地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

風見鶏

2008年05月29日 | たまに詩人になります
さびしさかたどった言葉

つぶやいて

南の空に投げた

涙ひとつぶキラリ

星になって消えた

あんなに近くにいたのに

もう二度と会わないと

決めた

古ぼけた思い出


大好きだったあなたのおと。

転がるように生きる私は

いつのまにか

通り過ぎてしまったの

隣で最後まで

聞いていられなかった

あなたの鼓動を 生きる音を 寝言を 寝息を

かすれた声でささやく

「おはよう」を

月が明るすぎる夜の

かわいた足音を

缶ジュースを開ける

音が知らせた

この世界の静けさを

Tシャツの背中で

指がすべって止まる

二人だけの一瞬を

見ないふりをした

振り返る風見鶏


にじんだ夜の足音

2008年05月27日 | たまに詩人になります
愛するということ
ただ人を、愛するということ

家で帰りを待つということ
二つの心が一つに重なる夢を見るということ

海のように風のように朝日のように夕焼けのように
君を包むということ
君に包まれるということ

えんぴつの線が心もとなくて
私は今日も電車に乗る

コーヒーの香りに誘われて足を止めたとき
君の髪の毛を思い出したの

あのジーンズを、覚えていますか?
君が好きだと言った

もう戻れない青春の日々
そっと忘れて砂に閉じた

ピンク色の雲が旅路の終わりに
落としていったひとひらの言葉

これで最後ねと何度も繰り返し
舞い落ちる涙でかすんだひと夏の夢

今からどこに行くのかは
きっと海が教えてくれるよ

音が、君の息をふるわせた夜
みっともないくらいに、溶けていったぬるい情熱

からっぽの心に
吸い込まれそうになるけど

いつかまた会えると信じて
空にむかってでんぐり返しをしたよ

雨の匂いに紫に染まったまつげ
薄れゆくからだ、追いかけることもやめた

交差点で振り返ったら
明日が、ほら、あんなにくっきりと
苦笑いでウィンクしてる

見上げた空の星影は濃くて
君はきっと悲しいほどお天気

本当のことなんて、どこにもなくていい
ただ今だけ、君のぬくもりにまどろんでいたい

原っぱで横になったら、
世界の割れ目がいじわるな口を開けた

ちぎった花を放り込んで、
私が埋めてあげる

もうさびしくはない
ここはあそこで、今があの頃だよ

君に私の、手のひらをあげる
耳たぶをあげる 
額の片隅のふわふわのうぶ毛をあげる

愛するということ
太古の森に隠された真実

青春の影

2008年05月27日 | たまに詩人になります
君の心へ続く 長い一本道は
いつも僕を勇気づけた

とてもとても険しく細い道だったけど
今君を迎えに行こう

自分の大きな夢を追うことが
今までの僕の仕事だったけど
君を幸せにする それこそが
今日からの僕の生きる印

愛を知ったために
涙がが運ばれて
君の瞳をこぼれたとき

恋の歓びは愛の厳しさへの
かけはしに過ぎないと

ただ風の中にたたずんで
君はやがて見つけていった

ただ風に涙を預けて
君は女になっていった

君の家へ続く
あの道を
今足下に確かめて

今日から君はただの女
今日から僕はただの男

スーパーマーケットの魚売り場にて

2008年05月21日 | お仕事日記
かねてから私は、親しい人に
自分の奇しな行動についてカミングアウトしてきた。

私は、
スーパーマーケットの魚売り場で、
死んだままの姿を留めてパック詰めされた魚に、
値引きシールが貼ってあると、
いてもたってもいられず買ってしまうのだ。

魚も好きだし値引きも好きだ。

でも、この行動は、食欲やお財布の事情とはあまり関係がない。

目も口もうろこもひれもあって、
そのすべてがきちんと、種のDNA設計図に沿って
