グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (最後です)

2005年08月25日 | Wood's Book翻訳
 カスケードのウェナッチーとスカイコミッシュ間では(1947年から1956年まで)、ビルダーは、もちろんディーザル機関車の前に連結された電気機関車で牽引された。スカイコミッシュとメリット間の2.2%勾配では、E-7-Aは225トンの牽引力しかなく、2両のAユニットを合計したパワーでもこの勾配を補機なしで登るには不十分であった。更に運用を複雑にしたのは、トンネル内では、煙やガスの発生を避けるためにディーゼルはアイドルポジションで走らなければならなかったことである。初期のディーゼルはダイナミックブレーキを装備していなかったので、東西どちらに向うにしろ、勾配を下る際には、電気機関車の回生ブレーキが必要不可欠だった。ウェナッチーでもスカイコミッシュでも特定のクラスの電気機関車がビルダー専用として割り当てられたことはなかった。むしろ、割り当ては必要性に応じ、運転指令の自由裁量に任せられていた。結果として、その時々に応じ、列車番号31と32は、2両のYクラス、YクラスとZクラスの混合、巨大なWクラス等によって牽引された。
 Wクラスは、1947年に納車されたが、オマハオレンジとオリーブグリーンで塗装されていた。同時期に、GN工場は、Yクラスをこのカラースキームに塗り替え始めた。Yクラスが工場入りするごとに、塗替えが行われ、最終的にはYクラスすべてが燦然たる流線型列車カラースキームとなった。Zクラス機関車は、塗り替えられることはなく、スクラップされる日までオリーブと黒のカラースキームのままであった。
 1967年・1968年に、エンパイアビルダーは、そのカラースキームをオマハオレンジとオリーブグリーンからビッグスカイブルーに変更したが、その外観はそれほどよくなったとは言えなかった。1970年には、バーリントンノーザン鉄道の創設により、車両はカスケードグリーンに白をアクセントとしたカラーに塗り替えられた。このカラースキームがほとんど広がらないうちに、AMTRAKにより運用が引き継がれてしまい(訳注:1971年5月1日より)、エンパイアビルダーのアイデンティティはほとんど完全に失われてしまった。現在、オリジナルの車両は、AMTRAKシステムのどこかで使用されているか廃車となっており、エンパイアビルダーの名前だけが時刻表に残るだけとなってしまった。
(了)
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その14)

2005年08月24日 | Wood's Book翻訳
 1929年に走り始めた当初から、エンパイアビルダーには機関区の中で最高の機関車がいつも割り当てられてきた。蒸気機関車の時代には、ノーザンやマウンテンがビルダーに常時割り当てられた。時には近代化されたパシフィックが平坦な区域でビルダーを牽くこともあったが、これは、先輩のオリエンタルリミテッドよりも早いスケジュールで走る1000トンの列車にとって、例外的なことだった。主要駅(セントポール、ファーゴ、マイノット、ハヴァー、ホワイトフィッシュ、スポーカン、ウェナッチー、シアトル)には、予備機がスタンバイしており、機関車の故障や不具合で必要となったときには常に数分で交代可能となっていた。
 1947年ビルダー用にE-7ディーゼルが購入されたときには、この強力で高速かつハンサムな機関車が、このまさに専用の列車からこんなにも早く引退するとは誰も思っていなかった。大きなE-7は、モンタナ州やノースダコタ州、モンタナ州東部等の大平原を走るゆるいカーブや長い緩勾配で軽い列車を楽々と牽いた。しかし、ビルダーが12両編成から14両編成になると、山岳部で必要とされるパワーは、2両の2000馬力の機関車より、単純に大きいものであった。1950年に、E-7をビルダーの先頭に立たせ続けさせるために、2両のE-7-Aの間にE-7-Bを加えることが試されたが失敗だった。この1500馬力のBユニット(500B-505B)は、この運用のために製造されたものであったにもかかわらず、このユニットのギア比はAユニットのギア比とマッチせず、Aユニットの牽引モーターのオーバーヒートという問題は収まることがなかった。
 この試験期間の後、E-7-Aはエンパイアビルダーから引退し、列車暖房用ボイラーを付けて旅客用に改造されたどこにでもいるFユニットに置き換えられた。Eユニットと交代したFユニットは、ディーゼル機関車としては面白い品種であった。時速89マイルのギア比とされていたが(ただし、GNは自動列車制御装置も運転室内信号も有していなかったため、ICCにより最高速度は時速79マイルに制限されていたが)、これらの機関車は、F-3、F-5、F-7の各クラスが混在したものであった。ただし、GN自社工場での改造によりすべての機関車が初期のF-7に似たものとなっていたため、どれがどのクラスかの判別は外見では実質上不可能であった。
 エンパイアビルダーは、GNのショーケースであった。それゆえに、この鉄道にとって、ビルダーが可能な限り最高の外観と内装を呈することは非常に重要であった。この考えの少なからぬ表れは、機関車のラインと列車のラインの継続性であった。Aユニットがその先頭をAユニットの後部に連結されたり、Bユニットが直接、列車の先頭車両と連結されたりすることは、ほぼほとんどなかった。GNはこれらの機関車を必然的な並び方、すなわちA-B-AまたはA-B-B-Aの形で運用した。
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(ちょっと脱線)Modeling Railroads of the 1950’s

