グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その13。最後です。)

2005年07月30日 | Wood's Book翻訳
 カスケードにおけるGNの運用の改善にとって、新カスケードトンネルと同様に重要であったのが、約5百万ドルのコストで実施した東側の上り勾配の配置替えであった。1921年にさまざまなルートの調査が開始され、A. Guthrie & Companyは、選ばれたルートの建設を1927年7月に開始した。配置替えはペシャスティンから始まり、レヴェンワースの東で2/3マイルの新線と旧線の連絡線が作られた。新線は、チャムスティック渓谷を上り、2,601フィートのチャムスティックトンネルを通ってウェナッチー渓谷に再び入り、ウェナッチー川を360フィートの鉄橋で渡り、800フィートのトンネルでデッドホースキャニオンに入る。新線は、その後3,960フィートのウィントントンネルを抜けて旧線に戻る。
 チャムスティック線は、大雪でたびたび通行不能となっていた、ウェナッチー川に沿ってタムォーターキャニオンを抜ける曲がりくねった旧線を不要とした。これにより、1.5マイルのスノーシェッドが不要となったが、同時に新たに4,000フィートのカバーを建設する必要があった。新ルートは、旧線に比べて約1マイルしか短くなっていないものの、多くのきついカーブやきつい勾配を減少させた。合計で1,286度、48カーブ減少し、もっともきついカーブも旧線の9級に対して3級となった。最大勾配も1/4に減少し1.6%となった。本線上に残る2.2%の勾配は、スカイコミッシュから西ポータルまでの12マイルと、東ポータルと新チャムスティック線開始点の間の4マイルのみとなった。
 近道となるチャムスティック線の1928年の完成により、ベルンとウェナッチー間で残る50マイルを電化して蒸気機関車を完全に不要にすることが決定された。ウェナッチー~スカイコミッシュ間の本線の72.9マイルと側線17.04マイル全てが600万ドルの工費で電化された。これには旧トンネルの部分は含まれていない。電力は、Puget Sound Power & Light社により供給された。同社は、スカイコミッシュとウェナッチーに発電所を建設するとともに、GNからリースを受けたタムウォーター発電所を利用した。
 新システムは、運行をスピードアップし、蒸気機関車運行による損失を一掃したが、その能力を一杯に使われることはなかった。建設時には、GNとNPは合併を考えていた。そこで、システムは両方の鉄道の本線列車を通す能力で設計されたが、需要はこれに達することは無かった。スポーカンまで電化を延長する可能性もあった。大きく過剰に設計されたこのシステムは、もともと複雑で非効率的であった。電力は、トランス、モーター、発電機を経て動力モーターに達する。機関車の効率は、40%を越えることはほとんど無かった。
 GNが、第二次大戦後にディーゼル化に傾くと、カスケードの電化運用のコストに厳しい目が向けられた。調査の結果、1956年に電化全体が廃止され、ディーゼル化された。カスケードトンネルには排気システムが設置された。二つの巨大な6フィートのファンを東側に置き、東行きに勾配を登ってくる列車の排気を吹き飛ばすことができた。
ボールドウィン・ウェスティングハウス製の機関車とGE製のW-1は廃車処分となった。8両のGE製の機関車はペンシルバニア鉄道に売られ、タムウォーターの発電所はChelan Country P.U.D.に売却された。架線は取り外され、今日では、長い何両ものディーゼル機関車が牽く貨物列車が、いまだに山岳鉄道であるカスケードを越えて走っている。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その12)

2005年07月29日 | Wood's Book翻訳
 開通式は、36局のラジオ局を通じてNBCにより中継された。全国的に有名なアナウンサーのGraham McNameeの司会で、式典は、Herbert Hoover大統領のスピーチ、マダムErnestine Schumann-Heinkの歌、Ralph Budd社長によるトンネルのJames J. Hillへの献呈、と続いた。新聞記者や高官たちは、新しい2両の電気機関車に引かれた特別列車でトンネルを通過するのを待っていた。機関車が東ポータルに入ってすぐ式典のために止まったとき、外の冷たい空気からトンネル内の暖かい空気に急激に変わったため、凝縮が起こり、2両目の機関車のトランスがショートした。1両目の機関車だけでは、列車を動かすことができず、20分の予定の旅は35分に延びた。西ポータルのアナウンサーは、言葉が尽きてバンドミュージックで間を繋いだ。3両目の電気機関車が列車を押してトンネルを通過し、ついに意気揚々と列車は西ポータルの紙のカバーを抜けて現れ、人々をほっとさせた。
 新トンネルにより、最高高度は2,881フィートに下がり、合計1,940度のカーブを不要なものとした。また、カスケードトンネル駅とベルン間の線路、シーニックとタイの間の2.2%勾配、そして40,000フィートに及ぶスノーシェッド、マーチンクリークに架かる2つの大きな鉄橋、いくつもの小さな橋梁を不要のものとした。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その11)

