▲磯田光一 『左翼がサヨクになるとき・・・・・ある時代の精神史』 1986 集英社
磯田光一 『左翼がサヨクになるとき・・・・・ある時代の精神史』 1986 集英社
磯田光一 『左翼がサヨクになるとき・・・・・ある時代の精神史』 1986 集英社
▲左 磯田光一 『左翼がサヨクになるとき』1986 ▲右 島田雅彦 『優しいサヨクのための嬉遊曲』1983
▲ 磯田光一 『左翼がサヨクになるとき・・・・・ある時代の精神史』 1986 集英社
前日、詩誌『ユリイカ』1975年の太宰治特集で、寺山修司が、太宰治の「走れメロス」を手がかりとして、太宰文学の歴史認識を厳しく、その弱点を指摘していた。ある意味では、「王殺し」という世界史的問いを問題にしていた。
それはある観点からでは、王の市民に対する関係でもあり、また王権の政治的力量の測定でもあった。
権力という、1970年代前半まで、日本の作家たちが抱えていた共通の執筆モチーフの一つでもあったのかも知れない。
「文学と政治」という古い問題が痕跡的にでも残されていたのかと言う問題だ。
立松和平や村上春樹の初期の作品には、直接的・あるいは極めて不明瞭に、比喩的に語られているにしても、1960年末の日本の社会運動の刻印があった。
ところが、1980年代初頭、島田雅彦の登場によって、左翼→サヨク という、精神史の地殻変動を表す変化が起きていた。
このことについて、磯田光一は、島田雅彦 『優しいサヨクのための嬉遊曲 の使用される言葉の変化を手がかりにして、日本の作家と政治の関係の変容を、過去にさかのぼって、「ある時代の精神史」として掘り起こしていく。
磯田光一の著書『戦後史の空間』の続編にもなっている。
村上春樹も、磯田光一の手にかかれば、同時代に起きていた地殻変動のエネルギー値にぴたりと収まっていく。
人は時代を越えた思考や作品でありたいと恐れもなく野望する可愛いものかも知れない。