2005年08月23日 | ちょっと脱線
 前々から、注文していたModeling Railroads of the 1950’sが到着しました。Model Railroaderのスペシャル版です。内容は、アメリカの鉄道が非常に輝いていた1950年代のモデルを作っていくために必要な情報や、車両、レイアウト等の記事が一杯です。気になった記事は、ウェザリング、シカゴディアボーン駅を再現したレイアウト、レモンを運ぶためのレイアウトセクション等です。特に最後のレイアウトセクションでは、冷蔵車に氷を積み込むところも再現されていて目を引きます。
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(ちょっと脱線)JAMに行ってきました

2005年08月22日 | ちょっと脱線
 昨日の日曜日、最終日のJAMにちょっとだけ行ってきました。終了間近であまり時間が無かったのでさっと見てきただけです。でも、100両くらいの貨車を引く発煙装置付のチャレンジャーやNAPMの最近のアメリカ型鉄道模型を見られて興味深かったです。そのほかでは、ナロー関係に惹かれました。木曽のモジュールも初めて見ましたが、その好ましい雰囲気はすばらしいものだと思いました。また、そのほかのナローゲージのレイアウトや、ギヤードロコ等も目を引きました。それにしても、多くのレイアウトでDCCや自動運転が取り入れられていて、時代の流れの速さも感じさせられました。来年は大阪での開催だそうですが、こういうお祭りがあるのはやはり良いものですね。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その13)

2005年08月21日 | Wood's Book翻訳
 1948年5月に、プライベートルームへの需要の高まりに応えるため、グレートノーザンは、ビルダー1編成あたり2両の寝台車を追加発注した(1両はシアトル向け旅客用、もう1両はポートランド向け旅客用)。これにより、スポーカン以東ではビルダーは14両編成となるわけである。寝台車(それぞれ、1室のDrawing Room、3室のコンパートメント、5室の寝室からなる)の納車は、18ヶ月から24ヵ月後と見込まれていた。更に追加的に、展望車、食堂車、クラブカーがエンパイアビルダー用に発注された。また、何両もの新しい座席車がオリエンタルリミテッド用に発注された。
 1948年10月に、GNは驚くべき発表を行った。GNは新規に6編成分の車両(30両の寝台車、各6両の座席車、食堂車、コーヒーショップカー、展望車、荷物車、郵便荷物車等)を総額850万ドルの見込みで発注した。1951年にこれらの車両がエンパイアビルダー用に到着し、ビルダーのこれまでの車両はオリエンタルリミテッド(現在はウェスタンスターとなっている)に充当され、GNはシアトル~シカゴ間に2本の流線型列車を持つこととなった。新しい車両のコストは、1200万ドルに達した。更に、1955年に600万ドルをかけて16両のドームコーチと6両のグレートドームラウンジカーを購入し、Mid-Centuryエンパイアビルダーは完成した。
 1951年のエンパイアビルダー(実際はそのうち5編成分)において、GNは1924年から続いていたすべてをプルマン社に任せることを止めた。食堂車、コーヒーショップラウンジ、展望ラウンジ車は、American Car and Foundry社によって製造された。Appekunny、St. Nicholas、Going-To-The-Sun、Cathedral、Trempealeau Mountainsと名づけられた展望車は、今までより高い窓によるより良い景色を特徴としていたが、いくつかの点では20世紀特急に似ていた。食堂車(Lake of the Isles、Lake Wenatchee、Lake Ellen Wilson、Lake Union、Lake Minnetonkaの名をおっていた)は、よりソフトな、より微妙なカラースキーム、間接照明、彫刻ガラスのパーティションを特徴としていた。「The Ranch」カー(コーヒーショップ車)は、編成の中で多分最もユニークな車両といえるだろう。モンタナ州へレナで登録されているG-Bar-Nブランドに本物の西洋風装飾を施して完成させている。これらの車両の名前は、Crossley、Running Crane、Hidden、Iceberg、White Pine Lakesである。
 プルマン社は、北東部のインディアンの絵画とアートデザインをディスプレイした寝台車を製造した。各編成のうち、3両の寝台車は、川の名前、Chumstick、Tobacco、Skykomish、Sheyenne、Fraser、Sun、Skagit、Spokane、Snohomish、Mouse、Pend O’reille、Milk、Poplar、Bois De Sioux、Snakeがつけられていた。残りの各3両は、山の峠の名前、Jefferson、Suiattle、Rogers、Hart、Haines、Pitamakan、State、Blewett、Akamina、Firebrand、Inuya、Santiam、Horn、Lewis and Clark、Wapinitiaがつけられていた。
 ドームコーチとグレートドームラウンジカーは、Budd社により製造された。これらの車両では、壮大なパノラミックビューが得られ、乗客はこれらの車両に殺到し、特に前のほうの席に集まった。フルドームカーには75席あり、下階の人気のあるカクテルラウンジには34席あった。100トン近くの重量があり、3軸台車を履いたこれらの車両は、編成の中で最も良い乗り心地を提供した。ただし、グレートドームの窓の下側は高くなっていたので、実際には小さいドームコーチの方がより良い眺めをえられたのであるが。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その12)