2005年07月28日 | Wood's Book翻訳
 新トンネルの調査は1916年から1917年にかけて実施された。この冬もカスケードはひどい天候であった。10の案が4つにまで絞り込まれたが、第一次世界大戦がそれ以上の調査を許さなかった。1921年に路線調査は再開された。1925年にJohn F. StevensはGNにコンサルティング技術者として呼び戻され、ベルン~シーニック間10マイルの案を最も現実的なものとして選んだ。この案には、7.79マイルのトンネル(東から西へと634フィート下る)、3/4マイルのベルンへの東側の新しい勾配、1.5マイルのシーニックへの西側の勾配が含まれていた。1925年11月26日、感謝祭の日に、GNの取締役会は、Stevensの提案を受け入れ、社長のRalph Buddに工事を実施するよう指示した。契約は、ミネソタ州セントポールのA. Guthrie & Companyに発注された。副社長のJ. C. Baxterにより練られた建設計画は、GNの主任技師であるCol. Frederick Mearsの直接の監督の下、実施された。状態の悪化したスノーシェッドのもう一冬の補修を避けるために、プロジェクトは、1928年から1929年にかかる冬の間に完成されねばならなかった。
 工事を促進するため、掘削は両方のポータルから同時に始められるとともに、東ポータルから2.41マイルのミルクリークからトンネルレベルまで622フィートの第3の縦坑が掘られた。このしっかりと材木で支持された8フィート×24フィートの縦坑は後に659フィートまで掘られ、倉庫と水だめになった。ミルクリークの縦坑は、1926年8月に完成し、工事は、東ポータルから西へとミルクリークから東へと勾配を上りつつ、進められた。西側のセクション(ミルクリークと西ポータルの間)は、東側のセクションの2倍の長さ(5.38マイル)があった。そこで、パイオニアトンネルがメイントンネルの南66フィートのところに平行して掘削された。両方のトンネルの掘削は1925年12月28日に開始された。しかし、メイントンネル(幅18フィート、高さ26フィート)に比べ、パイオニアトンネルは小さかった(幅8フィート、高さ9フィート)ので、メイントンネルよりもパイオニアトンネルのほうが進行が確実に速かった。パイオニアトンネルの開通は1928年5月1日で、最後の発破は社長のCoolidgeがワシントンから爆破した。パイオニアトンネルは、メイントンネルの7フィート上方に建設され、概ね1,500フィートごとに45度の角度の立入れがあったので、メイントンネルの掘削は多くの掘削面で行われていた。設備や供給の運び入れ、土砂の排出は、1箇所ではなく複数の箇所で実施された。後に出水が厳しい問題となったときには、パイオニアトンネルの床が掘り下げられ、メイントンネルの排水溝となった。
 プロジェクトを3年ちょっとの間で完成させるには、これまでに掘られた同様のトンネルの2倍の速さでトンネルを建設する必要があった。多くの記録が破られた。多いときには1,793名の工夫が、24時間体制で日曜も休日も無く地下で働き続けていた。475万ポンドのゼラチンダイナマイト、75万個の雷管が使用された。ライニングのためのコンクリートは現場で混合された。最初のコンクリートは、縦坑建設の1年半後に打たれ、最後のコンクリートは、最後の岩が取り除かれた16日後に打たれた。工事は、8マイル近いトンネルで非常に正確に進められ、「貫通」の際には、両方からのラインは、横に9インチ、たてに3インチしかずれていなかった。トンネルは1928年12月24日に完成し、1929年1月4日にはレールも引かれ、予定通り1月12日に開通した。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その10)

