけず、嫡男の
    
仲綱もこれにならう

(2) 平家の先陣、上総守・忠清は、川の水量が多く無理に渡河すれば人馬を
    失いましょう・・・と、回り道を進言する。

     ところが、足利の又太郎・忠綱は、「時が長引いては良くありません
    この川の様子どれほどのことがありましょう・・・」と、まっ先に川へ
    入り進んだので、続いて三百余騎が入った。

     又太郎は、急流の川の流れに人馬の”渡り方”を細かく指図して、一騎
    も流さずに向こう岸に渡りきったのであった。(見事な下知!)

(3) 平家軍二万余騎?もこれを見て渡るが、伊賀・伊勢の兵たち六百余騎が流
    れに水におぼれたという。

(4) 高倉の宮を南都へ先発させて、頼政以下は三井寺に留まって防ぎ戦った
    が、多勢に無勢、”頼政”は膝口を射られて重傷を負い、平等院内へ退
    き自害して果てたのであった。
    (その場所は、今も「扇の芝」として保存されている)

  ”むもれ木の 花さくこともなかりしに みのなるはてぞ かなしかりける

      埋もれ木のような 私の一生に 花の咲くような
       思い出も無いが こうして一生を終るのは 悲しいものだ・・・
    ("06.5.12"古典の仲間と訪れて、源三位入道・頼政公を偲びました)

 

 

 


第三十七句「橋合戦」

2006-06-04 11:52:17 | Weblog

        平家の大軍(赤旗)、後ろから押し寄せる大軍勢に、”先陣”の
        二百余騎が押し落されて水におぼれて流される・・・・

      <本文の一部>

  宮(以仁王)は、山門、南都をもってこそ、「さりとも」とおぼしめされつれども、「三井寺ばかりにてはいかにもかなふまじ」とて、同じき二十三日のあかつきに、南都へおもむき給ひける。

   宮は、「蝉折」「小枝」と聞こえし漢竹の御笛二つ持たせ給ひけり。・・・・・・・・・
・・・・・・この宮の伝はらせ給ひたりしを、いまは御心細うやおぼしめされけん。泣く泣く金堂の弥勒に奉らせ給ひけり。龍花の御あかつき、値遇の御ためか」とおぼえて、あはれなりし御ことなり。

   さるほどに、宮は宇治と寺(三井寺)とのあひだにて、六度まで御落馬あり。これは去んぬる夜、御寝もならざりつるゆゑなりとて、宇治の橋二間ひきはずし、平等院に入らせ給ふ。しばし御休息ありけり。宇治川に馬ども引きつけ、引きつけ、冷やし、鞍、具足をこしらへなんどしけるほどに、六波羅にはこれを聞きて、「宮は、はや南都へおもむき給ふなり」とて、平家の大勢追っかけたてまつる。

  大将軍には、入道(清盛)の三男左兵衛督知盛、・・・・・・・都合その勢二万余騎、木幡山をうち越えて、宇治の橋詰に押し寄す。「敵、平等院にあり」と見てければ、橋よりこなたにて二万余騎、天もひびき、地も動くほどに、鬨をつくること三箇度なり。先陣が「橋を引いたぞ、あやまちすな」と言ひけれども、後陣はこれを聞きつけず、「われ先に」とかかるほどに、先陣二百余騎押し落されて、水におぼれて流れけり・・・・・・・・・・

   堂衆に筒井の浄妙明秀は、褐の直垂に、黒皮縅の鎧着て、黒漆の太刀をはき、大中黒の矢負ひ、塗籠藤の弓のまん中取って、好む白柄の長刀と取りそろへて、橋の上にぞすすみける。大音あげて名のりけるは、・・・・・・・・・・・・二十五差したる矢を、差しつめ、引きつめ、散々に射けるに、十二人矢庭に射殺し、十二人に手負ほせて、一つは残りて箙(矢を入れて右の腰につける)にあり。矢をうしろへからと投げ捨て、箙も解いて川へ投げ入れ、敵「いかに」と見るところに、貫(熊などの毛皮で包んだ靴)脱いではだしになり、長刀の鞘をはずいて、橋の行桁をさらさらと走り渡る。・・・・・・・・・