並んでいる。

おなかには内臓を感じさせるふくらみがあって、
ハラビレの付け根には
新陳代謝の形跡がうんちとなってついている。

生きていた証を全身にみなぎらせて、
そこに、いる。

値引きシールは、
それがもうすぐゴミになってしまうことを
示していて、
その事実が堪えがたくて、
せめて私の命につなぐために、買ってしまう。

一匹連れて帰ったところで、
氷山の一角なのはわかっている。

でも、出会ってしまったからには、放置することはできない。

この感覚が、生き物としてものすごく正しいという確信を
裏付けてくれる本を、愛さんがブログで紹介していた!
http://ameblo.jp/sunday0106/entry-10098763678.html

スゴい共有感!シンクロニシティ。

しかも著者は「アースダイバー」の中沢新一。

このシンクロニシティは、オーストラリアの先住民アボリジニの
精神に深く根ざした信条であり、民話でもある
「The Dreaming」を読んだ時にも訪れたものだった。

「はるか昔、偉大な先祖が何もなかったこの土地を旅して、
山を、川を、谷を、森をつくった。
そして、土からカンガルーを、ウォータードラゴンを、エミューを、人間を、つくった。
だから私たち人類にも、カンガルーのドリーミングやエミューのドリーミングが宿っている」

私が魚を放っておけないのは、私に魚ドリーミングが宿っているからなんだって、
すごくしっくりお腹におちた。
そういう当たり前の感覚を、みんなで信じていたアボリジニの聡明な文化に感動した。

たまたま今の時代に、科学信仰がのさばっているだけで、
それがすべてじゃない。
信じたことが、本当のことになるんだ。

Dreamingにはこんな有名な一節もある。

私たちが土地を所有するのではない。
土地が、私たちを所有しているのだ。

最後に、心でなく、頭の方のアンテナでキャッチした事実、を紹介します。

すでに、世界のいくつかの漁場が過剰な採取により消滅しました。
採取をやめるのではなく、さらなる漁業技術の進歩によって、
これまで穫られることのなかった深海魚を穫り、市場に並べています。

終わりはすぐそこに見えてる。
それなのに、見えているデッドラインを回避するどころか、
さらにスピードアップして、デッドラインに向かって疾走のスピードを上げている。
盲目的としかいいようがない。

シューマッハーさんが自然を資本ではなく所得として扱う
経済システムの根本的な誤りや持続不可能性を
偉大な著作「スモール・イズ・ビューティフル~人間中心の経済学」で
論じきってから35年も経つというのに、

自然を資本ではなく所得として扱うカンチガイはまだ続いている。





一目惚れ

2008年05月16日 | 読み聞き日記
また、やっちゃった。

白いあかりに誘われて
なにげなく入ったあの店で
ビビっときちゃった。惚れちゃった。

あの子は我慢できるけど、あなたは我慢できない。
だから一緒に、おうちに帰ろう。

そうやって、連れて帰った活字は数限りなく、
読みかけの本を数えることもとうの昔にあきらめて、
今日もまた、本屋のレジに”お持ち帰り”を積み上げる。
ああ快感。大人になってよかった。

しょうがないよ、だってどうしようもなく興味がわいちゃって
好きになっちゃったんだもん。
もう二度と、出会えない気がしたんだもん。


本日の収穫

ソトコト6月号 デザイン特集 
 いいわけ① 村プロジェクトに気鋭のデザイナーを巻き込みたい。その候補がいっぱい載ってる。しかもブラジルのエコ都市クリチバまで載ってる。だからこれは仕事のための資料
 いいわけ② 迷いながら持ち上げたら、中からチビコトが舞落ちた。表紙に「里山」の文字。里山って・・・私がこれから行こうとしてるところじゃん。なんていうタイミングなの!

