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吉原公一郎 『松川事件の真犯人』 1962年三一書房のち2007年祥伝社文庫 1-3

2015年09月25日 | 戦後秘史・日本占領期

         ▲吉原公一郎  『松川事件の真犯人』 2007年祥伝社文庫  定価552円+税

 

吉原公一郎 『松川事件の真犯人』  1-3

 

吉原公一郎 『松川事件の真犯人』 1-3では前日、大野達三の『松川事件の犯人を追って』で紹介されていた松川事件転覆現場付近の目撃者であった斉藤金作についての記述部分である。

吉原公一郎は斉藤金作については、松川事件対策協議会発行のパンフレット『真犯人は誰か』を主要な引用・参照文献としてあげている。

斉藤金作は、松川事件のあった近隣に住んでおり、近隣の住人と同じように松川事件直後から警察の個別訪問を受け、本来は徹底した事件当日のアリバイ調査を受けているはずである。しかし松川事件で、斉藤金作は起訴されているわけではないため、松川事件法廷の記録に松川事件当日、斉藤金作が目撃したことが記載されているわけではない。また1949年の松川事件近隣の警察による住人調査記録などは公開されていないし、詳細な記録があったにしても、松川事件被告たちのアリバイを崩すような、背の高い数多くの集団の目撃の事実を斉藤金作が述べていたとするなら、当然廃棄されるべきものであっただろう。

また、「福島CICから呼び出され」何度も尋問、調査されていることを、斉藤金作に相談を受けた二本松の市会議員が証言している。しかし、当時は米軍占領下のこともあり、この三浦喜久治という市会議員は、「斉藤金作はソ連に関する情報提供を求められただけであったと松川弁護団に答えている。」のだが、この証言は、福島CICから、斉藤金作、市会議員三浦喜久治ともども、「家族・記者たちには決して話すな、公言するな!」と恫喝されていた疑いが強い。

斉藤金作がのちに横浜で輪タクをしていて、行方不明になり、死亡したことが判明したとき、斉藤金作の家族(妻)が、松川事件当夜のことを、記者に聞かれ、「何も知らない、何も聞いていない」と言ったようだが、これは、当時の占領統治と、その支配を受けていた民衆の生き延びる最小限の処し方だったのではないだろうか。占領軍への恐怖心から真実を述べていない可能性が高いが、彼らを責めるわけにはいかないだろう。

では、本日の本題に戻り、吉原公一郎の『松川事件の真犯人』が記している、斉藤金作に関わる情報

「斉藤金作さんは明治41(1908)年、福島県に生まれ、小学校の頃、両親とともに満州にわたった。太平洋戦争中兵隊にとられたが、終戦と同時に俘虜としてシベリアで暮らし、いわゆる「筋金入り」となって、引き揚げ、妻アサイさんの実家がある渋川村に住んでいた(この家は、松川駅より上り一つめの安達駅に向かって、歩いて30分ほどの線路脇にある。)」

「彼の生活は相当苦しく、かつぎ屋や、駄菓子の卸売りなどをしていた。友達も少なく、帰還者同盟の仲間や、共産党位のもので、精神的に淋しかったようだが、唯一の楽しみを、満州時代からよくしていた川柳の求めていた。

 松川事件の年の11月に発足した福島川柳社の同人として、創立の時から、彼が福島を離れるまで、一回も欠かさず句会に出席、川柳に興じた。今、私たちの調べによって、彼の遺した句を百句余りを見ることができる。その中に、私たちにとって事件との連想なしには読めない幾つかの句があることに気づくのである。

  搾取するものなま白き魅惑持ち

  ハムレット死は現実の幕をとじ

◎ 自殺する迄の気持ちを知る暗さ

◎ 首やっとつなぎ真綿でしめられる

   淋しさに別れてひよわな趣味に生き

◎ バラバラに骨はずされて夢が醒め

◎ 宿命の試練に泣く日笑う夜

このほか、

  一人寝の恐怖ドアーの蔭の声

  糸引いて谷間の夜汽車夢に浮き

などの句は、事件(松川事件)にかかわりあった彼の苦しみの表白ではないだろうか。」

斉藤金作が横浜で人力車の運転手の仕事する前に、友人だった安斎金治さん(都下昭島市在住)をたずね、いろいろなことを話して一夜を明かしたことがあった、その時のことを回想して安斎氏は次のように回想している。