  ・・・・・・・・・そののち、太刀を抜いで斬りけるが、三人斬りふせ、四人にあたる度に、あまりに兜の鉢に強う打ち当て、目貫のもとよりちやうど折れ、川へざぶと入る。いまは頼むところの腰の刀にて、ひとへに「死なむ」とくるひたり。

  浄妙(明秀)は、はふはふかへりて、平等院の門前なる芝の上に鎧ぬぎ置いて、矢目を数えければ六十三ところ、裏かく矢目五ところ、されども痛手ならねば、頭つつみ、弓切り折って杖について、南都のかたへぞ落ち行きける。

                       (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です

            ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
        <あらすじ>

(1) 高倉の宮(以仁王)は、延暦寺や興福寺の援軍があってこそ勝算があるものゝ、三井寺
    ばかりではとても無理、と、南都へ向って落ちて行くこととした。
     
     その際に、日ごろ秘蔵の笛「蝉折」を、三井寺金堂の弥勒菩薩に奉納するのであった。

(2) 乗円坊の慶秀は、高齢のために弟子の刑部坊(俊秀)を宮の御供におつけし、自らは
    三井寺に残るのであった。

(3) 平家の六波羅勢は、大軍勢をもって宇治橋の橋詰に押し寄せるが、先陣の兵二百余騎
    は後陣の大軍に押されて、なずされた橋げたのところから川へ落ちおぼれ流された。

(4) 浄妙坊(明秀)は、二十五本の矢を次々と射かけ、たちまち多数を射殺し、手傷を負わせ
    何と思ったか履物を脱いで裸足となって、橋の桁を渡り長刀を水車のように振り回して平
    家の武者をなぎ倒し、次いで太刀を抜いて戦うがこれも折れてしまい、腰刀で暴れ回り、

     這うようにして平等院内に退いた(明秀)は、多数の矢傷が深手ではなかったので、白
    い絹布で頭を包み(弁慶のような、僧兵スタイル)、南都へ向って落ちて行くのであった。

    (注) この浄妙坊”明秀”は、第四十句「鵼」の最後のくだりでは、平家による三井寺の
       攻撃と炎上の記述があり、結局、偉い坊さん等と共に”流罪”に処せられる。

    (注) 平家の攻撃の大将軍となった”知盛”は、本文では”三男”と記述されているが、
        ”四男”が正しいものです。
            ”重盛”の次の”基盛”が若くして亡くなっているので、小説などでは
            ”宗盛”が次男とされることが多く、”知盛”が三男になっていることが
             ある。

                                     



第三十六句「三井寺大衆揃ひ」

2006-06-03 15:46:58 | Weblog

        乗円坊の阿闍梨・慶秀ひとり、門下の僧たちと夜討ちに向うと・・・

          <本文の一部>

  同じき二十三日の夜に入りて、源三位入道(頼政)、宮(以仁王)の御前に参り、申しけるは、「山門(延暦寺)はかたらひあはれず、南都(興福寺)はいまだ参らず。事のびてはかなふまじ。こよひ六波羅へ押し寄せ、夜討にせんと存ずるなり。その儀ならば、老少千余人はあらんずらん。老僧どもは、如意が峰よりからめ手にまはるべし。若き者ども一二百人は、先立つて白河の在家に火をかけて、下りへ焼きゆかば、京、六波羅のはやりをの者(血気にはやる若者)ども、『あはや、事いでくる』とて、馳せ向はんずらん。そのとき、岩坂、桜本に引っ懸け、引っ懸け、しばしささへて防がんあひだに、若大衆ども、大手より伊豆守大将として六波羅へ押し寄せ、風上より火をかけて、ひと揉み揉うで攻めんずるに、なじかは太政入道(清盛)、焼き出だして討たざるべき」とぞ申されける。