2005年07月27日 | Wood's Book翻訳
 同じ頃、スティーヴンズ峠は、25マイルから30マイルも、土砂や木々を含んだ雪崩でうずもれていた。ロータリー車では歯が立たず、線路から障害物を取り除くのには爆薬も使われた。東側からトンネルを抜けてウェリントンまでの最初の列車が走ったのが3月9日、シーニックまで開通したのは3月12日だった。雪で覆われたスロープのふもとを走る線路を守る唯一の手段はスノーシェッドの建設だった。1910年の残りの期間に150万ドルが費やされた。このコストで、3,900フィートの鉄筋コンクリート製スノーシェッドがウェリントンに建設され、870フィートの既存の木製スノーシェッド、この2つの間をカバーする新しい木製スノーシェッド、26ヶ所の他の場所の木製スノーシェッド等が建設された。これにより、既存の全長7,593フィートの17箇所のスノーシェッドに加え、5,411フィートの線路がカバーされた。直径6インチのパイプがウェリントンからシーニックの間の線路に沿って引かれ、スノーシェッド内に防火のためのホースと配水塔も設けられた。また、貯炭庫がスノーシェッド内に置かれ、万一の際に機関車やロータリー車が使用できるようにされた。ベルンの2.07マイルの線路の大幅な配置替えや他の場所での小規模な配置替えが実施され、スノーシェッドを建設しなくてもいいようにされた。後年、ウィンディポイントはトンネルとなり、更にスノーシェッドも追加され、ウェリントン~シーニック間の線路の61%がカバーされた。これでも問題は完全には解決されず、2500万ドルをかけた新カスケードトンネルの完成と、40マイルの線路の配置替えを待たねばならなかった。
 1923年に、支部の境界は22マイル東に移動し、レヴェンワースからウェナッチーとなった。経済的には、貨物列車の長編成化が要求されていた。よりパワフルなミカドやマレーが投入され、大幅に増大する輸送量に対応できたが、この長くて重い列車をトンネルで3重連の電気機関車でも牽引するのは無理だった。4重連にすると発電所に無理がかかるため、列車は2分割されていたが、これは時間もかかる運用だった。この問題を解決するために、電気技術者により「カスケード」連結が開発された。このシステムでは、電気機関車は半分の速度しか出せなかったが、発電所に無理をかけることなく4両目の機関車を追加することができた。これにより、貨物列車は4重連で時速7.5マイル、旅客列車は重連で正規の時速15マイルで牽引された。他方で、これは、高価な電気機関車の余剰を生み出した。GNは、余剰の乗員、電気機関車、発電所を活用し、運用コストを削減するために、電化区間をスカイコミッシュまで延長することを決定した。新カスケードトンネルのために作られたこの計画では、旧トンネルの旧型電化を廃止し、シーニックとタイ間の9マイルにも新たな電化をすることとなっていた。
 GEの旧型の6,600V三相交流のシステムは、運用に限界があるために、スカイコミッシュまでの延長部分には採用されなかった。その代わりに、11,500V単相交流システムが、1927年2月6日にシーニックとカスケードトンネル駅の間で完成し運用を開始した。また、3月5日には、スカイコミッシュまで延長された。新しい機関車が1927年と1928年に追加投入された。単機で運用される大きい機関車はGE製で、常に重連で運用される小さい機関車は、ボールドウィン・ウェスティングハウス製であった。更に、Spokane & Inland Railroad (Spokane Couer d’Alene & Palouse)からの1両が補助的使用のために改造された。これらの機関車は、新トンネルの完成まで旧トンネル路線で使用された。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その9)

2005年07月26日 | Wood's Book翻訳
 2年後のケースはこれほどに幸運な結末ではなかった。1909年から1910年の冬は、57マイルのカスケード支部にとって非常に厳しいものだった。2月末、James H. O’Neill支部長は春の近づきを待ち望んでいた。天候はよくなる代わりに、カスケード支部にとって始めての、この季節にしては遅い、2週間に及ぶ大雪に見舞われた。1910年2月22日、列車No.2オリエンタルリミテッドに先行して、列車No.26(東行き各駅停車)が、午後10:15にスカイコミッシュに到着した。両列車は、ロータリー車に続いてカスケードトンネルを通り、問題なくレヴェンワースに到着した。また、問題なくシーニックに到着した西行きの貨物列車と出会っていた。2月23日午前1:30、スポーカン、ウェナッチー、エヴァレット、シアトル、タコマと375マイルを走る旅客各駅停車No.25と、セントポールからの4両編成のファーストメイル、列車No.27は、ビタールーツでの雪のために遅れていたが、レヴェンワースから西に向って続行するように指示された。西からの吹雪は厳しさを増し、また、これらの列車に会うべきロータリー車はウィンディポイントで雪崩に捕まっていた。列車に食堂車は無く、食事はカスケードかウェリントンでしか摂れなかったので、カスケードトンネル駅で停車することが決定された。24日の夜になって、トンネルを抜けてウェリントンに列車を動かせるように除雪が完了した。その夜、幅50フィートの雪崩がカスケードを襲い、調理人室が渓谷まで流され2名が死亡した。この雪崩により、レヴェンワースに引き返すこともできなくなった。
 ウェリントンの設備能力は一杯一杯で、人々は疲れ果て疲労の極に達していた。あまりに大雪で、また吹き溜まりも多く、雪崩が起きるかもしれないという旅客の恐怖も高まっていた。トンネル内は、寒く、湿っていて、また暖房と電灯電力を供給するために機関車の蒸気をあげれば、煙が充満するので、トンネルの入り口近くに列車を置くことが考えられた。スノーシェッドは、列車全体をカバーしなかったし、もともと最も危険と思われる所に建設されていた。26日、幅88フィート深さ5フィートの雪崩が、2両のロータリー車と、それに石炭を供給するウェリントンとの間で起きた。これを突破する方法は無かった。もはや線路を除雪するロータリー車も無く、列車を動かさないことが最善の方法と考えられたが、実際列車を動かすことは不可能だった。
 O’Neillは、二人のブレーキマンとともにシーニックに向けて歩き始めた。直線距離では4マイルだが、1000フィートを下るために線路延長は9マイルだった。ウィンディポイントでもシーニックまでは800フィートの下りである。27日、列車の乗客5名は、つらい歩きと、コートでウィンディポイントから渓谷にすべりおりたりして、抜け出した。ウェリントンでは備蓄が乏しくなり、工夫たちが、給料値上げを拒否されたために働くなり、列車は東西両側の雪崩で捕まってしまっていた。もうひとつのグループの11人(うち5人は乗務員)は、28日にシーニックに向けて出発した。その夜は、雷と激しい雨にみまわれた。午前1:45ごろ、前年の山火事で禿山となっていた部分が地すべりを起こし、2列車と7両の機関車を渓谷に押し流した。幅2,000フィート、長さ1/2マイル、深さ14フィートの地すべりは、雪と土砂で、96人の命を奪った。3月10日のGNの正式報告書で、死者95名と報告されるまで、混乱し矛盾した間違った情報が流れた。春になって更に1名の死体が発見され、死者は96名となった。35名の乗客、55名の乗務員等、6名の身元不明の工夫であった。最高裁判所まで訴えは争われたが、最終的には、この惨事は「自然災害」とされた。GNは、この町(ウェリントン)の名前をタイと変えた。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その8)

