山鹿城(芦屋)を逃げ出す“平家一行”。一番奥の屋形の船が“御座船”
右上に、背負われた“安徳帝”のお姿が見える。
<本文の一部>
さるほどに、小松殿(平重盛)の三男左中将清経は、ある夜船の屋形
にたち出でて、なにごとにも思ひ入り給へる人にて、心をすまし、横
笛の音とり朗詠して、こしかたゆく末のことども、のたまひつづけて
「都をば源氏がために追ひ落とされ、鎮西をば維義がために攻め落さ
れ、網にかかれる魚のごとし。いづちへ行かばのがるべきかは。なが
らへはつべき身にあらず」。しずかに経をよみ、念仏して、つひに海
にぞ入り給ふ。男女かなしみけれどもかひぞなき。
柳が浦にも内裏つくらるべき僉議ありしかども、分限ばければつくられず。また長門より寄すると聞こえしかば、海士の小舟に乗り、
海にぞ浮かび給ひける。
長門の国(山口県)は新中納言知盛の国なりけり。目代(代官)は紀伊
の刑部大夫道資といふ者なり。「平家の、小船に乗り給へる」よしを
聞いて、安芸(広島)、周防(山口)、長門(山口)三箇国の材木積みたる
船ども百余艘、点じてたてまつる。これによりて、讃岐の屋島にうち
渡り給ふ。阿波の民部成能が沙汰にて、四国のうちをもよほして、屋
島の浦にかたのごとくの板屋の内裏や御所をぞ造られける。
そのほどは、あやし(粗末な)の民の屋を皇居とし、船を御所とぞさだめける。大臣殿以下の人々、海士の苫屋に日を暮らし、しづがふし
どに夜をかさね・・・・・・・・
(注) かっこ内は本文では無く注釈記入です。
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<あらすじ>
(1) 折から10月、左中将・平清経(重盛の三男)は、何につけても思
いつめるお人であったが、ある月の美しい夜、舟屋形の中から舷
に出て、横笛で朗詠し「都は源氏の軍勢によって攻め落とされ、
鎮西(九州)は緒方維義のために追い出され、これから先どこへ
逃げることができようぞ。どうせいつまでも生きおおせる身でも
ないのだから・・・」と云って、静かに経を読み念仏を唱えて海
の中へ身を沈めてしまったのである。
(2) 源氏が長門(山口)から押し寄せるとの噂に、慌てゝ漁師の小船に
乗り移り海上へと移動し、波に揺られることになったのだが・・
長門の国は、新中将・平知盛の領国であった。目代(代官)の
紀伊の刑部大夫・道資は、平家の人たちが漁師の小船に乗って
いると聞き、大きな船百艘余りを用意して献上したので、一門の
人たちはこれらの船に乗り移って“四国の屋島”へと押し渡って
いった。
(3) 阿波の民部・紀の(田口)重能(平家の重臣)のはからいで、屋島
の浜に形ばかりの板屋の内裏や御所を急ごしらえしたが、前内大
臣・宗盛以下の人々は、漁夫の小屋で日を送り夜を過ごす有様
であった。
梶の音や白鷺の遠くの群れにも、「すはっ!源氏か・・・」と
思い煩い、やがて女房たちも潮風に肌を荒らし、美しい容姿も次
第に衰え、涙もつきず昔の面影も失せてしまったとか・・・。
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