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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 124 加藤清正と小西行長の対立

2023年01月14日 18時11分44秒 | 貧乏太閤記
「申砬軍壊滅、忠州を奪われる」の報が漢城に届くと、「ここにとどまって守り抜く」と威勢の良いことを言っていた文班(文官)が「まさか申将軍を一日で破るとは」と驚き、王族を置き去りにして真っ先に逃げ出した、さすがに三人の宰相は行動を共にしたが、従う役人や武官は100人にも満たない。
 光海君は宣祖に開城(ケソン)まで避難を急がせた、慌てた王族は取るものも取らず城から逃げ出した。

 忠州に先に到達したのは加藤軍であった、実は小西軍の方が2日早く着いていたのだが、漢江の向こうの弾琴台に申将軍の軍が待ち受けていたので、忠州入城よりも先に、そちらを攻め落とすことにしたのだ。
忠州城に籠る敵は僅かなので、それは見張り程度置いておけばよかった
小西隊は三方から川を渡って弾琴台に攻め込み、攻め落としたのだ、味方の損害も出たが圧勝であった。
 加藤と小西はようやく忠州で出会った
「忠州城は我らが片付けて、小西殿をお迎えしておりましたぞ」
いきなり加藤がパンチを浴びせた、この二人よほど虫が合わない
「さようか、我らは1万の敵が籠る弾琴台を攻めたゆえ、忠州入りは加藤殿に一日後れをとってしもうたわい、残念じゃ、忠州城も1000ほどは居たのかのう? 我らも昨日のうちに1000ほどで攻め落とせたが、攻め込まずにいたのが間違いであった、万余で攻めるとは手強い敵でございましたかな?」小西も皮肉で対抗する。
「何と申すか、我らより5日も先に出発しておりながら、未だ漢城にたどり着いておられぬとは、物見遊山でござるか」
「何を申される、敵のいない東道を物見遊山で来たのは加藤殿ではないか」
「そもそも我らが到着する前に抜け駆けしての手柄ではないか、それを誇って我らを見下すとは軍令違反であろうが!」
「とぼけたことを!我らが一日で釜山周辺の敵城をいくつも落したのは仕方のないことであろう、我らが強すぎたからじゃ、それともわざと負け戦をして、加藤殿の登場を待てば良かったのであろうか?」
「なんだと、商人ずれが大口をたたくな、この片鎌槍の錆にしてやろうか」
「おう、やってみよ!」ついに小西も刀に手をかけた
回りにいた宗、有馬、鍋島、相良は驚いて、止めに入り事なきを得たが、先が思いやられる事件であった。

 エピソードがある。 加藤軍は朝鮮の東部、日本海側(朝鮮では東海「トンヘ」と言う)の平野から200mほどの比較的緩やかな低山ばかりが続く土地を進み、慶州を落し慶尚北道(けいしょうほくどう=キョンサンプクド)の安東(アンドン)近くの村で野営したが、ここには虎が多く住み着いている
そのため日本軍の敵は朝鮮兵より虎の方が手強い、馬もやられたし、兵士もかみ殺される被害が出た
これに怒った加藤清正が虎を退治に乗りだした、そして殺した虎の生き胆を塩漬けにして秀吉に贈った。
「この村の長老が言うには、虎は百獣の王であり、生命力逞しく、子を成す精力もまた抜群であるとのこと、虎の生き胆を食せばたちまち殿下にお子ができるでありましょう」と添えた
秀吉は半信半疑であったが、子を欲しいばかりに無理して食べた
名護屋城には淀殿と京極殿を小田原攻め同様、連れてきていたから、夜な夜な秀吉は交互に、二人の寝所を訪ねた。
秀吉は55歳になっていたが、京極殿は34歳、淀殿は23歳である、彼女らが妊娠するには問題ない、だが秀吉は平均寿命を超えている老人であった
しかし庶民の老人とは違い、秀吉は戦に明け暮れ、気持ちも高ぶっていて、さらにあらゆる精力剤も飲んでいたからまだ40代の体力、精力があった。
はたして虎の胆食は効果があるのか?
清正以外にも虎を殺して秀吉に贈った大名は居たようである、もっとも清正の虎退治は事実か創作かわからないが。