2005年07月25日 | Wood's Book翻訳
 1909年7月10日、三相交流による電化が完成した。このタイプは、西半球ではただ1箇所であり、勾配を下るときに回生ブレーキを使用できる、当時としては唯一のシステムであった。スピードがモーターとの同期速度を越えると、自動的にモーターが発電機となり、架線に電力を戻すとともに、結果として歯止めとなって列車を引き止める働きをする。しかし、列車重量は、モーターにダメージを与えないよう、時速15マイル、モーター同期速度375回転/分を維持できるように制限されていた。多くの乗務員はモーターと付き合うのを嫌がった。市電タイプのトロリーポールは架線から簡単に外れやすく、また、カスケードトンネル駅で電気機関車を着けたりはずしたりするのにも時間がかかっていた。しかしながら、小さな電気機関車は、乗員や乗客をガス中毒させること無くトンネルを通過させるという目的を達成していた。特に、トンネルを西向きに下るときの制御に適していた。
 残念ながら、電化は冬季の雪の問題は解決できなかった。線路はむき出しであり、シーニックとレヴェンワースとの間のいたるところで雪崩に埋もれていた。スカイコミッシュとウェリントンの間の21マイルは、セントポールまでの残りの1,800マイルよりも問題が多かった。
 ウェリントンの大災害の前例が1907年12月に起きている。ロータリー雪掻き車を先頭に、ボールドウィン製のパシフィックNo.1438は列車No.4をスカイコミッシュからウェリントンに向けて牽いていた。強い風により吹き溜まりの雪が、切り通しを埋めていた。シーニックまでの12マイルに5時間かかり、そこで乗務員たちはウェリントンまでの残り9マイルを続行するかどうか協議した。運転指令の指示により、列車は続行し、ウェリントンまで後2マイルになったとき、雪崩が襲い掛かってきた。この雪崩は、ロータリー車がまさに入ろうとしていたスノーシェッドの入り口をふさぐ勢いだった。機関士は列車を後進させ、出てきたばかりのスノーシェッドに戻り、その直後に雪崩がスノーシェッドの両方の入り口をふさいだ。ウェリントンに徒歩でたどり着くまで10日間そこに閉じ込められた。列車を掘り出すまでには、更に二日を要した。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その7)

2005年07月24日 | Wood's Book翻訳
 「死の山」を除去するためのトンネルは、Stevensが、調査・設計した。実際の建設工事は1897年に彼自身のスタッフで(外部のコントラクターを雇用せずに)始められた。頑丈な花崗岩は工事を遅らせ、時には一日に数フィートしか進まなかった。更に、風や水、爆薬、労働者の配置等の問題もあった。800人の労働者がトンネル工事と支援設備のために雇用(ウェリントン及びカスケードトンネル駅)された。彼らは休日はレヴェンワースで過ごした。ほとんどがGNの正社員であった都会人は、何も無い土曜の夜を非常に不満に思った。2.63マイルのトンネルは1900年9月に貫通し、同年12月には列車の運行が開始された。
 トンネルにより、最高高度は3,383フィートに下がり、線路延長は8.5マイル減少し、走行時間は約2時間短縮された。GNはこのトンネルを以下のような美辞麗句で飾った。「2列の電灯が並ぶ果てしない白亜のチューブは、アメリカを横断する旅人にとって驚異と賞賛となるだろう。人類が予測可能な限りの期間、数え切れない年を越え、グレートノーザン鉄道の技術者たちの大胆不敵な技術力のモニュメントとなるだろう。」
 列車運行は、トンネルの開通によって大きく改善された。新しい機関車も加え、列車は25両から40両編成に延長された。そしてこの列車はそのまま手を着けずにトンネルを通過していくことができる。しかし、煙とガスのトンネル内での蓄積は、引き続き問題であった。燃やされる石炭は、硫黄やガスの元となる物質を含まないと考えられてはいたが、ガスマスクは全機関車に標準装備された。キャブ内の温度も時に華氏200度に達した。また、煙とガスによって、1/4マイル毎に設置されていた電話機もしばしば使用不可能となった。
 1903年の、トンネル内で主機と補機間のカプラーが損傷したケースでは、危うく100人以上の乗客が窒息するところであった。カプラーを修理しようとした無駄な努力により貴重な時間が失われ、機関士、機関助手、車掌は、煙にまかれた。乗客として乗っていた機関士が、何が起きたかに気付いた。彼は機関車にたどり着き、ブレーキを解放した。幸運にも、彼は、列車がウェリントンのヤードに入ってきたときに非常ブレーキをかけるまで意識があった。他の乗務員や多くの乗客は意識不明となっていた。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その6)

