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●あけまして
おめでとうございます。
新しい年がはじまりました、その第一日目である今日、元日をどのように過ごされたでしょうか。
私は、何処へも出かけずにのんびりとした元日を迎えました。
例年ですと、元旦礼拝といって教会で礼拝に参加するのですが、今年は明日1月2日が安息日にあたり、元旦礼拝が中止されたのです。
したがって、明日は通常の礼拝日となり午前中は教会で過ごすことになります。
さて、今年という一年を皆様はどのような一年とするのでしょうか。
私は、今年は、個人的にも企業の経営的にもひとつの節目を迎えていると感じています。
私は、今年還暦を迎えます。
つまり60歳という年齢層に突入するのです。
あまり突入したくはないのですが、こればかりは万人共通で、人間である以上はだれも逃れられない運命です。
たとえ自分の資産が正確にはいくらあるのか計算もできない富裕な人も、何も資産と呼べる物を持たない貧しい人も、頭のよい人も、頭のよくない人も、男も女もすべて一緒です。
私は若いころ、50歳の人は50歳の人なりに、60歳の人は60歳の人なりに、それぞれの年代に応じて「人格的な完成度」が増していくのだろうかと考えていました。
しかし、そのようなことは全く無い。
ということを自分自身を見つめてキッパリということができます。
実際に年を重ねてきて、人間的な成長をしているという「実感」がまるで無いのですからそういうものであるという確信が持てます。
まぁ、こんなことに確信を持っていると、自信に満ちた述べ方をしても何の意味もありませんが。
しかし、逆な言い方をすれば、成長も無いけど考え方の根本に位置する「性向」というものは変化しない。とも、いうことができます。
悪く言えば「変らない」とか「学びが無い」とか、「成長がみられない」とかになりますが、良く言えば「衰えない」ということになるのです。
しかし、人間は年を重ねれば肉体的な衰えを避けては通れません。
また、残念なことですが記憶力、正確に言うと「情報検索及びその抽出に対する速度と正確性」が失われていきます。
そのため、階段でつまずく。
とか、人の名前が思い出せずに「アレ、ほらアノ人だよ」という会話になってしまいます。
ところが、不思議なことに妻との会話では、それで「アレ」がなんであるのか、また「アノ人」が誰であるのか、が通じてしまうことがしばしばあります。
これなどは、人格的な成長などしていなくとも、身に付くのですから人間とはいったい何者なのでしょうか。
これには副作用というものが存在していて、同じ話し、同じ話題が繰り返されるということが起きます。
つまり、書き込まれたデータがメモリー上に呼び出され、バッファーされた常態でそのまま放置された時、何らかの信号に反応して突然そのバッファーされたデータが呼び出されるのです。
それが出力装置(口ですね)を通じて吐き出されてくるのですが、本人のCPU(中央演算装置)はこれを「えっ!このデータ(話題)以前に出力したよな」という、出始めてしまったものは止められないのです。
こういう特性を増し加えていくのが「加齢」という現実であり、加齢による「人格的成長」は、無い、という結論に達したのです。
学会で発表するようなことではないのでそれはしませんが、人間の加齢ということの本質はこのようなことであります。しかしながら、実はもっと重要な事柄を含んでいることにも気付きました。
それは、人間の精神は加齢による変化が及ばない領域に存在している。
ということです。
◆今日の祈り
ご慈愛深い父なる御神様、あなたの豊かな恵みと祝福に心から感謝いたします。
主の御前にあって、愚かで弱く罪深いわたしですがどうかお許しくださいますように。
主の御恵みは、このような汚れ果てた罪深いしもべにも、新しい年を迎えることを得させてくださいました。
昨年は極めて困難な一年でありました。
弱いしもべの心は崩れ折れそうになりましたが、あなたの力強い御手によって支えられ、困難を乗り越え今日という新しい年を迎えることができました。
しもべは主に心から感謝するものであります。
そして、新しい年にはまた一段と厳しい現実があります。
どうか主よ、しもべをかえりみて下さい。
その信仰を増し加えてください。
信仰によって試練を耐え忍び、信仰によって困難を乗り越えることができますように。
弱いしもべを助け導いてください。