ブルータス6/1号 サッカーは地球を救う&保存板 エコな名著101冊
 いいわけ① 私も取材した中田の+ワンアクションのことが出ている。しかも、同じ記者会見なのに写真の撮り方と使い方がさすがブルータス。
 いいわけ② 地球を考えるための101冊。ぜひ全部読みたい。

「白洲次郎の日本国憲法」鶴見紘 吉田茂首相の右腕としてGHQと対峙し、新憲法制定に深く関わった白洲は、日本国憲法をどのように考えていたのか。そしてその舞台裏ではなにがあったのか。白洲自身の手記/手紙、正子夫人をはじめ関係者への取材/証言をもとに、戦後復興の秘話と魅力ある人物像を描く。白洲ブームのさきがけとなった一作!
 いいわけ① 白洲正子の家は、私の理想の建築のひとつ。
 いいわけ② 前から白洲次郎は気になっていた。
 いいわけ③ 最近話題の日本国憲法がテーマ。

「誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義」松岡正剛
 いいわけ① 最近の思考でいつも引っかかる「で、資本主義って一体なんなの。自由ってなんなの。」の答えを見つけるヒントになりそう
 いいわけ② 著者が編集工学研究所所長でイシス編集学校校長。つまり編集者の先生。

さあ。シャワーを浴びてコーヒー豆乳をつくって、活字の世界に耽溺しますか。




エコじゃない宣言

2008年05月15日 | お仕事日記
先日、某出版社の編集者の方と顔あわせランチをした。

やっと戻ってきた初夏の日差しを浴びながら
辿り着いたのは神保町の定食屋さん。

お互いに自己紹介をしながら、
お仕事の簡単なバックグラウンドや
企画の方向性を
ふわっと話しあった。

1時間しかなくて、お刺身定食を味わう余裕もなく
一生懸命、
話を聞いて、それに応える形で私がしたいことを伝えた。

編集者さんは次にも打ち合わせが入っていたり
届け物もあったり携帯も鳴ったりして、
落ち着かない様子だったんだけど、
「近いうち、一緒にブラウンズフィールドに行きましょう」と言ってくれた。

「きっと、あの場所に行って話さないと
スカスカな打ち合わせになるんだよなぁ。」と
思っていたので、よかったよかった、と胸をなでおろし、
交差点でおじぎをして別れた。

会社に戻ってパソコンに向かったけれど、
ランチの終盤で、質問された言葉が心に引っかかっていた。
「浅倉さんは前から、エコな人なんですか?」

「そんなようなものなんですけど、"エコ"っていう言葉は、違うんです。
百姓は百のことを一人前にできる人だから、田舎で食べ物をつくって暮らすことは"スロー"でもないし、
"LOHAS"はそもそもマーケティング用語だから商業主義の匂いがするし・・・
LOHASがマーケティング用語になる前の"Cultural Creatives"が近いんですけど
英語っぽいし長くて深くて伝わりづらい。言葉を探しているところです」
と、結局よくわからないことをごにょごにょ言ってしまって、

「仮にもライターとしてやっていこうっていうのに、ドシロウトな返答だったな」
って反省した。

「エコ」って何だろうか。

エコを広辞苑で引くと、
*エコロジーは「生態学」「環境保護 自然保護運動」で、
エコロジスト(エコな人)は「生態学者」「環境保全運動家」。

エコな人、が指すのは、生態学者じゃない方だとして間違いはないと思う。

でも、環境保護と自然保護運動っていうのは、まったくもって私の考えと相容れない。

まず、「自然を保護する」なんて、おこがましいと、私は思う。
人間は、太陽の光をそのまま自分のエネルギーにすることができないから、
植物の光合成の力を借りて生きながらえている。
太陽の光も植物も光合成も、全部、自然。
だから、植物を食べて、酸素を吸って生きてる人間も自然。

自然とは、伐採される熱帯雨林や汚染される海だったり、
レジャーで行く森やビーチみたいな「対岸」にあるものではなく、
今ここにある体や、すぐそこにある空気。人間は自然の一部。

