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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 160 日本軍後退

2023年02月19日 18時58分21秒 | 貧乏太閤記
 陸上部隊は有利のまま水原の目と鼻の先まで、攻め寄せていたが全州で秀吉からの使者である奉行を交えて軍議を開いた。
奉行が命令書を読み上げた、「前線にある部隊は、別紙の配置書のとおり任地に向かうこと。 
任地では在地の賊の集団(義兵組織)が組織されぬよう、在民に褒美を取らせて、山に隠れている両班、役人、軍人の情報を得よ、それらをことごとく切り捨てること、それらの家族も家来もことごとく殺すこと。
一般の朝鮮農民や市民は労働力として大事に扱い、危害を加えるわが兵士がいたら捕えて、厳しく罰すること
在地農民は収穫に励むよう申し渡し、日本国内同様に年貢を収めさせること」などという内容であった。 
日本軍は大名ごとに割り当てられた任地を目指して南下していった、その任地は全て、全羅道であった。
秀吉は、文禄の進軍で多くの兵が、病と寒さと飢えで死んだことを踏まえて、秋口になった今、軍を南部の全羅道、慶州以南の慶尚道にまで南下させて、そこで冬をやり過ごす作戦にしたのだった。
 そのため、南部各地に倭城の建設や改修、防御固めを命じた、今度の遠征は朝鮮全土侵略よりも、確実な占領地の足固めを重視したのだった。
秋口から年明けにかけての日本軍の仕事と言えば、すべて城普請であった、朝鮮人も駆り出されたが、日本の徴兵された農民や足軽まで過酷な労働を強いられて各地で城が築かれ、補強されていった。

「どうやら日本軍は全州にはすでにいないのではないか」、漢城の明国軍の司令官は偵察兵を送った
「日本軍はもぬけの殻で、羅州周辺から南部一帯に城を構えて籠城しています」と返事が戻って来た。
「そうか、冬に備えて戦線を凝縮したのだな、それならば慶州方面も同様であろう」と、こちらにも偵察を出すと
「星州に、多少の兵が籠り、その先の尉山城は未だ建設中です」という報告だった。
「よし、まずは星州を奪い返すのだ」
わずか数百の城兵しかいない星州城は、たちまち陥落して守備兵は戦死、蔚山方面への撤退、あるいは投降して捕虜になった
その勢いで朝鮮、明国の連合軍は蔚山城を目指した
星州(ソンジュ)から蔚山(ウルサン)までは約100km少々、数日後には大軍が押し寄せてくる
「急げ、急いで総構えの竹垣を作れ、穴を掘れ、土手を築け」突貫工事をしていたが、蔚山の防御態勢は整っていない、食糧備蓄も僅かである今攻め寄せられては万事休すである
「おお、殿様が参られたぞ、みな元気を出して励め!」
加藤清正が西生浦城から一隊を率いて海上からやって来た。 12月22日朝鮮軍が先陣を切って攻め寄せてきた、城外で加藤軍の中隊が迎え撃ったが、あっという間に突き崩されて三の丸に逃げ込んできた。

城方は工事中のこともあり1万の兵がいたが、攻め寄せる側は朝鮮軍1万有余、明軍5万にも及び、朝鮮の将軍は都元帥権慄、明の大将は麻貴(マーグィ)である、権慄は今までも何度も日本軍と戦った、朝鮮陸軍の名将である
 