この祈りと願いとを尊き御子、主イエス・キリストの御名前を通して感謝してお祈り申し上げます。
アーメン
おめでとうございます。
新しい年がはじまりました、その第一日目である今日、元日をどのように過ごされたでしょうか。
私は、何処へも出かけずにのんびりとした元日を迎えました。
例年ですと、元旦礼拝といって教会で礼拝に参加するのですが、今年は明日1月2日が安息日にあたり、元旦礼拝が中止されたのです。
したがって、明日は通常の礼拝日となり午前中は教会で過ごすことになります。
さて、今年という一年を皆様はどのような一年とするのでしょうか。
私は、今年は、個人的にも企業の経営的にもひとつの節目を迎えていると感じています。
私は、今年還暦を迎えます。
つまり60歳という年齢層に突入するのです。
あまり突入したくはないのですが、こればかりは万人共通で、人間である以上はだれも逃れられない運命です。
たとえ自分の資産が正確にはいくらあるのか計算もできない富裕な人も、何も資産と呼べる物を持たない貧しい人も、頭のよい人も、頭のよくない人も、男も女もすべて一緒です。
私は若いころ、50歳の人は50歳の人なりに、60歳の人は60歳の人なりに、それぞれの年代に応じて「人格的な完成度」が増していくのだろうかと考えていました。
しかし、そのようなことは全く無い。
ということを自分自身を見つめてキッパリということができます。
実際に年を重ねてきて、人間的な成長をしているという「実感」がまるで無いのですからそういうものであるという確信が持てます。
まぁ、こんなことに確信を持っていると、自信に満ちた述べ方をしても何の意味もありませんが。
しかし、逆な言い方をすれば、成長も無いけど考え方の根本に位置する「性向」というものは変化しない。とも、いうことができます。
悪く言えば「変らない」とか「学びが無い」とか、「成長がみられない」とかになりますが、良く言えば「衰えない」ということになるのです。
しかし、人間は年を重ねれば肉体的な衰えを避けては通れません。
また、残念なことですが記憶力、正確に言うと「情報検索及びその抽出に対する速度と正確性」が失われていきます。
そのため、階段でつまずく。
とか、人の名前が思い出せずに「アレ、ほらアノ人だよ」という会話になってしまいます。
ところが、不思議なことに妻との会話では、それで「アレ」がなんであるのか、また「アノ人」が誰であるのか、が通じてしまうことがしばしばあります。
これなどは、人格的な成長などしていなくとも、身に付くのですから人間とはいったい何者なのでしょうか。
これには副作用というものが存在していて、同じ話し、同じ話題が繰り返されるということが起きます。
つまり、書き込まれたデータがメモリー上に呼び出され、バッファーされた常態でそのまま放置された時、何らかの信号に反応して突然そのバッファーされたデータが呼び出されるのです。
それが出力装置(口ですね)を通じて吐き出されてくるのですが、本人のCPU(中央演算装置)はこれを「えっ!このデータ(話題)以前に出力したよな」という、出始めてしまったものは止められないのです。
こういう特性を増し加えていくのが「加齢」という現実であり、加齢による「人格的成長」は、無い、という結論に達したのです。
学会で発表するようなことではないのでそれはしませんが、人間の加齢ということの本質はこのようなことであります。しかしながら、実はもっと重要な事柄を含んでいることにも気付きました。
それは、人間の精神は加齢による変化が及ばない領域に存在している。
ということです。
◆今日の祈り
ご慈愛深い父なる御神様、あなたの豊かな恵みと祝福に心から感謝いたします。
主の御前にあって、愚かで弱く罪深いわたしですがどうかお許しくださいますように。
主の御恵みは、このような汚れ果てた罪深いしもべにも、新しい年を迎えることを得させてくださいました。
昨年は極めて困難な一年でありました。
弱いしもべの心は崩れ折れそうになりましたが、あなたの力強い御手によって支えられ、困難を乗り越え今日という新しい年を迎えることができました。
しもべは主に心から感謝するものであります。
そして、新しい年にはまた一段と厳しい現実があります。
どうか主よ、しもべをかえりみて下さい。
その信仰を増し加えてください。
信仰によって試練を耐え忍び、信仰によって困難を乗り越えることができますように。
弱いしもべを助け導いてください。
この祈りと願いとを尊き御子、主イエス・キリストの御名前を通して感謝してお祈り申し上げます。
アーメン