2005年07月23日 | Wood's Book翻訳
 主任技師のE. H. Becklerが、カスケードをスティーヴンズ峠で越えることを決定したときには、この路線を一時的でないものにするには2.5マイルのトンネルが結局は必要となることが分かっていた。しかし、非常に硬い花崗岩にトンネルを掘るには、完成まで数年を要すると見込まれており、大陸横断鉄道の完成に非常に強いプレッシャーを受けていたGN技術陣にとって、時間は最も重要な要素だった。調査によれば、NPがスタンピードトンネル完成前に使っていたのとほぼ同じ、一時的なスイッチバック路線が、峠を短期の工期で越えるのに使用可能とされた。
 路線調査によれば、タムウォーターキャニオンを上り、後にカスケードトンネル駅と呼ばれることになる標高3,382フィートのところまで、2.2%を越えない勾配で到達可能だった。西側の調査でも、スカイコミッシュから標高3,136フィートのウェリントンまでの斜面を、2.2%を越えない勾配で登ることができた。Haskellは、それから峠部分の調査を行い、最大4%の勾配で峠を越えられる路線となった。カスケードトンネル駅~ウェリントン間の直線距離で4.5マイルの路線は、線路延長12マイルと、峠の西側に5つ、東側に3つ合計8つのスイッチバックを必要とした。1892年に完成したこのスイッチバック路線は、計画中のトンネル部分の東側で677フィート、よりきつい西側で898フィート登っていた。この路線の建設工事は、西側の斜面、スカイコミッシュから始まった。そして1893年1月6日、最後のスパイクがシーニック近くで打ち込まれ、大陸横断鉄道が完成した。
 東側のスイッチバックの3.5%勾配と西側のよりきつい4%勾配が重量輸送の大きな障害になることは分かっていたが、状況は予想されたものより更に悪かった。スイッチバック線の短い有効長―平均1,000フィート―は、機関車がスイッチバックを上下するのに十分なパワーを有していたとしても、列車長を制限した。小さなモーガルでは、4%勾配では、2~3両しか引けず、すぐに、より重いコンソリデーションや12ホイーラーが1892年に投入された。しかし、これらの機関車を使用してもスイッチバック部分の改善は小さなものだった。冬のこの地域は大量の雪で、どちらにせよロータリー雪掻き車の連結が必要だった。列車の運行は、良いときでも遅くまた手間がかかり、スイッチバックを超えるのに1時間半から2時間かかった。ひどい状況の時には、36時間も必要とした。できるだけ早いトンネルの建設が絶対的に重要なものとなっていった。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その5)

2005年07月22日 | Wood's Book翻訳
 カスケード山脈は、比較的若い山脈で、カナダから北カルフォルニアまで約700マイルにわたっている。スティーヴンズ峠は、合衆国にまたがる最大の山岳自然保護地域である北カスケードとして知られる広大な原始的地域の南側の境界に位置する。カナダ国境から、スティーヴンズ峠の南約30マイルのスノクォルミー峠までの間に、7,000~9,000フィート級のピークが288存在する。ここには、500以上の氷河があり、100平方マイル以上が氷河に覆われており、これは、アラスカを除く他の50州の氷河面積合計の3倍にあたる。カスケード山脈は、二つの気候帯の境界線となっている。一つは、ポンデローザ松等の針葉樹林と草原となっている東側の乾いた気候、もう一つは、巨大なベイマツがびっしりとはえた、湿って温和な西側の気候である。
 東側では、空気も乾いており、温度も厳しく、冬の間は零度以下になる期間も長い。西側では、10月から4月にかけて継続的に雨が多く、1,000フィート以下では滅多に雪は降らない。高い標高でも、温度は零度以上に上がりやすく、雪はとても重く不安定なものとなる。
 1880年代の技術による当時の調査では、カスケードを超えることはほとんど不可能とみなされていた。このため、NPは当初の路線をコロンビア川峡谷からオレゴン州ポートランドに出てそこから北に向かいピュージェットサウンドにいたることとしたため、200マイルも遠回りをすることとなった。この恐るべき土地を通り、GNは、びっしりと生えた、非常に価値のある、カスケード西側の森林へのアクセスを得るため線路を伸ばしたのである。当時、材木のほとんどは、パイオニアのNPや多数の幌馬車で海岸沿いに運ばれていた。更に、急速に成長していた太平洋岸東北部全体にとって、追加的な重量高速陸上輸送手段が非常に必要とされていた。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その4)

