* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第四十六句「文 覚」(もんがく)

2006-07-17 18:58:23 | 日本の歴史

   <文覚の荒行> 真冬の那智の滝壷に身を沈め、荒行に入るが四~五日
           すると、水面に浮き上がって下流に押し流され、童子
           に助け上げられ、那智の僧たちが火を焚いて体を温め
           蘇生する。

  <本文の一部>

  そもそも兵衛佐(ひょうえのすけ)頼朝は、去んぬる平治元年(1159)十二月、
 父佐馬頭(さまのかみ)義朝の謀叛によって、生年十四歳と申せし永暦元年(1160)
 三月二十日、伊豆の国蛭が小島へ流されて、二十余年の春秋を送り、年ごろ日ご
 ろもこそありけれ(穏かに暮らしてきた)、今年いかなる心にて謀叛をおこされけ
 るといふに、高尾の文覚上人の申しすすめられたりけるとかや。

  かの文覚と申すは、渡辺の遠藤左近将監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門
 院の衆なり。(院警固の北面の武士であった)

  十九の年道心をおこし、出家して、修行に出でんとしけるが、「修行といふは
 いかほどの大事やらん、ためしてみん
」とて、六月の日の、草もうごかず照った
 
るに、片山の藪の中に這い入りて、あふのきに伏し、虻ぞ、蚊ぞ、蜂、蟻なんど
 といふ毒虫どもが、身にひしと取りつきて、刺し食ひなんどしけれども、ちとも
 身をばうごかさず。

  七日までは起きもあがらず、八日といふに起き上がりて、「修行といふはこれ
 ほどの大事か」と人に問へば、「それほどならんには、いかでか命も生くべき」
 と言ふあひだ、「さてはやすきことござんなれ」とて、修行にぞ出でにける。

  熊野へ参り、那智籠りせんとしけるが、まづ行のこころみに、聞こゆる滝にし
 ばらく打たれてみんとて、滝のもとへ参りければ、ころは十二月十日あまりのこ
 とねるに、雪降りつもり、つらら凍て、谷の小川も音もせず。

  峰の嵐吹き凍り、滝の白糸垂氷となりて、みな白妙におしなべて四方の梢も見
 もわかず。
  しかるに文覚滝のつぼへおりひたり、頭までつかりて、慈救の呪を満てける
 が、二三日こそありけれ、四五日にもなりければ、こらへずして文覚浮きあがり
 にけり。

  数千丈みなぎり落つる滝なれば、なじかはたまるべき。ざっと押し流されて、
 刃のごとくにさしもきびしき岩つぼの中を、浮きぬ沈みぬ五六町こそ流された
 れ、ときにいくつしげなる童子一人来たりて、文覚が左右の手を取って引きあ
 げ給ふに、人奇特の思ひをなし、火をたき、あぶるなんどしければ、定業なら
 ぬ命(前世から定まった命)ではあり、ほどなく生き出でにけり。・・・・・

           (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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 <あらすじ>

(1)源頼朝(1147~1199)(平治の乱(1159)で、討たれた源義朝の遺児)は、平家
   によって”伊豆の国・蛭が小島”へ、十四歳のときに流され、以来二十年
   の間穏かに暮らしていたが、今年(治承四年・1180)高尾山・神護寺の文覚
   上人
の”挙兵のすすめ”によって、謀叛を起こすことになる。

(2)文覚上人は、もともと遠藤盛遠という院御所警固の武士であったが、若い
   ころ渡辺党の渡の妻(袈裟御前)に横恋慕して、誤ってその相手を殺害して
   しまったことから、仏門に入ることを決意した。

(3)「那智の滝」での荒行で、死にかけた折に童子に助け上げられるが、満願
   の前なのにと、かえって助けられたことを怒り、また滝壷に打たれる。
    厳冬の滝の中の文覚を、八人の童子(不動明王に侍す)がきて、助け出そ
   うとするが、これも拒み、遂に悶絶してしまう。

(4)その後、各地の霊場にて修行を遂げ都に立ち戻り、”霊験あらたかな修験
   者”として評判になり、高尾の山奥で修行に専念する。
    八世紀の頃、和気清麻呂の願により建立された「神護寺」が、荒れ果て
   ているのを復興しようと、「勧進帳」をふりかざして、乱暴にも後白河院
   の御所に乱入し、大声で叫んだりの狼藉を働き、囚われて獄につながれる。

(5)やがて、美福門院(鳥羽帝の后、近衛帝の生母)がお亡くなりになり、恩赦
   で文覚も赦されるが、再び「勧進帳」をふりかざして都の中を勧進して回
   り、しかも「この世は、今にも乱れる・・・」と言いふらした為、又もや
   捕えられて、今度は”伊豆の国”へ流されてしまうのであった。

(6)文覚は、近藤四郎という武士に預けられて、韮山村(静岡県田方郡)の山の
   中に住み、近くに流されていた”源頼朝”のところへ出向いては語ってい
   たが、そのうち驚くようなことを言い出すのであった。
    「平家の大黒柱、平重盛(清盛・嫡男)公が去年亡くなられ、平家の先行
   きも覚束ない今こそ、兵を起こしてこの国を従えなさい」と説く。

(7)頼朝は、「私は、池の禅尼殿(平清盛の継母)に命を助けられた身、その
   後世を弔うために毎日の読経しか考えていない」と答え、更に、頼朝自身
   が”朝敵”としての罪を赦されなければ、どうして謀叛など起こせようか
   ・・・と述べる。

(8)これを聞くと文覚は、直ちに京へ上り、縁を頼りに前兵衛督光能の卿を
   訪ね、「頼朝の”勅勘”の赦しと、平家追討の”院宣”」を乞い、当時は
   平家に押し籠められていた”後白河法皇”から、やがて”院宣”を下し
   おかれた。

(9)一方、伊豆の頼朝としては、「あゝ、なまじに文覚の御坊につまらぬこと
   を云ってしまい、この私が又、どんなひどい目に遭うことか・・」と心配
   をしているところへ、文覚
が現れて院宣”を奉る。
    頼朝は、それを聞き驚き、急いで手を洗い口をすすいで、三度拝して
   院宣を開き見るのであった。

    そこには、前の兵衛佐(源頼朝)宛に”平氏一類を追討せよ”との文言
    が、確かにしたためられていたのである。

(10)”頼朝”は、この”院宣”を「錦の袋」に入れて、「石橋山合戦」の
   時も、旗の上に結びつけていたということであった。

         治承四年八月、平家打倒の兵を挙げた”源頼朝”は、
        デビュー戦ともいえる「石橋山の合戦」(神奈川県)で、
        十倍を超える大庭景親など平家側の軍勢と戦い、衆寡
        敵せず惨敗をし逃走、洞に隠れたところを敵軍の武将
        梶原景時(後に”頼朝”の御家人となる)が見逃して助
        けたため、九死に一生を得た”頼朝”は、その後真鶴
        岬から房総へ脱出して、再び兵を挙げるのであった。