小学校の国語の教科書にも中学の教科書にも宮沢賢治は登場した。図書館や学級文庫にもあった。映画化やドラマ化された作品もあった。ごくごく身近な所にあったが、自分から手にとってみようとするには、説教くさいというかそんな匂いがしていたので避けてきたように思う。
最近「セロ弾きのゴーシュ」を読んでみたくなった。粗筋ぐらいは知っていたから。
活動写真の楽団のセロ弾きのゴーシュは楽団の足を引っ張るような演奏ばかりしていて団長に怒られてばかりいる。一人で部屋で練習していると、狸やハトが練習を覗きにくる。ゴーシュにはうっとうしい来客達だが、彼らは実は楽しんでいた。そしてゴーシュは上達していき、拍手を浴びるほどまでの演奏ができるようになる。
練習を冷やかしに来る動物たちとのやり取りのなかに、演奏する者と、聞く者の間にある音楽の意味についてヒントがこめられている。
そんな大人のファンタジーに読めた。
宮沢寛治の詩や童話の中にジャズという言葉が登場する。
詩のタイトルにもなっている「ジャズ、夏のはなし」。ゴーシュの言葉にある「馬車屋のジャズ」はどんなじゃずだったか?
この疑問から出発する一冊の本があった。「宮沢賢治ジャズに出会う」。
これはNHK週刊ブックレビューで紹介されて記憶にのこっていたのだが、図書館で借りて読んでみた。
ジャズ好きの作家が書いた「日本のジャズ史戦前編」というところで、興味深い話がいくつもあった。
ペリーが来航した時連れてきた楽団はミンストレル・ショー(黒人の楽団だったらしい)で、フォースターの「ネッドおじさん」「主人は冷たい土の中」等の曲が演奏されたらしい。(当時のパンフレットから)
冒頭部分、賢治の作品「ジャズ、夏のはなし」を引用し、ジャズならではの躍動感を感じとって一冊の本を書いてしまったジャズ好きの作家のエネルギーはすごい。
賢治の詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」について筆者はこういっている。
「疾走する蒸気機関車の姿を描きながら、まさに「ジャズ」演奏の流れそのものをリズミックに描いた名作のジャズ詩だと言えるだろう。」
とび乗りのできないやつは乗せないし
とび降りぐらゐやれないものは
もうどこまででも連れて行って
北極あたりの大避暑市でおろしたり
ジャムセッション事を歌っているかのように聞こえるのは筆者奥成氏ばかりではないだろう。