2005年07月21日 | Wood's Book翻訳
 線路は、スポーカン川のリヨンから140マイルを経てコロンビア川に到る。ブルーステムの最高地点(2320フィート)から線路はコロンビア川のビックベンドと名づけられた大屈曲部へと下っていった。そこは、理想的な麦の生産地であり、約7000平方マイルの広さであった。
 GNの1916年の時刻表によれば、ソープレークでは、旅客は「リューマチ治療や胃腸病への薬効」を享受できたとのことであり、湖の名前も「人間の内臓を浄化する効果」からつけられたものである。
 エフラタで大屈曲部を離れて、線路は西に向かい、馬蹄形のカーブでクレータークーリーの切り立った崖を下っていく。線路は更に下って、コロンビア川の東岸を北へ向う。コロンビアリバー駅からは、東北のモーゼズクーリーを経てマンスフィールドへの支線が伸びていた。トンネルをくぐって、本線はロックアイランドへと続く。駅のすぐ北の全長906フィート、水面からの高さ70フィートの鉄橋でコロンビア川の西岸に渡る。
 コロンビア川とウェナッチー川の合流点近くで、線路はウェナッチー、「世界一のりんごの町」に到着する。ここはまた、スポーカン支部とカスケード支部の境でもある。Dr. Jewettが、1873年に荷馬に乗せて最初のりんごの木をウェナッチー谷に持ち込んだ。そして、水路を掘って水を与えた。鉄道建設後は、入植者たちはウェナッチー川の水車で、りんごに水を与えた。1903年には、ウェナッチー川から水を引く高度の高い水路がペシャスティンからひかれた。
 ウェナッチー川に沿って、線路は西北に向きを変えカシミアに向かい、カスケードの東のスロープを登り始める。コロンビア川から西に約20マイルのところで、線路は、ウェナッチー渓谷の先端にあるレヴェンワースに到着する。線路は、ウェナッチー川に沿って北に曲がり、タムウォーター(「話す川」の意)キャニオンに向う。線路は、約10マイルの曲がりくねった路線で、切り立った、しかし木々がびっしりと生えた渓谷の壁を登っていく。チワウクムでタムウォーターキャニオンを抜け出し、線路は深い山あいを西に向かい、ネイソンクリークキャニオンのほとんど垂直な崖をベルンへと登り、サミットを越えてウェリントンへと向う。ウェリントンから線路は、タイリバーキャニオンの北側の壁に沿ってカスケードの西側のスロープを下っていく。路線は、エンブロ、マルティンズクリークトンネル、シーニックを経て、カスケード支部の西のターミナルであるスカイコミッシュに到る。スカイコミッシュでベックラー川とタイ川が合流し、スカイコミッシュ川の南の分流となる。線路は引き続き西に向かい、スカイコミッシュ川とミラー川を越え、スカイコミッシュ川の南北の分流の合流点にあるインデックスに到着する。インデックス山の山陰を抜け、ゴールドバーを経て、スルタンでスカイコミッシュ川に別れを告げ、モンロー、スノホミッシュに向う。そして、エヴァレットまでスノホミッシュ川に沿っていく。
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(ちょっと脱線)Triplexの塗装をしてもらいました!

2005年07月20日 | ちょっと脱線
(「Wood’s Book」第3章の翻訳を掲載中ですがちょっと寄り道です)
 GN以外のアメリカ型機関車(特に関節型)にも小生大変興味を持っております。その中でも、通常のマレーの2組の走行装置に加え、テンダー下にも走行装置を持ち、合計3組の走行装置を持つトリプレックスには非常に興味を持っていました。当初、その存在を知ったのは、30年くらい前のTMSだったと思います。トリプレックスとなりますと、アメリカでもErie鉄道とVirginian鉄道の2形式があるだけです。練馬のとれいんギャラリーにErie鉄道のトリプレックスが置いてありまして、いつもうらやましげな目つきで見ておりました。(また、最近では、横浜のフォムラスにErie鉄道とVirginian鉄道の2形式両方が置いてあって目の保養になりました。)
 その後、2000年に天賞堂の4階で未塗装のErieのトリプレックス(Key/Sumhongsa)を見つけ、思い切って買ってしまいました。これまで、タンスの中で眠っていたのですが、いつかは塗装してやりたいと思っていました。しかし、このトリプレックスはボイラーの色がロシアンアイアンブルー(ワークスKさんの鉄道模型大辞典によりますと「鉄の表面処理の一つで、薄い四酸化三鉄の膜を作り油拭きすることで青紫色の光沢ある外装となる。19世紀末の4-4-0などのボイラーに多く用いられた。近代機でもT&PのI-1などにも見出すことができる。清浄な鋼板を400℃の加熱融解した硝酸ナトリウムにつける方法がとられた。模型では塗装によってこの色調を出そうとするが、実物の反射光による発色を再現するのは困難である。」とされています)でして、塗り分けの大変さもあってまったく手が付きませんでした。
 今般、「コネクション」の津田代表取締役様に、無理の上に無理を申し上げて、塗装していただきました。料金は、サラリーマンの小生にとって「安い」とはいえませんが、上記のような大変な塗装であることを考えると、大変リーズナブルな価格で対応していただきました。ロシアンアイアンブルーについては、とれいん誌にも作品を発表されているアメリカの巨匠Larry Edwards氏の作品である「D&RGW #94 4-4-0」を色見本として、コネクション様で7色の色を配合していただき最高の色に再現していただきました。(Larry Edwards氏は、記事の中でご自身のロシアンアイアンブルーの塗装を「これで完璧」とおっしゃられておりますので、この色をまねさせていただきました。)
 更に、車輪のタイヤ部分に実物同様に白を入れていただき、よりムカデ足が目立つようにしていただきました。
 長年の夢でした塗装済みトリプレックスが姿を現し、感無量です。当社では、時代考証等は無視して、GNの同色系のビッグスカイブルーとグレイシャーグリーンのホッパー車の列車の先頭に立たせて活躍させたいと思います。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その3)