2005年08月20日 | Wood's Book翻訳
 個別の客車名は、エンパイアビルダーと、この列車が走る地域とを結びつけるように慎重に選ばれた。多くの客車名は、グレイシャー国立公園の湖、峠、氷河等から名づけられた。ランチカウンターラウンジ車は、Waterton、St. Mary、Two Medicine、Cour d’Alene、Red Eagle Lake等の名前を受けた。食堂車は、Superior、McDonald、Chelan、Josephine、Michigan等の湖の名前をつけられた。展望車は、Mississippi、Missouri、Flathead、Kootenai、Marias等の川の名を有していた。5編成に各4両ずつ配備された寝台車のうち各2両は峠の名前、Gunsight、Ptarmigan、Dawson、Piegan、Logan、Triple Devide、Lincoln、Cut Bank、Red Gap、Swift Current等をつけられた。残りの2両は公園内の氷河の名前、Blackfoot、Ahern、Grinnell、Hanging、Many、Oberlin、Sexton、Harrison、Sperry、Siyeh等の名を有していた。
 インテリアのカラーと装飾もビルダーが走る地域から採用された。プルマンスタンダード社と緊密に協力しつつ、グレートノーザン鉄道とバーリントン鉄道は、北西部の帝国の文字通り数百枚のカラー写真を研究した上で、カラーとデザインを選択した。ここでもグレイシャー公園が支配的で、多くのカラースキームに影響を与えた。座席車や食堂車に使用されたブルーは、氷河湖の色彩にインスピレーションを得たものである。多くの緑系の色も公園の花々や葉々から引き出された。木々の樹皮は、座席車の赤みがかったブラウンのシートカバーの色に生かされた。スプルース(訳注:ハリモミ、エゾマツ等)の木々は、ブルーグリーンを与えてくれた。大平原の小麦は、イエローのトーンを与えてくれた。
 展望車のテーマは、Winold Reissの絵画でインディアンのブラックフィート族に敬意を表し、仕切り壁にかけたCharlie Russellの水彩の複製でパイオニアたちに敬意を表するといったものであった。カーテンはハドソン湾の毛布のレプリカであった。インディアンの絵画とハドソン湾カラーは、コーヒーショップカーにも使用された。
 座席車は、単彩画法のブルー、グリーン、イエローであり、主要なトーンは窓の下側に使用された。タン(黄褐色)、アプリコット、グリーン、グレー、イエローの色合いが寝台車には使用された。
 食堂車には、Walter Loosによるグレイシャー公園の野生の花々の油絵の写真または手書きによる複製が、テーブルの間のパネルに収められていた。精緻な絵画のために氷河ブルーのカーテン、ラグ、装飾がセットとなっていた。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その11)

2005年08月19日 | Wood's Book翻訳
 最初の定期運行は2月23日に始まり、307席は全て売り切れであった。流線型列車が北西部にやってくる日が来たのである。西行きのエンパイアビルダーは、シカゴを午後1:00に出発し、バーリントン鉄道の線路をミシシッピ川に沿って300マイルを走り、ツインシティに至る。ミネアポリスを午後8:30に離れ、列車は農業と牧畜のミネソタ州を通り、夜の間にノースダコタ州の大平原を横切り、ウィリストンに午前7:20に到着する。ここで時間帯は山岳地標準時間帯に変わり、列車は午前6:20に発車する。ビルダーは、モンタナ州を横切り、ロッキーの背骨を登り、グレイシャーパーク駅に午後の中ごろに到着する。60マイルの間、エンパイアビルダーは公園の南の境を走り、ロッキーの西のスロープを下り、フラットヘッド渓谷を通り、コーテナイ川に沿ってアイダホ州に入る。トロイで時計は更に1時間戻されて太平洋標準時間となる。そして列車は、午後11:30にスポーカンに滑り込む。ここで座席車1両と寝台車1両は列車から切り離されて、SP&S経由ポートランドに向う。10両となったビルダーは運行を続け、ウェナッチーで電気機関車に替わり(73マイル)、カスケードを越え、山を下ってシアトルに午前8:00に到着する。整備、清掃、乗員の交代を行い、流線型列車は、シカゴに向けての復路へ午後3:00に出発する。
 新しい車両も多くの点で革新されていた。戦後、他の鉄道に先駆けて製造・納品された寝台車は、デュプレックスルーメットを特徴としていた。びっくりするような独創的なシステムで、今までの下段寝台よりほんの僅かだけ高い価格で、個室を提供した。もうひとつの革新は、48席座席車の乗客をもっと快適にさせるためのHeywood-Wakefieldのリクライニングシートの導入であった。明るくデコレートされたコーヒーショップ車は、カウンターが10席、ラウンジが10席であった。予約システムの導入により食堂車の長い列もなくなった。曇らない二重ガラスの窓は、客室の閉鎖性を高めた。冷水管が客車の各室に配備され、拡声装置も全車両に取り付けられた。ただし、プルマン車では、アナウンスもエンターテイメントも特別なものだったが。
 戦後のエンパイアビルダーのデザインにとって塗色もまた重要な要素であった。Everett DeGolyer(有名なレールファン、歴史家にして最も包括的な鉄道写真コレクションのひとつのオーナー)は、あるときビルダーを、世界で最も美しい列車であると述べている。この面に関するGNとプルマンスタンダード社の雰囲気を反映して、プルマン社の色彩・デザインエンジニアのRalph Hamanは、「戦争の終結に伴い、世界は画一から抜け出した。誰もが、オリーブドラブやその同色系にはもう飽きた。我々は、華美で美しいものへの準備が整っており、この新しいエンパイアビルダーは、まさにそのような資質を備えるだろう。」と述べた。
 そして、画一から確かに抜け出した。この列車は、ピュージェットサウンドの海岸や、モンタナ州、ダコタ州の平原を走り抜けるカラフルで華麗なストライプのリボンのようであった。オリーブグリーンとオマハオレンジによる高い視認性は、遠距離からでも列車を識別でき、踏切での安全性にも寄与した。無地のオリーブとオレンジのバンドは、合成の金色のストライプで分割され、強調された。客車や機関車の車体の一番下の部分に塗られた青白く銀色がかったグレーの帯が、車体と走行装置をくっきりと分けていた。列車名、鉄道名、車両名は、金色でオリーブグリーンの部分を背景に描かれていた。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その10)