戦うたびに、日本軍の兵士は減っていく、捕虜になる者も出ている
急な朝鮮、明軍の到着で、兵糧も水も貯えが少なかった、早くも兵糧、水が切れて、更に朝鮮の凍える冬が始まったので寒さもまた敵であった。
「とてもこのありさまでは抵抗もこれまでじゃ、いっそ押し出して血路を開き、西生浦まで撤退するか」
大将の加藤清正さえ弱気になるほど、この状況は酷かった
籠城して五日目からは、みぞれや霰が激しく降って、鉄砲も使えない
明・朝鮮軍は、城内の様子を捕虜から聞いているので、あえて攻め寄せず兵糧攻めの包囲に変えた。
だが「近くの日本軍が救援に動き出すようです」という情報が明軍に入ってくると、逆包囲の恐れが出てきた
「敵の後詰が来る前に開城させよう」と言うことになった
白旗を持った丸腰の兵が二の丸門に近づいてきた
「城中の皆様方、これまでででござる、投降なされよ、されば食い物も水も与えると明の将軍は申しております」と日本語で言った
「なんだ、あれは味方ではないか」「おお、日本人だ・・・まてまて、あれは岡本ではないか、捕虜になったのか」
まさに、数日前に行方不明になった、味方の侍であった
「明日の昼までに返事をせよとのことでござる、もはや戦い続けるのは無理でござる、どうか投降なされよ」
「腰抜けが!」城中から鉄砲の音が鳴り響き、命中はしなかったが弾丸が使者の近くをかすめた、慌てて使者の岡本らは朝鮮陣に引き返した。
「殿、どうなされますか」重臣が清正に問うた
「・・・」清正も今までの元気が失われている、何よりも寒い、寒すぎる
日本の雪の寒さではない、切り裂くような、突き刺すような凍える寒さである、空気は乾燥していて、吹く風が手を凍えさせ、刀をも自由に操れない
鉄砲玉を込めることも難しい、それが氷雨になるともはや指は凍傷になりかけ、わらじの足指は感覚がない。
もともと年じゅう温かい九州武士ばかりだ、寒さに慣れている奥羽・北陸の武士の比ではない
しかも飲まず食わずで4~5日が過ぎている、馬も食った、かって豊臣秀吉が鳥取城などで敵を干殺しにしたやり方で、今は日本軍がやられている
加藤清正も、そのときには参戦していて、骨と皮だけで出てきた敵の惨状を見ている、(儂らも、あのようになってしまうのか)

 蔚山から海岸沿い15km南下すると西生浦、さらに海岸に沿って下ること30kmで釜山に着く、蔚山から35km南西に梁山、釜山までは40km 梁山から更に南西に20kmで金海、それぞれに大名の軍団が駐屯している
その諸将がただならぬ蔚山の様子を認識するのに5日かかった、直ちに諸将は連絡を取り合って兵を持ち寄って救援に向かうことが決まった
総大将は毛利秀元として毛利軍のうち3500を率いた、そのほか黒田、蜂須賀、鍋島など十いくつかの大名が、総勢1万数千の救援部隊を編成した
「我らは、急ぎ蔚山に向かうが、間に合い次第巨済島以西の軍にも第二次の後詰を願いたい」と伝令を走らせた。

 「味方は必ず救援に来るであろう降参はせぬ、城も明け渡さぬ、だが降参するふりをして返事を伸ばして時を稼ごう」清正はそう言った
海から逃げる手もあるが、海岸方面までびっしり包囲されて、船も抑えられてしまった。
包囲から一週間がたった、加藤清正が時間稼ぎをしていることにようやく気付いた明軍は、朝鮮軍を先陣に総攻めを開始した
三の丸はたちまち打ち破られて、50、100と加藤軍兵士が打ち取られた、そして二の丸に籠ると、鉄砲を撃ちかけて激しく抵抗した。
攻め寄せる朝鮮、明軍は攻めあぐねた
「今ぞ門を開けよ、打って出るぞ」一斉に押し出すと、朝鮮軍の中に切り込んで、敵を三の丸から追い払い、また二の丸に籠った
朝鮮軍は数百の死者を出して城外に逃げた、しかし、その後も何度も攻め寄せたがどうしても二の丸破ることが出来なかった。
12月の26日過ぎから、西生浦城に救援部隊が集まり始めて軍議を開いた、年が明けた2日にはあらかた出そろい、いよいよ蔚山に出撃した

                     朝鮮の騎馬隊




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