* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第二十九句「法印問答」

2006-05-24 16:59:30 | Weblog
                西八條の清盛邸で、静憲法印(左)に意中を語る 清盛入道(右)

      『第二十八句「小督」は、巻の構成上項目のみあげて、
       内容本文は”第五十三句「葵の女御」”に記す』

               <本文の一部>

   同じき十一月七日の夜、戌の刻ばかり、大地おびたたしう動いて、やや久し。陰陽頭安倍の泰親、いそぎ内裏へ馳せ参りて、奏聞しけるは、「今度の地震、天文のさすところ、そのつつしみ軽からず。当道三経のうち、坤儀経の説を見候ふに、年を得ては年を出でず、月を得ては月を出でず、日を得ては日を出でず、もってのほかに火急に候」とて、はらはらと泣きければ、伝奏の人も色を失ひ、君も叡慮をおどろかせおはします・・・・・・・・

  同じき十四日、入道相国、この日ごろ福原へおはしけるが、なにと思ひ給ひけん、数千騎の軍兵を率して都へ入り給ふよし聞こえしかば、京中の上下、なにと聞きわけたることはなけれども、騒ぎあふことなのめならず。また何者の申し出だしたりけるやらん、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべし」といふ披露をなす・・・・・・・・・・

  同じき十五日、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべきこと必定」と聞こえしかば、法皇大きにおどろかせ給ひて、故少納言入道信西の子息、静憲法印御使にて、入道相国の西八条の第へ仰せつかはされけるは、「近年、朝廷しずかならずして、人の心もととのほらず、世間もいまだ落居せぬさまになりゆくことを、惣別(総じて)につけてなげきおぼしめせども、さてそこにあれば、万事はたのみにおぼしめしてこそあるに、天下をしづむるまでこそなからめ。あまつさへ嗷々なる体にて、朝家をうらむべしなんど聞こしめすは、なにごとぞ」と仰せつかはされける。
 静憲法印、入道相国の西八条の第へむかふ。

  入道、対面もし給はず、あしたより夕べまで待たれけれども、無音なりければ、さればこそ無益におぼえて、源大夫判官季貞をもって院宣のおもむきを言い入れたりければ、そのとき、入道相国、「法印呼べ」とて出でられたり。呼び返し、「やや、法印の御坊、浄海(清盛の法名)が申すところはひが事か、御辺の心にも推察し給へ。まづ内府(重盛のこと)がみまかりぬる(亡くなる)こと、当家の運命をはかるにも、入道、随分悲涙をおさへてまかり過ぎ候ひしか。保元以後は乱逆うちつづいて、君やすき御心もわたらせ給ひ候はざりしに、入道はただおほかたをとりおこなふばかりにてこそ候へ、内府こそ手をおろし、身をくだきて、度々の逆鱗をやすめまゐらせ候ひしか。そのほか臨時の御大事、朝夕の政務・・・・・」

「・・・・・・いかでか内府が労功を捨てらるべき。また重盛が奉公を捨てらるといふとも、浄海が数度の勲功をおぼしめし知らざらん。これ九つ。このほかのうらみなげき、毛挙にいとまあきあらず」

 はばかるところもなくくどきたてて、かつうは腹立し、かつうは落涙し給へば、法印は、「この条々案のうちのことなり。ことごとく院の御ひが事、禅門(清盛のこと)が道理」と聞きなして、あはれにもまたおそろしうもおぼえて、汗水にぞなられける・・・・・・・・・

  法印、御所へかへり参りて、このよしを奏せられければ、法皇も道理至極して、仰せ出だされたることもなし。

                 (注)カッコ内は本文ではなく、私の注釈記入です。
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     <あらすじ>

(1)治承三年(1179)十一月七日、夜八時ころに地震がしきりと起り、参内した陰陽頭
   (天文・暦・卜占などの陰陽寮の長官)の安倍泰親が申し上げるには、「この地震、
   天文の指すところ緊急の大事が起る・・・・」と。

(2)十一月十四日、福原の清盛入道が軍兵を率いて都に入り、このため京の街中は騒
   然となる。

(3)清盛が、朝廷を恨んでいるとのもっぱらの噂に後白河法皇は驚いて、翌十五日に静憲
   法印を清盛邸に遣わして事の次第を糺す。

(3)清盛入道は、『亡き重盛に対するのなさりよう、重盛に与えていた越前の国を取りあ
   げたこと、これまで永年にわたって忠勤を励んだ平家に対して、が関わる討伐の企
   ての噂もあり、最早ご奉公の気持ちも失せた!、など等、挙げきれないほどあり、法印
   の御坊はこの清盛の云うことが間違っていると思うか・・・』と、怒り時には泣きくどいた
   のであった。

(4)静憲法印は、「考えていた通りです、それぞれ後白河院が不当で、入道殿(清盛)の云
   うことが正しい」と、少しも動ずることなく述べた上で、「言い分はもっともであるが、現
   在の地位は法皇の称賛あってのこと、法皇側近の企てを院が加わっている等と信じ、
   法皇を滅ぼそうとなさることは、君臣の道にはずれるのではないか。とに角、言い分
   の趣を私が法皇に良くお伝えしましょう」と、座を立つのであった。

(5)御所に戻った静憲法印は、このことをつぶさに申し上げると、法皇も得心して「清盛
   申し分もっともじゃ・・・・」と、重ねて仰せだされることは無かったという。


     時の最高権力者『清盛』に対しては、中々ものを云う人もいない状況で静憲法印
   の堂々とした物腰には、並み居る人々も皆”称賛”したという。