2005年08月18日 | Wood's Book翻訳
 新しい列車は、1947年の初頭に納品されたが、流線型で軽量・低重心化されており、高速でのスムースな運行が可能なように設計されていた。EMDのE-7-A機関車、2000馬力の機関車(1列車あたり2両)は、客車より若干早く納品された(1945年)。これらの機関車は、Fast Mailや1929年エンパイアビルダーに試験的に使用された。これは乗員にその運用を熟知させるとともに、機関区においても整備に慣れさせるためであった。これらのディーゼルは、大きなパワーとスムースな加速により、エンジンのスラストや車両間の緩みによる衝撃無しに列車をスタートすることができた。列車は、あたかもひとつのユニットのように発車し、停止した。これはまた、緩みを除去する「タイトロック」カプラーや、電気制御式ブレーキによるものでもあった。
 大陸横断展覧運転を担当するJohn Budd東部副局長は、ビルダーに乗車した記者たちに、新しいディーゼル機関車は時速117マイル出せるが、GNは新しい列車を時速85マイル以上で運転することは考えていないこと、そしてこのスピードであればいかなる乗客にも不快な思いはさせないことを指摘した。列車が最高速度を出すのは、ミネソタ州、ノースダコタ州、モンタナ州の大平原であった。ロッキー山脈地区でも、10級のカーブを駆逐した新しいトンネルにより速度は改善された。このスピードでカーブしてもほとんど動揺も傾きもなかった。記者たちは、より早く走り去る電柱でしか気付くことのない高速度と同様に、この乗り心地の良さに強く感銘を受けた。
 シカゴでの1947年2月6日のプレスデビューに引き続き、ビルダーは2月7日の命名式典のためにセントポールに移動した。6度の寒さの中、冬のフェスティバルの北風の王と雪の女王により、ピュージェットサウンドの水と、ミシシッピ川の水のボトルが機関車の先頭で割られた。セントポールでの8時間の展覧に4000人の観客が押し寄せた。更に多くの人々が翌日ミネアポリスで流線型列車を歓迎し、何百もの予約申し込みが殺到した。その後、数日かけて、ビルダーは、ダルース、スペリオル、マイノット、ファーゴ、グレイトフォールズ、スポーカン、ポートランド等でプレヴューを行った。15日にピュージェットサウンドに入り、ビルダーは午後タコマに立ち寄り、その後シアトルに到着した。
 タコマの人々は、GN社長のF. J. Gavinが、新しい流線型車両はタコマに停車しないことを1946年4月23日に発表したときには大変がっかりしていた。多くの反対や、商工会議所会頭のKenneth M. Kennelや産業界のリーダーたちの活動もむなしく終わった。新しいビルダーの早いスケジュールがこの決定の背後にあった。国中の他の多くの町での停車も取りやめられた。古いビルダーは、すぐにオリエンタルリミテッドとなって、これらの多くの町に停車することとなった。
 16日にシアトルのキングストリート駅で展覧された後、ビルダーはウェナッチーに移動し、その後エヴァレットに移動した。そこでは、17日午後6時半から7時半までスノホミッシュ郡の人々に展覧された。18日にはブリティッシュコロンビア州のヴァンクーヴァー、そして19日にはベリングハムに向った。そこには、カスターとファーンデイルからの何百もの生徒や先生たちが見物に繰り出していた。もっと多くの人数が、沿線の駅や線路沿いに集まった。これらの人々にとって、これはシアトルとブリティッシュコロンビア州のヴァンクーヴァー間でこの年の後半に運行に入るピュージェットサウンドストリームライナー(インターナショナル)のプレヴューでもあった。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その9)