むしろ、人間は歴史の中で
どうにかこうにか工夫をして自然と折り合いをつけて生きてきた。
その折り合いの工夫こそが、先住民の狩猟採集生活であり、農業であり漁業だし、
細菌と戦った医療であり、力を合わせて生き伸びるための社会だと思う。

だから、「自然を守る」という言葉に含まれるどこかしら上から目線なニュアンスは、
どうにも的外れで、勘違いもはななだしくて笑っちゃうイタい感じだ。
私が広辞苑編集者だったら、「自然保護」は、トルツメしたいところ。

まあ、これは私の自然観で、
自然を、広辞苑で調べると難しい言葉でたくさん色々な捉え方が書いてあるから
試しに引いてみて下さい。

あ。でもそもそもNatureという言葉は、
西洋の森や海や川や野生動物を"対岸化"する思想から来ていて、
ムリヤリ日本語にしたのが自然だってことを考えると、
言葉自体が的外れなんだけど、それだと話が先に進まなくなっちゃうので
そこはとりあえず置いときます。
(江戸時代には自然っていう言葉、なかったんだって)

ここまでのところ、ひとまず私は自然保護な人ではないので、
やっぱりエコじゃないってことになります。

さて、環境を広辞苑で引くと
四囲の外界。周囲の事物。特に、人間または生物をとりまき、それと相互作用を及ぼし合うものとして見た外界。自然的環境と社会的環境がある とある。

人間は自然である。自然は人間である。というところから、範囲が広がった感じ。
自然と折り合いをつけて生きるために生まれた社会や、
意識という今なおナゾに包まれたものを持つ人間が感知する、他人や隣人という存在も含めた
人間を取り巻く自分以外の存在。

そういえば、
職場環境、ビジネスの環境、家庭環境・・・環境にも色々ある。

仕事仲間との、笑顔でランチできる関係も、
他にまだライバルがいない市場も、
妹が二人いるということも、
全部環境。もっとも、これらは社会的環境にあてはまるのかな。

じゃあ自然環境はというと、
自分が住んでいる場所の天候や風土、
食べてるものを育てた土、吹いてくる風、飲んでいる水の来し方行く末に
なるのかな。

そういうもの全部を保護するって、一体どういう意味なんでしょ?

まるでわからないから、"保護"をやめて、冒頭の広辞苑にあった「環境保全運動家」の方を採用してみよう。

「いい環境ををキープするために運動する人」っていうふうに言い換えてみるとどうだろう。
誰にとってのいい環境? いい環境って何?
私にとってのいい環境が、他人にとってのいい環境とは限らない。
隣人ですら、そう。ましてや海の向こうの人々なんて、まったく分からない。
人間という一種族にとってはいい環境でも、植物や動物にとってはいい環境じゃないかもしれない。
しかも、植物や動物にとっての悪い環境は、結局は巡り巡って人間に帰ってくる
だいたい、今の世代にとってのいい環境を追い求めてきた結果、このままでは残念ながら
後の世代にいい環境を残せないことが分かってきた。

という感じにまたしても果てしない。

そこで、勝手に、頭に「生き物が生きられる」をつけると、
だいぶすっきりしてくる。
「生き物が生きられる環境をキープするために運動する人」

時間や距離や種族の壁に隔てられた生きとし生けるものみんなが
絶滅しないで生き続けられる環境を追い求めていくこと。

ここまで絞ってやっと私の方向性とマッチしてきた。

環境と自然、保護と保全が一緒くたになったエコという言葉はやっぱり
"ピンぼけ"だ。でかすぎる。
(雑誌の特集企画会議で、あれもこれも全部盛りな企画を提案すると、「散漫」「大味」「ぴんぼけ」と一斉批判をくらうんだけど、エコはまさにそういう種類の言葉だ。)

