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永岑三千輝 『独ソ戦とホロコースト』 2001年 ほか 『ホロコーストを学びたい人のために』

2017年06月05日 | 帝国・帝国主義・軍産官報複合

                ▲永岑三千輝 『独ソ戦とホロコースト』 2001年 日本経済評論社

 

 

永岑三千輝 『独ソ戦とホロコースト』 2001年 日本経済評論社 ヴォルフガング・ベンツ 中村浩平・中村仁訳 『ホロコーストを学びたい人のために』2004年 柏書房

 

永岑三千輝 『独ソ戦とホロコースト』 2001年 日本経済評論社 ヴォルフガング・ベンツ 中村浩平・中村仁訳 『ホロコーストを学びたい人のために』2004年 柏書房

 

▲ 永岑三千輝 『独ソ戦とホロコースト』 2001年 日本経済評論社 定価5900円+税

ちょっと価格が高くてなかなか手を出せない状態だったのだが、永岑三千輝の『ホロコーストの力学』2003年青木書店、を読んだ経緯があって、マークしていた。このほど、古書店より、水漏れで痛んではいるが格安で入手。『ホロコーストの力学』では巻末に年表掲載してあり、「絶滅収容所」建設開始など、記載あり。

その根拠の基礎資料となる提示はあるのかどうか、どんな論証をするのか。確認したかった。

▲ 目次1

 ▲ 目次2

 

▲ヴォルフガング・ベンツ 中村浩平・中村仁訳 『ホロコーストを学びたい人のために』2004年 柏書房

 定価2200円+税

▲『ホロコーストを学びたい人のために』 目次

 

本棚整理中のため、上の本のコメントはなし

 

 

 

 学生時代の頃、アラン・レネのドキュメンタリー映画 『夜と霧』 を見たことがあった。もう50年近い前のことである。

またそれより前、アウシュヴィッツ巡回展のような特別展を高校の時見たのだが、今ではその記憶は映画だったのか、実際の展示品の記憶だったのか定かではなくなっている。

アメリカの9.11事件の後、しばらくしてなのだが、私は、この事件の事実関係を調べていくうち、自作・自演の可能性があることを知った。またその爆破・解体の有力な証拠の提示もなされ、科学者によって論証されていることも分かってきた。

そうなると疑問は、これまでのさまざまな歴史的大事件にも向けられるようになってくるから不思議だ。

1995年にランズマン監督の映画、『ショアー』が公開されたときは、気にもとめないでいたものが、ひとつひとつ、疑問となってきた。映画に出てくる証言には、物的証拠を提示しながら、それを監督がインタビューして、問い質すものがないことも分かってきた。収容所の記憶の一方通行のモノローグなのだ。1995年公開された当時は、それを文学的・芸術的表現の極致のような映画評価もあり、私も、それを疑問とも思わず受け入れていた。

しかし、2001年の9.11事件以降は、常識や、国家への信頼、自らの日常感覚すらも徹底して吟味しなければいけないことを学ばされたのである。

それ以後、高校時代の記憶のなかの、「人間の脂肪で作った石鹸」 とか、「人の皮膚で作られたランプ・シェード」とかが、「プロパガンダ」以外の何ものでもないことも分かってきた。

ナチスドイツによる、未だ人間が歴史上経験したことのない残虐行為の指令が、あったとすれば、いつ、どこで、どのような方法で、第三帝国の各地に伝達され得たのか考えてみたいのだ。

それとも、独ソ戦の厳しい戦闘と膠着の中で、一切の人間性の基底が爆破されたのか、それとも・・・・・・・まさかプロパガンダとしての「ホロコースト」ではないだろうね。まさかね・・・・・・・・・・・魔法の洗脳の罠にかかったのではないだろうね。・・・・・・・・・・・まさかね。・・・・・・・・・・。

第2次世界大戦における 

ソ連の死者 約2000万人~2500万人

ドイツの死者 約500万人、東欧人は何人死んだのだろう ?

ユダヤ人の死者  600万人と多くの史書は伝える

アメリカの死者 数十万人

英国の死者  数十万人

フランスの死者は?

ソ連の死者2000~2500万人はどんな死の語られ方をしたのだろうか。

日本人は第2次世界大戦におけるソ連人の死を見てきたのだろうか。

歴史の中の死者の語られ方に、著しい非合理性はないだろうか。

 ▲ ソ連 1942年 ペテルブルク (旧レニングラード) 『20世紀の歴史16』 1990年 平凡社 41頁

熾烈を極めたドイツ軍のレニングラード包囲作戦 900日

この本の本文では次のように人口300万人だったレニングラード包囲作戦のことを記している。

「1942年1-2月、毎日12000人から2万人(それ以上の可能性もある)が死亡、

2月だけで、餓死者は7万3000人、1942年末に100万を割った人口は43年5月に63万7000に落ち込んだ。・・・・・・解放は赤軍がドイツ軍の封鎖を撃破した1944年の1月のことである。

・・・・・・<レニングラードっ子>は断固としてこの都の滅亡を拒んだのである。」

『20世紀の歴史16』 1990年 平凡社 40頁

 

 

つづく

 



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