2005年08月17日 | Wood's Book翻訳
 そこで、1943年11月4日、GNはPullman Standard Car Manufacturing Companyに700万ドルのコストで、12両編成の流線型車両を5編成発注した。各編成の構成は、郵便荷物車、1両の60席座席車、3両の48席座席車、コーヒーショップ車、食堂車、4両の寝台車、展望車からなっていた。これらの列車のうち4編成はGNが保有し、1編成は、セントポール~シカゴ間で列車を運用しているバーリントン鉄道が保有した。これらの新型列車は、セントポールまで39時間、シカゴまで45時間と、以前のビルダーに比べて13時間半短縮されたスケジュールで運行した。
 45時間のスケジュールは必ずしも完全に新しいものとはいえない。通常の定期列車とは異なる条件ではあったが、シルクスペシャルは1920年代に同様のスケジュールで運行されていた。比較的軽量のシルクスペシャルは、この鉄道の全ての列車に優先する権利を与えられていた。止まるのは、乗員と機関車の交換のときのみだった。一番良い機関車が、各支部のポイントで十分調整されて待っていた。乗員もスペシャルをできる限り速く走らせる能力と判断力で選ばれた。当時のビルダーを同じように運行することは、単純に不可能だった。停車駅はあまりに多く、車両はあまりに重く、たとえ停車駅数を減らしても(流線型車両で行ったように)、このスケジュールを守りうる高速旅客機関車が存在しなかった。更に、重量プルマン車や座席車を本線上で時速80マイルを越える速度で長距離走らせることは、旅客にとって不愉快であったし危険でもあった。食堂車のサービスもこの速度には対応できなかった。重い80フィート級食堂車やプルマン車は、時速60マイル程度で運行するのが非常に良く、この種の車両を無理に高速で走らせると、動揺、跳びはね、波動が起こり、多くの乗客にとって耐え難い運行となってしまう。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その8)

2005年08月16日 | Wood's Book翻訳
 1934年11月、バーリントン鉄道(GNとNPにより共同で保有されている)は、リンカーンとカンザスシティの間でパイオニアゼファーによる流線型列車の運行を開始した。シカゴ~ミネアポリス間のツインゼファーがすぐ後に続き、1936年11月にはデンバーゼファーが導入された。運行に入る前に十分に宣伝されていたこともあって、このBudd製の流線型列車は多くの見物客を集めた。誰しもが、太平洋岸北西部の人々も含めて、この流線型列車に乗りたがった。
 地元の新聞の社説がピュージェットサウンド地域にも流線型列車を導入することを後押しした。ミルウォーキー鉄道は、すぐに反応し、心地よく落ち着いたオリンピアンに流線型軽量客車を何両か加えた。そもそもは、これらの客車は、新しい車両が来るまでは、ハイアワサに使われていたものだった。グレートノーザンは、1935年にエンパイアビルダーの全ての車両にエアコンを設置した。そして1937年には、ローカル旅客用のバーニィ&スミス(1914年)の客車を改装して、新しいプルマン製の半流線型の豪華な車両を長距離旅行客用に加えた。ノーザンパシフィック鉄道もまた、豪華な客車をノースコーストリミテッドに加えた。しかし、所要時間は全く変わらなかった。シカゴまでの所要時間は、シアトル/タコマを出発する3つの大陸横断鉄道ともに60時間ほどに留まったままだった。ある編集委員は、GN、NP、ミルウォーキーの三社の間に、太平洋岸北西部の安定を乱さないという「紳士協定」があるのではないかと示唆した。
 実際には、1930年代の太平洋岸北西部における流線型列車の運行開始は、良い投資とは考えられていなかった。米国は深い不況の真只中にあり、多くの鉄道が存亡の危機にあった。グレートノーザン鉄道とノーザンパシフィック鉄道はエンパイアビルダーとノースコーストリミテッドに多額の投資を行った。第一次世界大戦の直後に管財人が出たり入ったりしていたミルウォーキー鉄道は、その限られた資金を非常に有名なハイアワサに投資する必要があった。そしてまた、西部の輸送密度は、中西部や東部に比べると軽いものだった。ノースダコタ州、サウスダコタ州、モンタナ州、アイダホ州の人口の合計は250万人だった。ワシントン州は160万人、オレゴン州は100万人であった。対照的に、イリノイ州は700万人、ミネソタ州とウィスコンシン州はそれぞれ300万人であった。1940年初頭、状況が変化した。ヨーロッパの戦争により、中西部と太平洋岸北西部間で、より良くより早い運輸への緊急な必要性が高まった。大量の船、飛行機、製品への大量の発注は、前例のない、西海岸ブームを引き起こした。造船所や飛行機工場、他の工場が需要に対応して拡張を始め、求人需要が太平洋岸北西部の雇用能力を追い越していったので、企業は、求人、雇用を中西部で行い始めた。米国政府は、各州軍を連邦政府の支配下に置き、北西部に大規模な訓練キャンプを開設した。そして、1941年には、ビルダーは、2つの地域の間を走り、民間人、軍人双方の輸送需要を充足しようとしていた。米国の1941年12月7日の世界大戦への参戦により、北西部の3鉄道は、扱い可能な輸送量より多い旅客・貨物の輸送量を求められていた。ビルダー、ノースコーストリミテッド、オリンピアンは、シカゴまで2泊3日の旅であるが、通路に立ち客を乗せてシアトルを出発することもしばしばだった。大陸横断輸送には何年も見たことの無い客車が、そのできる限りの速さでシカゴとシアトル間を往復した。エンパイアビルダーは、非常に重量化したので、新しい貨物用ディーゼル機関車さえも、マリアス峠の補機に投入された。明らかに、重量客車によるビルダーが、時代遅れになるというだけでなく、擦り切れてしまう日が急速に近づいてきていた。そしてまた、戦争が終わるまでは終わることの無い成長の時代を北西部が経験していることも明らかであった。1929年バージョンのエンパイアビルダーを交代させる日が来ていたのである。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その7)