「私は斉藤さんが五つか六つのころから知っているのですが、横浜にゆく前に私をたずねてくれました。あの事件は共産党がやったなんていうことはない。証人になってもいいといっていました。」

『夜おそく現場を通ったら、人がたくさんいた。横道へ行ってみたら引き上げるらしかった。背の高い人間だった。そのことがあってから、しょっちゅう警察のものがきた。事件を知っているのは私一人だから、言わせまいとしてつけまわすらしい』ともいっていました。その後、斉藤氏を横浜にたずねたら三輪車の運転手をやっていましたが、そのとき警察が呼び出したりしてうるさくてしょうがないといっていました。」 昭和33(1958)年7/16『アカハタ』」

 吉原公一郎  『松川事件の真犯人』 2007年祥伝社文庫 第六章 目撃者 (131-138頁)

 

 このように斉藤金作は、幼なじみで、親しくしていた、東京昭島市に住む安斎金治には、本当のことを打ちあけ、また、安斎金治も、記者に対して、斉藤金作が話したことをそのまま伝えているのではないだろうか。『アカハタ』の取材記事は昭和33年の7月であるから、斉藤金作の死以後、日本が独立して以後である。占領下の占領統治の恐怖から免れて、斉藤金作が語ったことを歪めず伝えたのだと思う。斉藤金作が上京したとき、そして、安斎金治が横浜に斉藤を訪ねた時、その2回とも、「警察の付け回しに会ってうるさくてしょうがないこと、事件(事故現場)のことを知っているのは私一人だから、言わせまいとして付け回されている」と言っていたのである。

日本の新聞社、報道機関に送られてきた1952年の英文で書かれた怪文書は間違いは散見されるものの、生前に斉藤金作が、親友の安斎金治に語っていた、「事件を知っているのは私一人だから、言わせまいとしてつけまわすらしい」ということとぴたりと一致する。

斉藤金作は、不審死であるにもかかわらず、解剖されることなく、「ズボンの前ボタンが外れ、右手袋を取っていたという状況証拠だけで」(いくらでもこのような状況証拠はつくることができるが)酒を飲み、誤って堀に落ち死んだとされたのである。

「宿命の試練に泣く日笑う夜」

いう川柳を詠んだ斉藤金作は、何を日本の現代史に残そうと湯飲みに焼き付けたのだろうか。

 

斉藤金作が、松川の脱線転覆が起こる現場で見た背の高い大勢の人間たちは誰だったのか。

また、斉藤金作が現場を立ち去り帰途についた自宅まで跡をつけ、斉藤金作に決して口外しないよう、また口外すれば軍法裁判にかけられると告げたのは誰なのだろう。

斉藤金作に警告した人物は日本語のできる二世米国軍人なのか、当時松川周辺で破蔵事件が相次ぎ、深夜警戒にあたっていた地元の警察なのか

もし、この人物が、日本人で、地元の警察官であったなら、松川事件の起こることをあらかじめ知っていたことになり、工作グループを手助けした共謀事件となるわけだが。

深夜、脱線工作していたグループと連携して、事件現場となる場所に立ち入らせないように、東北線の金谷川駅方向と、松川駅方向、そして東北線と交錯する道路から東北線路内に入り、家路までの近道として利用する人物などを規制する人員も相当数必要なことは間違いない。

1 東北線の線路を取り外す、直接作業をする工作隊

2 工作隊が円滑に作業できるように東北線、及び、それと交錯する道路の重要箇所など、予期しない人物の目撃者が現れないよう東西南北から現場を封鎖し、監視する部隊

3 バールやスパナなど、工作の証拠の痕跡を故意に残す部隊

4 事故発生を警察に通報し、その後の事後処理の仕方を工作・調整する部隊

 

つづく

 

 

 



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