2005年07月19日 | Wood's Book翻訳
 Haskellが大屈曲部で忙しくしていた夏の間に、Stevensは、スタンピード峠とカナダ国境の間のカスケード全体を見て回り、カスケード越えの最適地点を検討した。カスケードをどこで越えるかという決定は、コロンビア川をどこで越えるかという決定にも大きな影響を及ぼす。ウェナッチー湖への行程の途中で、Stevensは、南から湖に注ぎ、急に西に向きを変えて高地へと入っていく川を発見した。稜線沿いの前の旅では、主稜線に低い地点を見つけており、この川がきっとこの低い地点に向っているもの彼は確信した。ウォーターヴィルの本部に戻らなければならなかったので、これ以上の探索をする時間は無かった。彼は、Haskellをウェナッチー湖に派遣して、その川を最上流までたどるように命じた。Haskellは9月15日にウォーターヴィルを発ち、コロンビア川のオランドを経てウェナッチー川を上り、ウェナッチー湖近くのその川に向った。その川(ネイソン川)の最上流でHaskellは、峠を見つけ、杉の木に「Stevens峠」と刻んでから、西のスカイコミッシュ川に向った。この峠が前から知られていたという印は無かった。道は、密集する木々と進入し難いブッシュを掻き分けていかねばならなかったのである。この後の調査で、F. StevensとE. H. Becklerは、この峠がGNが越えるに最も適当な峠であると確信した。
 調査団は雪で調査ができなくなるまで山にとどまり、その後1891年の冬はウェナッチーの東の高原部の調査を続けた。2月にはコロンビア川を下り、モーゼス谷に向かい、その後ウェナッチーにもどり、雪解けを待って峠に向い調査を行った。6月5日、スティーヴンズ峠にキャンプ中であったが、予備調査は完了し、路線配置調査に入った。この調査は1891年の夏から秋にかけて実施され完了した。
 路線はスポーカンを通っていたため、コーダレーン湖に源を発し、市の中心部を流れるスポーカン川を渡り、また再度渡る必要があった。川越えに計5つの橋が必要であった。駅の西側に3つ目の橋があり、ハヴァーメイルアイランドから南岸に渡っていた。4番目の橋が最も大きく、滝を直接渡っていた。5番目の橋は、町の郊外で川が北に曲がっているところで川を越えていた。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その2)

2005年07月18日 | Wood's Book翻訳
 モンタナ州での路線配置の仕事が完了して、John F. Stevens、C.F.B. Haskellと彼らのアシスタントは、スポーカンからピュージェットサウンドまでの路線を決定するためワシントン州に送られた。1890年6月3日にボンナースフェリーを出発し、Haskellはスポーカン滝(このときにはスポーカンは知られていた)に向かい、6月8日に到着した。スポーカン(1872年から住み始められた)は、そのとき、10ヶ月前に市の中心部32ブロックを焼いた悲惨な大火災の痕を残していた。彼はこの町を気に入り、ミネアポリスを出て以来の上品な町だと述べ、スポーカンにすばらしい未来があると感じた。
 コロンビア川(彼が今までに見た中で「もっとも偉大な川」)を下り、川から7マイルほどのウォーターヴィルに6月25日に到着した。カスケードに進み続ける代わりに、彼は馬に乗ってスポーカン滝に戻ることを命じた。ウォーターヴィルを6月28日に発ち、「たった6週間しか経っていないし小さくてみすぼらしい町」と描写したクーリーシティに着いた。クーリーシティは、グランドクーリー(コロンビア川の古い河床で、長さ100マイル、幅は広いところで5マイル、深さは1000フィートに及ぶ)を越えられる唯一のポイントに位置していた。NPはこのクーリーシティを通じて路線を建設しており、町は活気に満ちていた。ウィルバーとダヴェンポートを旅して、7月5日にスポーカン滝に到着した。彼が賞賛を与えたことの無いサウスダコタと比べてさえひどい、暑くて乾燥した岩々の大屈曲山脈に圧倒されていた。
 7月18日にウォーターヴィルに戻ると、モーゼス湖に向った。更に、コロンビア川の西、エレンスバーグを経てスノクォルミー峠へと登った。彼はまた、ピュージェットサウンドのシアトルとタコマを訪れ、帰りはNPを使いスタンピード峠を越えてエレンスバーグに戻った。そこからは馬車でウォーターヴィルへ行ったり、馬でスポーカンに行ったりした。1890年9月12日に彼はStevensとBecklerに会うためにウォーターヴィルに戻った。
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「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その1)