2005年08月15日 | Wood's Book翻訳
 1929年夏にエンパイアビルダー用に配備された最初のノーザン、S-1は、高速運行には欠けているところがあった。その年の終盤、ビルダーに最も良く似合った機関車、S-2が配備された。80インチの動輪を持つこのノーザンは、重量列車のスタート時には若干気まぐれなところを見せることもあったが、1930年代、1940年代には、すばらしい旅客用機関車となっていた。この機関車は、GNが外部の民間会社に発注した最後の機関車となった。
 同じオリーブグリーンの塗装で、エンパイアビルダーは、オリエンタルリミテッドと大きく違うようには見えなかった。しかし、広い側板に誇らしげに豪華な金文字でEMPIRE BUILDERの名が、この鉄道で長く使われたローマンレタリングで描かれていた。この名は、座席車、荷物車、郵便車にも同じく描かれていた。新しい寝台車は、北西部には本当に親密な名を掲げていた-Charles A. Broadwater(モンタナセントラルの創立者)、Marcus Daly(銅の王)、Arthur A. Denny(シアトルのパイオニア)、Isaac Stevens(1850年代の鉄道調査家)、General Frederick W. Benteen、General George A. Custer、General Philip Sheridan等である。全体では17両が将軍の名を、19両が有名な民間人の名を付けられていた。古いツーリスト寝台車は、名前ではなく番号がつけられていた。当然、座席車や、荷物車、郵便車も同じである。「展望・サンルーム・ラウンジ」車は、カプラー間全長89フィート近くに達し、グレートノーザンの展望車の中でもっとも長く、また、オープン展望デッキではなく、室内型サンルームを特徴としていた。この新しい車両は必要な場合には、列車の中間にも使用可能で、これは大きな長所だった。完全に室内型だったので、オープン展望デッキにいる乗客を見張る責任から乗務員は解放された。
 車両のインテリアは、1924年バージョンのオリエンタルリミテッドで人気を博した明るいパステルグレーとグリーンを特徴としていた。彫刻されたウォルナットのパネルと古い金のタッチが展望ラウンジを強調した。羊皮紙をシェードにしたランプ、安楽椅子、ライティングデスク、燭台のようなサイドランプといった全てのものが、チューダー様式の装飾に貢献していた。バーテンダーのエキスパートがビュッフェに控えていた。それは、広告用ブローシャーに述べられている通り、「まるで可愛いリビングルームのよう」だった。
 エンパイアビルダー創業一周年記念日に、旅客輸送部長のA. J. Dickinson氏は、ビルダーの大陸横断所要時間は、過去12ヶ月に2回短縮され、現在は60時間45分にまで短縮されていると報告した。68時間のスケジュールのオリエンタルリミテッドに比べ、エンパイアビルダーは、シカゴと太平洋岸北西部間の旅客にとって完全に1営業日違っていた。報告書はまた、短縮された所要時間と新しい列車が、旅客から即座の好反応を受けていること、増加する大陸横断旅客業務に十分対応していることを特筆している。白熱したこの報告書のわずか9ヵ月後に、全国的な不況のインパクトが国を覆い、事業量は劇的に低下した。1931年3月には、一列車を支えるのに十分な旅客数しかなくなり、オリエンタルリミテッドは時刻表から消えた。その復活には20年近い歳月が必要だった。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その6)