  さるほどに大衆おこって僉議しけり。そのうちに、平家の祈りしける一如坊阿闍梨心海といへる老僧あり・・・・・「・・・内々の館のありさまも、小勢にてたやすう落しがたし。よくよくほかにははかりごとをめぐらし、勢をあつめて寄せ給ふべうや候ふらん」と、時刻をうつさんがために、長々とぞ僉議しける・・・・・

  乗円坊の阿闍梨慶秀、節縄目の腹巻を着、頭つつんで、僉議の庭にすすみ出でて申しけるは、・・・・・「・・・・余は知らず、慶秀が門徒においては、こよひ六波羅へ押し寄せて討死せよ」とぞ申しける。円満院の大輔源覚が申しけるは、「僉議端多し。夜のふくるに、いそげや、すすめや」とぞ申しける。・・・・・・

  如意が峰よりからめ手にむかふ老僧どもの大将軍には源三位入道。乗円坊の阿闍梨慶秀、・・・・・・長七唱(ちやうじつとなふ)、連の源太、与の馬允、競滝口、清、勧を先として、ひた兜一千余人、三井寺をこそうち立ちけれ。

  三井寺には、宮入らせ給ふのちは、大関、小関堀り切って、逆茂木をひいたりければ、堀に橋を渡し、逆茂木をのけんとしけるほどに、時刻おしうつりて、関路の鶏鳴きあへり。・・・・・・・・・五月の短か夜なれば、はやほのぼのとぞ明けにける。

  伊豆守のたまひけるは、「ただいまここにて鶏鳴いては、六波羅へは白昼にこそ寄せんずれ。夜討こそさりともと思ひつれ、昼戦にはいかにもかなふまじ」とて、搦手は如意が峰より呼び返す。大手は松阪よりとって返す。

  若大衆どもが申しけるは、「これは所詮、一如坊が長僉議にこそ夜は明けたれ。その坊切れや」とて押し寄せて、散々に打ち破る。防ぎ戦ふ弟子、同宿、数十人討たれぬ。一如坊は、はふはふ六波羅へ参りて・・・・・・

             (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
          <あらすじ>

    源三位入道・頼政が、「夜討ち」をしょうとして未遂に終る事件!

(1) 頼政は、高倉の宮・以仁王の御前で「比叡山・延暦寺は呼びかけにも
    
応じないし、興福寺からは未だ返事がこない、事が遅れては勝算も
    おぼつかないので、こよい六波羅へ夜討ちをかけたい」と申しでる。

     やがて三井寺の僧たちの詮議が始まるが、中に平家に心を寄せる
    一如坊心海という僧が、何とか時間を引き伸ばそうと策を弄す。
    (平家物語・絵巻の詞書では、”真海”と記述されている。)

(2) 乗円坊の慶秀は、「ぐずぐず長詮議など止めて、我等は門弟と共に
    こよい六波羅で討死せん!」と申し、詮議を打ち切り頼政を大将軍
    に、三井寺の僧兵たちと打ち出でる。

(3) しかし、高倉の宮・以仁王が寺に入られて以来、防禦のための堀を
    造り逆茂木をめぐらしてあったので、先ずこれを取り外し堀に橋を
    かけている内に夜が明けてしまい、六波羅へ真っ昼間に着いても戦
    の勝ち目が無いと、軍勢を引き返すことになってしまったのである。

(4) 若い僧たちは、これは一如坊・心海の長詮議のせいで夜が明けてし
    まったのだと怒り、その宿坊に押し寄せて散々に打ち破り数十人を
    討つ。
     心海は、ほうほうの態で六波羅へ逃げ失せ、事の次第を平家に報
    告するのであった。

         ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

       歴史に”もし”は無いにしても、この”頼政”の”夜討ち
       の策が実行されていれば”あわや”ということが起った?
       のかも知れません。