2005年07月17日 | Wood's Book翻訳
 カリスペル支部の西のターミナル、モンタナ州トロイは、山地時間帯と太平洋時間帯の境に当たる。トロイを離れ、コーテナイ川の南側に沿っていくと、川は次第に北西に向きを変えるが、GNはそのままスポーカン支部を西に向う。モンタナ州の最も西の駅、ヤットを越えると、森林に覆われた50マイルの幅しかないアイダホ州の突端を横切っていく。この駅のプラットホームは、州境をまたいでおり、ホームの東はモンタナ州、西はアイダホ州となっている。コーテナイ川に沿って、線路はボンナースフェリーに達する。ここはかつて、北に分かれてブリティッシュコロンビア州のクレストンに向う支線への乗換駅であり、そこへ向う金鉱や銀鉱の鉱夫たちが支度を整える町でもあった。ボンナースフェリーで線路はコーテナイ川を離れ、南西に向きを変えて、33マイル先の、ペンドオレイル湖の北岸にあるサンドポイントに向う。線路は29マイルにわたって、湖の西の入り江と、下流でプリエスト川・オールバニー滝を経てワシントン州ニューポートに到るペンドオレイル川に沿って行く。ニューポートで、ペンドオレイル川は北に向きを変え、最終的にはカナダ国境を越えてコロンビア川に注ぐ。線路は南に向きを変えスポーカンに向う。スコティアからチャタロイの間で線路はリトルスポーカン渓谷を渡る。
 スポーカンのすぐ郊外のディーンでは、GNの支線(Spokane Falls & Northern鉄道、Nelson & Fort Shepherd鉄道として建設された)が分かれ、北へ向ってワシントン州マーカスを経てから東に向かい、ブリティッシュコロンビア州のネルソンに到る。マーカスの北西グランビィを経てケトル渓谷を下ってワシントン州リパブリックに到る鉄道用地は、1901年にWashington & Great Northern鉄道に譲渡された。ダンヴィルで見つけられつつあった鉱物を運び出すためにこの路線は建設され、1902年の春には運行を開始していた。この契約の中で、GNはダンヴィルとロリエに税関事務所を建設することとなっていた。1905年に、この路線はカーリュウから西ヘ向かい、フェリーまで延長され、更に1907年にはモルソンとチェソウを経てオカノガン谷のオゥロヴィルまで延長された。James J. Hillが目指した「20分毎の鉱石列車」は実現できなかったものの、良く建設された路線は、スポーカンから、ケトルフォールズ、リパブリックまで1976年現在運行されていた。本線は、ヒルヤードのヤードを通り、スポーカンに続いていた。ここでは、James J. Hillが住民たちに、GNに市を通じて鉄道用地を譲渡することのメリットを確信させていた。
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「Wood’s Book」翻訳「第3章 カスケードを超えて」掲載開始(予告)

2005年07月16日 | Wood's Book翻訳
 グレートノーザン鉄道ファンにとって教科書とも言える本が、ファンの間では通称「Wood’s Book」と呼ばれる「The Great Northern Railway : A Pictorial Study by Charles & Dorothy Wood」です。1979年にPacific Fast Mail(PFM)社により出版されています。
 先般、この本の「第6章 蒸機:大平原から大海原へ」の翻訳を掲載させていただきましたが、明日より第2シリーズとして「第3章 カスケードを超えて」を2週間ほどかけて掲載いたします。
 この章では、GNにとってもっとも困難であったカスケード山脈越えについて、その歴史とエピソードが満載されています。当初はスイッチバック、次に旧トンネル、そして電化、新トンネルの建設、排気装置設置による非電化と目まぐるしい変化が刻まれています。
 いずれにしましても、素人の翻訳ですので、分かり難いところ、間違っているところ等あるかとは思いますが、御笑覧頂ければ幸甚に存じます。

 なお、この翻訳掲載につきましては、天賞堂模型部様とPFM社様のご厚意によりご承諾を頂いているものです。(今後このブログに掲載される翻訳を、翻訳者及び発行者の許可を得ずに、無断で複写・複製・転載することは法律で禁じられています。Copy Right 2005 Hiroshi Suzuki and 1979 Pacific Fast Mail: All Rights Reserved)
 地名については、アメリカ地名辞典(井上謙治、藤井基精編:研究社出版)によってなるべく日本語表記をするように努めました。
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