2005年08月14日 | Wood's Book翻訳
 1929年5月、グレートノーザン鉄道のC. O. Jenks副社長は、シカゴ~太平洋岸北西部間を63時間で走る新しい列車の導入を発表した。発表では、「これは、プルマン社の技術が作り出した最近の全ての改善を体現した列車である。もっとも長い新しい展望車から、この列車をロッキー山脈でも牽くパワフルな機関車まで、すべて新しい列車であり、利用者の方々の心地よさのためにこそ捧げられ、大陸横断輸送に必要とされる早さにも対応して設計された列車である。」と述べられていた。
 Jenks氏が言い残したことは、1925年に「頼りがいのある鉄道」といわれたグレートノーザン鉄道をより明るいイメージにするときであったという事実である。新しい列車は、明るいイメージ作りに大きく貢献し、鉄道をその周辺地域とより強固に結びつけた。新しい食堂車は、グレートノーザンが通る州やカナダの地方の名が付けられた。また、新しい寝台車や展望車は、「James J. Hillとその仲間たちを含む北西部の開発を示す人物、見知らぬ土地に道をつけた探険家、新しい街を開いたパイオニア、成長する町の防衛に必要不可欠だった軍人、地域の産業化に大きく働いた先見ある人物」の名が付けられた。また、「これらの人々は北西部が荒野であったときにやってきて、北西部が帝国となった後に去っていった。そこでこれらの人々に敬意を払うために、特に最高に現実的な夢想家であるJames J. Hillに敬意を払って、新しい列車はエンパイアビルダーと名づけられる。」
 発表のタイミングは良かった。1929年1月にグレートノーザンは8マイルの新しいカスケードトンネルを開通させたところだった。大規模なチャムスティックキャニオンの路線の再配置が行われ、タムウォーター経由の旧線の廃止が完了していた。加えて、スカイコミッシュ~ウェナッチー間の新しい電化区間が完全に運用を開始し、当時もっとも最新式の電気機関車が使用された。グレートノーザンは、2,500万ドルのコストでの新しい路線と新しい機関車(蒸気機関車と電気機関車)そして新しい一等列車をもって、実際そのイメージを明るくした。
 適切なファンファーレとともに、エンパイアビルダー(6編成)は、1929年6月10日、列車No.1及び2として、定期運行に入った。同僚のオリエンタルリミテッドは、列車番号をNo.3及び4に変更されたが、68時間のスケジュールは変更無かった。1924年以前の古いオリエンタルリミテッドの車両を改装して使用していたグレイシャーパークリミテッドは引退した。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その5)

2005年08月13日 | Wood's Book翻訳
 この車両のインテリアは、古い車両のエキゾティックな木と贅沢なデザインから一変した。今度のインテリアは、グレー、グリーン、サンドのソフトで落ち着いた色調で塗られていた。食堂車のイングリッシュパブ風の雰囲気は無くなり、より現代的なテーマとなった。プルマン車は、前はオープンセクションだったところにヘッドボードを設けた。毎日午後、お茶とケーキが、列車上での社交の中心となる展望ラウンジで供された。更に加えて、床屋とボーイによる男性客へのサービスと同じサービスが女性ラウンジのバスルームでメイドによって供された。
 シカゴまでのスケジュールは4時間スピードアップされたものの、結局のところ、1909年以前のオリエンタルリミテッドに比べて大幅に早くなったというわけではなかった。これは、新しい重量化された車両が理由の一つであり、また、ABS信号が本線に完全には完成していなかったという事実も一つの理由である。そしてまた、運行を大幅にスピードアップすべき本当のニーズが無かったためでもある。北西部のハイウェイはごく一部を除いてまだ原始的な段階で、車やバスはほとんど競争相手にならなかった。空路はまだ揺籃期にあり、遅くてうるさい飛行機は、日中と良い天気の日のみに限られていた。スピードではなく、サービスが運行全体の基調であった。ファーストメイル(列車No.27及び28)がGNの真のスピードに燃える列車であった。この列車は、多くの停車駅が許す限り早く、セントポール~シアトル間の郵便を配達していた。
 オリエンタルリミテッドに使用された機関車は色々であった。1905年のオリエンタルリミテッドの機関車は、より厳しい区間では新しいクラスH-5パシフィック、平らな区間では、比較的軽く短い編成であったのでテンホイーラー、アトランティック等であった。オリエンタルリミテッドが重量化、長編成化するにつれて、テンホイーラーやアトランティックではもはや対応できなくなっていった。1920年代初頭には、モンタナ州ハヴァー~ウルフポイント間のGNの平らな線路ですら、ブースター付のアトランティックでもオリエンタルリミテッドを時間通りに運行することは無理になっていた。重量パシフィックタイプ、クラスH-4、H-5が使用され、1923年には有名なP-2クラスマウンテンが、オリエンタルリミテッド、グレーシャーパークリミテッド、列車No.27、28のために特別に発注された。この機関車は非常に成功したので、GNは重量旅客輸送からこの機関車をはずすことはできなかった。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その4)

