グレートノーザン鉄道

アメリカのグレートノーザン鉄道の実物(歴史、資料等)と鉄道模型(HO:レイアウト、車両)に関するプログです。

「Wood's Book」翻訳:第3章 カスケードを越えて (その10)

2005年07月27日 | Wood's Book翻訳
 同じ頃、スティーヴンズ峠は、25マイルから30マイルも、土砂や木々を含んだ雪崩でうずもれていた。ロータリー車では歯が立たず、線路から障害物を取り除くのには爆薬も使われた。東側からトンネルを抜けてウェリントンまでの最初の列車が走ったのが3月9日、シーニックまで開通したのは3月12日だった。雪で覆われたスロープのふもとを走る線路を守る唯一の手段はスノーシェッドの建設だった。1910年の残りの期間に150万ドルが費やされた。このコストで、3,900フィートの鉄筋コンクリート製スノーシェッドがウェリントンに建設され、870フィートの既存の木製スノーシェッド、この2つの間をカバーする新しい木製スノーシェッド、26ヶ所の他の場所の木製スノーシェッド等が建設された。これにより、既存の全長7,593フィートの17箇所のスノーシェッドに加え、5,411フィートの線路がカバーされた。直径6インチのパイプがウェリントンからシーニックの間の線路に沿って引かれ、スノーシェッド内に防火のためのホースと配水塔も設けられた。また、貯炭庫がスノーシェッド内に置かれ、万一の際に機関車やロータリー車が使用できるようにされた。ベルンの2.07マイルの線路の大幅な配置替えや他の場所での小規模な配置替えが実施され、スノーシェッドを建設しなくてもいいようにされた。後年、ウィンディポイントはトンネルとなり、更にスノーシェッドも追加され、ウェリントン~シーニック間の線路の61%がカバーされた。これでも問題は完全には解決されず、2500万ドルをかけた新カスケードトンネルの完成と、40マイルの線路の配置替えを待たねばならなかった。
 1923年に、支部の境界は22マイル東に移動し、レヴェンワースからウェナッチーとなった。経済的には、貨物列車の長編成化が要求されていた。よりパワフルなミカドやマレーが投入され、大幅に増大する輸送量に対応できたが、この長くて重い列車をトンネルで3重連の電気機関車でも牽引するのは無理だった。4重連にすると発電所に無理がかかるため、列車は2分割されていたが、これは時間もかかる運用だった。この問題を解決するために、電気技術者により「カスケード」連結が開発された。このシステムでは、電気機関車は半分の速度しか出せなかったが、発電所に無理をかけることなく4両目の機関車を追加することができた。これにより、貨物列車は4重連で時速7.5マイル、旅客列車は重連で正規の時速15マイルで牽引された。他方で、これは、高価な電気機関車の余剰を生み出した。GNは、余剰の乗員、電気機関車、発電所を活用し、運用コストを削減するために、電化区間をスカイコミッシュまで延長することを決定した。新カスケードトンネルのために作られたこの計画では、旧トンネルの旧型電化を廃止し、シーニックとタイ間の9マイルにも新たな電化をすることとなっていた。
 GEの旧型の6,600V三相交流のシステムは、運用に限界があるために、スカイコミッシュまでの延長部分には採用されなかった。その代わりに、11,500V単相交流システムが、1927年2月6日にシーニックとカスケードトンネル駅の間で完成し運用を開始した。また、3月5日には、スカイコミッシュまで延長された。新しい機関車が1927年と1928年に追加投入された。単機で運用される大きい機関車はGE製で、常に重連で運用される小さい機関車は、ボールドウィン・ウェスティングハウス製であった。更に、Spokane & Inland Railroad (Spokane Couer d’Alene & Palouse)からの1両が補助的使用のために改造された。これらの機関車は、新トンネルの完成まで旧トンネル路線で使用された。
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