 さて諸将の取り成しもあって、加藤清正、小西行長ともに気を取り直して軍議に臨んだ
宗義智が会議を取り仕切った、結果、共に次の目的地は漢城であり、そこで再び会うこと、いずれかが大いに遅れるときは連絡を取り合い助け合うこと
両軍が漢城に揃うまでは、早く着いた軍は次へ出立しないこと
そして進路は、第一軍は漢江の南を進軍、竹山を経て漢城に入る
第二軍は漢江の北を進んで漢城に入ると決めた。、これが4月30日のことで宣祖や光海君らが北へ出立した僅か1日後であった、宣祖たちは際どいタイミングでかろうじてセーフだったのだ。

 5月1日に宣祖たちは開城に到着してひと息ついた
しかし3日には早くも小西隊と加藤隊が同時に漢城の朝鮮王宮の東大門(トンデムン)と南大門(ナムデムン)から入城した、敵はもぬけの殻で、景福宮(キョンポックン)昌徳宮(チャンドックン)昌慶宮(チャンギョックン)などの王宮が燃え落ちていた
それから間もなく黒田長政の第三軍も安城(アンソン)、水原(スウォン)を落して漢城に入城、更に宇喜多、第四軍の毛利ら諸隊も続々と入城してきた
ここで全軍が揃うのを待ち、これ以後の北への征戦の軍議を開くこととした
この報せは間もなく開城の宣祖たちにの耳にも入った、開城から漢城までは、わずか50kmほどしかない、急げば半日で攻め寄せることができる
宣祖たちは急いで立ち退いて平壌に向かった
日本の主な軍団が漢城に揃って軍議が開かれたのは10日頃であったから、宣祖らは追われることなく平壌に着くことができた。

 日本では江戸時代に「士農工商」という身分制度があったが、士以外の身分は、さほど差はない、農民が商人を怒鳴りつけて商人が土下座するなんてことはないし、商人の方が小作農民より豊かで贅沢なのは当然だった
朝鮮はどうだったか、朝鮮の身分制度は日本よりはるかに厳しい、男女間の差別は日本よりはるかに酷かった
それは日本が身分など関係ない実力が物言う乱世に突入して200年近く、最下層でも武士になれる時代が続いたのだ、秀吉の出世は、その最たる例だ。
ところが朝鮮は平和が続き、宗主国の明をまねた官位制度を採り入れ、最高位に朝廷があり、それを支える高級官僚の「両班(やんばん)」が大臣をはじめ権力争いに明け暮れた。
その下に「中人(ちゅういん)」「常民(さんみん)」という下級官吏から一般人の身分があり、その下に賤民(ちょんみん)という卑しい身分がある、その中でも奴婢(ぬひ)は奴隷階級で人とは認められない
たとえ両班であっても、罪を被ったり、戦で捕虜になったりすれば奴婢階級に落とされることもあった。

 首都漢城から王室、高級官僚、高級役人、軍隊などが逃げ去った
逃げる当てもない庶民や兵士、置いてきぼりになった奴婢たちは、そのまま漢城やその周辺に残った
もともと夢も希望もなかった奴婢にとって日本軍が攻め寄せるのも怖いが、両班に家畜のように扱われていたことから解放された安心感も起きている。
日本人がどのように自分を扱うかわからないが、自分たちが奴婢であることを日本人は知らない、うまくやれば日本人は普通の朝鮮人として扱うだろう
「奴婢台帳を焼いてしまえ」誰からともなく、そんな声が上がった、それで各所の役所だけでなく王宮にまで放火が始まったのだった。








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