2005年08月12日 | Wood's Book翻訳
 1909年はまた、アラスカ-ユーコン-太平洋博覧会(アラスカ-東洋-太平洋岸北西部の貿易を振興する夏期のイベント)の年でもあった。博覧会は、シアトルの現在ワシントン大学となっている場所で行われた。博覧会の建物の多くがワシントン大学キャンパスの中心核に残っている。同じ年、有名なシルクトレインがGNを走り始めた。日本とイギリスの船が生糸をアメリカの港、サンフランシスコとシアトルに運んだ。シアトルに着くと一部の貨物は第41桟橋(現在の第91桟橋)を通った。多くのシルクは第88桟橋を直接通過し、GNで東に運ばれた。当初、シルクは通常の列車で取り扱われていたが、シルクの需要が増えたために量が増え、専用の高速列車が設けられた。大体一週間前に貨物の到着通知が着き、この間に一番良い車両が準備・調整される。シルクトレインは、1912年に顕著なものとなり、1933年まで続いた。
 1922年、より安全でより耐久性の高い全鋼製化への動きにあわせて、オリエンタルリミテッドの木造車は鋼材で覆われた。この改造は、新しい車両が到着するまでの一時的な対応策であった。新しい車両が到着したら、この改造車は、オレゴニアンを予定通り取って代わるグレーシャーパークリミテッドに使用されることになっていた。
 1922年はまた、プルマン社が、それまで鉄道が所有・運営していた寝台車の運営を引き継いだ年でもあった。これは、鉄道にとって良い販売促進の動きで、旅行客に広く受け入れられるとともに、長期的には低コストであった。プルマン社の運営はグレートノーザンを大変喜ばせたので、1924年のオリエンタルリミテッドのためのすべての寝台車、食堂車、展望車(7編成分)の建造をプルマン社に任せた。
 新しいオリエンタルリミテッドは、シカゴから一番西のオレゴン州ポートランドまでの町々で1924年の春遅く披露され、6月1日から運用に入った。各列車は、発電貨物車、喫煙車、一等座席車、ツーリスト寝台車、3両の一等寝台車、食堂車、展望車で構成されていた。全ての車両は、重量鋼製車で、GNオリーブグリーンで塗装され、オリエンタルリミテッドとの豪華な金文字が書かれたオリーブグリーンのボードを掲げていた。端には、プルマンまたはグレートノーザンと小さい文字で書かれていた。
 寝台車と食堂車の東洋の名前は落とされた。食堂車は、今度はグレートノーザンが通る州の名がつけられ、寝台車は同じくGNが通る街や地域の名が付けられた。展望車は全て、北西部から北太平洋を通って東洋までの最短ルートを示して、大圏上シリーズの名が付けられた。この巨大な展望車の後ろの窓は、非常に高く広く作られ、壮大な西部の景色を良く見られるようにされていた。大きく深く後退した展望テラスは、一度に8人を収容できる広さだった。
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「Wood's Book」翻訳:第5章 オリエンタルリミテッドとエンパイアビルダー (その3)

2005年08月11日 | Wood's Book翻訳
 シアトル~セントポール間を58時間で結ぶ1905年のオリエンタルリミテッド(列車No.1及び2)は、ライバルのノースコーストリミテッドの走行時間より4時間半早かった。ノーザンパシフィック鉄道はもちろん両都市間の本線距離も長く、ロッキーでは厳しい勾配と、より高い峠を越えていた。列車自体は非常に似通っていた。これは、両鉄道の車両とも同じ会社-プルマン、バーニィ&スミス、アメリカンカー&ファウンドリー(ACF)によって建造されたものであったから驚くには当たらない。また、数ヶ月前まで、NPは「Hill Line」の一部であり、ノースコーストリミテッドからオリエンタルリミテッドのヒントを得ていた。「単一」を示す最後尾のサインは、中国に源を発する赤と黒のデザインで1900年頃からNPのトレードマークとなっていたものである。両方の列車とも、先頭の車両(荷物車等)、座席車、食堂車、寝台車、展望車から構成され、通常8両編成であった。食堂車は「イングリッシュパブ」風の雰囲気を特徴としていたが、寝台車と展望車はビロード張りで絨毯も敷かれ、輸入木材で華美に飾りつけられていた。オリエンタルリミテッドの多くの寝台車は、東洋の地名-トウキョウ、ヨコハマ、マニラ、フーチョウ、フジヤマ-の名が付けられていた。他の車両は、Hillと一緒にSt. Paul & Pacificを設立した初期の仲間の名前が付けられ、また、そのほかの車両は、沿線の地名-タコマ、カシミア等-が付けられた。展望車は特別な名前は付けられず、単に「コンパートメント展望車」のタイトルを掲げていた。
 1909年、オリエンタルリミテッドは、セントポール~シカゴ間はバーリントン鉄道を使ってシカゴまで72時間の運行を始めた。オリエンタルよりゆっくりとしたスケジュールながら、同輩のオレゴニアン(列車No.3及び4)もセントポール~シアトル間で毎日運行していた。この列車は、優等列車に比べてより多くの駅に停車していた。オレゴニアンは、セントポールを夕方遅くに出発し、シアトルとタコマには朝に着くダイヤを提供していた。一方、オリエンタルは、西の目的地に夕方到着していた。東行きは、出発時間は反対に、オレゴニアンはシアトルを朝に、オリエンタルは夕方早く出発していた。オリエンタルもオレゴニアンも、スポーカンで一部の車両を切り離し、SP&S鉄道の線路を使ってポートランドに行く運行も行っていた。ポートランドからの東行きの乗客は、SP&Sの列車NO.2及び4でスポーカンに到着した。セントポールとシカゴ行きの寝台車は切り離されて、オリエンタルとオレゴニアンに連結されるが、座席者の乗客は単に列車を乗り換えるだけであった。
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