神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

小説一から書き直し

2017年07月15日 11時58分12秒 | 心 思い

小説を書くとか、ホームページを始めるとか、それは心の中に小さな囲炉裏ができたようなもの

そこに炭や小枝などを準備するのに3年かかる、それから種火が付くまでに3~5年かかる

一度火が付いてしまえば一気に燃え上がる

それが私の創作パターン、何しろ時間がかかる

 

父の人生に興味が湧いたのは30年以上も前のこと、小説に書こうと思ったのは20年くらい前

それから少し書いたけど中身が無くて、あらすじみたいなミニ小説

それから本気になって、父の家系や先祖を東京や関東一帯の市役所に問い合わせて200年前

まで知るようになった。

父にも人生のポイントポイントを何百回も聞いて、ノートにメモった

今や資料はA4で数百枚に及ぶ、和紙の綴りに短編を5冊書いた、そして5年ほど前からいよいよ

長編に挑戦、1年で前編350ページ書き上げた、そして後編も200ページほど出来たところで

心に迷いが生じた(おれは一体父の何を書きたいのか)

波瀾万丈の人生、次々と試練を乗り越えて成長していく姿はたしかにサクセスストーリーとしては

面白いが、中身が空っぽ。

それでもう1年間、ペンは止まったままだ、今改めて考えている、すべて書き直そうと思って居る

私が本当に知りたかったのは、93歳間近になっても、長男で仕事のパートナーの私にさえ心を開かない

ましてや他人には尚更、そして一度も大声で笑ったことが無い理由、ギャグのギャの字も無く

歌った姿も見たことが無い、そのくせナイスガイで80歳頃までは年下や若い女性にもてた父

茶目っ気もあって、差し入れお断りの看護婦さんの控え室にショートケーキを50ヶも買って

持って行って大歓迎された現場も見た。

こうしたギャップの大きい人生を、その心根を探って書いてみようと思うようになった

今は再び、そうした父の人間形成の過程を時代毎に書き出す作業をしている

一方、仕事でも最後のプロジェクトにむけて走り始めた、この二つを平行線で進めていくのは

容易でないけれど、一つ毎に集中できず、すぐに飽きてしまう性格には、こうした複数の事柄を

同時にやるのが私には合っている、こんどこそ魂の小説が書ける気がする。

 

 


ハラハラどきどきの台湾旅行 飛行機に乗るまで①

2017年07月15日 08時04分35秒 | 旅行 九州四国・東アジア

第一回目は父の代理で行った、今から35年くらい前の話

60人観光バス二台の団体、高速道路が無い時代

前夜7時に出発、翌日の午前10時頃のフライト

時間は充分とってあったはずだった・・・・・・・が

 

北陸路から信濃路へ、そして東京から成田へ列島横断500km

季節は冬2月、雪国故みんな長靴にコート、アノラック、これはすべて成田で

バスに置いて行くしか無い、目的地は南の島国台湾

出発時はたいした雪も降っていなかったが、軽井沢付近から難所碓氷峠に差し掛かる辺りで

渋滞にはまってしまった、バスはいっこうに動かない

雪があって、たぶんノーチェーンの車がスリップでもして動けなくなったのだろう

何しろ標高は1000mを超えているはず、道路も雪ばかりでは無く氷点下で凍っているだろう

時間はすでに23時過ぎているのではなかろうか

とうとうドライバーと添乗員は信越線国道19号をあきらめてUターン佐久まで戻って小海線経由で

20号中山道へ向かった

大幅な時間ロス、甲府に近づいたときはもう午前3時、このままでは間に合わないと判断

国鉄で東京まで行こうとなって甲府駅に行った、しかし夜中に電車が走っているわけも無く

再びバスは走り出した、ここだって高速道はまだ無かったと思う、こうなれば大月から東海道に出て

東名高速道を走るのが最後の手段、しかしこの日、関東の山間部でも雪が降り河口湖にさえ

到達できない、東名高速経由も失敗、仕方なく戻り、八王子に向けて走り続けた

運転手と添乗員の話を聞いていると、都内を8時までに抜け出なくてはならないという

都内を新宿方面から江戸川方面に抜けるには朝のラッシュ前に入ってしまわなければならない

もはやそれは不可能であることは、どちらにもわかる時間になっていた

新宿に近づいたときにはもう7時をまわっていた

いよいよ最後の手段、首都高で上野に向かって京成スカイライナーに乗り込むしか無い

飛行機の出発に間に合うにはそれしか無い

そして、それはGood Idea! だった

駅のホームに立った時、まだ飛行機に間に合う時間のスカイライナーの時刻に30分くらいあった

みんなホッとしたのも束の間、バスは2台だったのだ、今ここに居るのは1号車のメンバー

2号車のメンバーが居ない

すると一人が「首都高で2号車とすれ違ったぜ」と素っ頓狂なことを言い出した

すると数名も「オレも見た、手を振っていた」といいだした、どういうこと?

そうこうするうちに電車が入ってきた、「我々だけでも行こう」あせった客が言ったが

添乗員が許すわけも無い、最後の綱の電車は我々を置いて出て行った

それから15分も経って2号車の連中が到着した。 慣れない運転手が入り口を間違えて逆方向に

入ってしまって、しかも出口を見落として2周もしたのだった

次のスカイライナーに乗った、飛行機離陸時間の45分後に成田に着く電車

もう間に合わないけれど行けるところまで行ってみるしか無い

我々はみながっかり、もう気持ちは切り替わって石和温泉か熱海に向かっていた

私も初めての海外旅行がこうも簡単に夢破れるとは・・・・がっくり

添乗員は二人並んで立ったままつり革にぶら下がって言葉も交わさない、一人が「首だ、首だ!」と

つぶやいている

成田について国際線に向かった、まるで敗残兵の列の様に

すると突然、叫び声が「急いで! 急いで! 走ってください、走って!」

何が何だかわからないが、みんな一斉に走り出した、そのままフリーパスで60名の団体は飛行機に

収まった、何の検査も無く、飛行機に乗っていた。

今、思ってもあり得ない話しだ、だがそれは事実だった、機長判断で50分待ったのだと後で知った

飛行機は外国(アジア地域)の飛行機だった、こうして3泊5日の台湾旅行は実行されたのだった。

悪夢の様な16時間だった。

35年前の高速道が無い時代のお話