国道2号線を防府方面から周南市中心部に向かっていますと
このような標識が目につきます。
また、ずいぶん看板を立てたものですが・・・。
ここから曲がると、室町時代の守護大名、大内氏の重臣である、陶氏の居城『富田若山城』址に行けるらしい。
ま、居城といっても、普段住んでいた屋敷は少し離れていて、今の永源山近くにあったらしいですが・・・。
ちなみに、国道の反対側の車線からは曲がれませんのでご注意を。
何はともあれ、城址まで行ってみましょう。
細いけれどもしっかりと舗装された道。
道沿いには、黒塗りの板に白い文字で俳句なんかが書かれたものが、やたらぶら下げてあったな。
桜の木がたくさんあったので、春は花見に訪れる人も多いんじゃないでしょうか。
車で2kmぐらい上っていきましたら、展望の開けた広場のような場所に到着しました。
城の見取り図で確認すると、ここは城の「三の丸」であったらしい。
なかなかの景色ですが、この日はあいにくの天気で、少し霞んじゃってるな。
見取り図の看板があった場所からは、山頂の「本丸」へと続く遊歩道が伸びています。
よく整備された道ですが、だんだん勾配がきつくなり
息絶え絶えになりつつ、石の鳥居をくぐった先が「本丸」跡。
意外に狭く、小ぢんまりとしたものでした。
普通の家2~3軒ぶんぐらいの広さかな?
中央部分に、小さな祠がありました。
さきほどの「三の丸」よりも、さらに展望はよろしいですな。
ここで、陶氏と若山城について簡単に説明を。
陶氏は、大内氏の一族で、代々周防守護代職をまかされた重臣でした。
よく知られているのが、主君である「大内義隆」を謀反(大寧寺の変)によって自害させた「陶晴賢」。
その後、「義隆」の養子である「大内晴英」を当主として擁立し、大内氏の実権を握りますが、「毛利元就」との戦いに敗れて滅亡します。
主君に謀反を働いたということで、悪人とイメージしてしまいがちですが・・・。
それを言ったら、戦国期の大名のほとんどは、主君を滅ぼして成りあがっているわけで、「陶晴賢」だけが特別なわけではりません。
領内の政(まつりごと)をおろそかにして学芸や茶会に没頭する主君を追いだすことは、ある意味では正義だったわけです。
実は「毛利元就」もこの謀反には手を貸していたりするのですね。
「若山城」は、石見国の吉見氏との戦いに備えて、「晴賢」の2代前の当主「陶弘護」によって築城されたと推測されているとのこと。
その後「晴賢」が大規模な改修を加えて、この地で謀反の挙兵を行います。
「晴賢」が厳島の戦いで毛利軍に敗れて自害した後、一族が守っていた「若山城」も攻め落とされて、廃城となりました。
北側斜面には「畝状空掘群(竪堀)」なるものがあるそうなので、ちょっと北側に降りてみます。
説明を読んで、理屈がわかるような・・・わからないような・・・?
たぶん、この溝がそうなんだろうな・・・たぶん。
再び頂上に戻って、うろうろしてたら
こんな碑を見つけました。
「徳山要港境域標」と書いてあります。
裏には、「海軍省」の文字。
戦前、徳山港が軍港として使われていた頃の標識らしい。
ひょっとして、この場所に監視所のようなものがあったのかもしれませんね。