というわけで、結論。私はエコな人じゃない!
じゃあ何?・・・ って、神保町の定食屋に戻りつつ、次回に続く。

ドロップアウト

2008年05月14日 | お仕事日記
ドロップアウトっていつのまにか、すごく古くさい言葉だ。

ちょっと前までの私にとっては、
幻想の、実現不可能な憧れとしての「自由」を連想させる言葉だった。

収入の保証はないけれど、ライター兼ウーファーとして千葉に行く。

そういえば、これはドロップアウトなのかも知れない。

ところが、私の核には手に触れられるほどの確かさをもって、
自然愛と、野心と、反骨精神がある。
今までの人生で何かを決めたとき、私の背中を押したのはいつも、この3つのどれかだった。

そいつらが、今また私を導いている。
私は、呼ばれて、右往左往しながら道を切り開く。
自分で自分の道を切り開くことそのものが、私をエキサイトさせる。
そして、人の優しさや温かさを知る。

声に応える方法として、描いた夢が、エコヴィレッジをつくること。
人間の動物的なサバイバル魂を呼び覚まして、生き生きと、生きるために生きる場所。

そこでは、土を汚す心配のない方法でつくられた食べ物を食べ、
空気を汚す心配のない方法でつくられたエネルギーを使い、
自分たちの体を使って建てた家に住み、
植物の力を借りる知恵を使って服を着る。

あるもので、暮らす。

別に目新しいことでもなくて、
ビル・モリソンさんという人がつくった
「あるもので暮らす」ためのパーマカルチャーという学問がちゃんとあって、
実践してる人もいる。

でも、学問があることや実践してる人がいるってことを知っているのと、
自分が実践するのはぜんっぜん違う。
だから私はまず、実践してる人のところに学びにいく。
(コーヒー中毒の私は、きっと、スタバに行きたくなる。)

無理な灌漑で地下水を枯渇させているアメリカに、
海底を破壊して魚を捕り尽くすはえなわ漁法に、
農薬で枯れない作物の種を、遺伝子を操作してつくって売るモンサント社に、
石油という戦利品のために戦争を起こしまくるアメリカに、
国の軍事力をかさに着て、貧しい国の人々を搾取するグローバル企業に、

堂々とNO!と言うために。

工業化による経済成長でお金をたっぷり持ち、
アメリカの軍事力のもとで
お金のちからで、自分の国にないものを、あるのが当たり前にして
日本人は
便利に快適に、楽しい消費生活を謳歌している。

でも、年に3万人も自殺していて、
6割(1000人以上の企業ではなんと98.9%)の企業で
心を病んで休職している人がいて、
アトピーの子どもが激増している。

そういう構造の恩恵をたっぷり受けながら、
NO!と言うのはカッコワルイから。

「ラブ&ピースな生活共同体をつくる」この発想って、60年代のヒッピーのもの。
理想に燃えて、インドのゴアに集結した。
暮らしは成功したけど、いつしか排他的になり、結局、変わり者集団のままだった。

だけどそれは、インターネット革命以前の話。
エネルギー革命の芽も、まだ土の中で眠っていた。

小さな、「場」をつくる。
足で歩ける広さで、
全員が全員の顔と名前がわかる人間関係。
チャットじゃなくて、面と向かって話をする。
オープンで、誰でも入ってこられていつでも出ていける。

ワクワクするね!





本当の幸せ

2008年05月11日 | お仕事日記
その「幸せ」、誰かに刷り込まれたイメージじゃない?
その「欲しい」、メディアに煽られた幻想じゃない?
その「満足」、遠くの国の誰かや未来の命を犠牲にしてない?

世界的な資源枯渇が問題になっているというのに
次々に"なんたらヒルズ"がつくられる。

人口爆発と食料問題がのっぴきならない状況になっているのに
テレビは飽きもせず食べ物をおもちゃにして、
食べ歩きとか大食いをネタにしている。

「満足」を売り、「欲しい」気持ちを満たして莫大な利益を上げてきた
電機メーカーや通信会社は今、「次世代の画質」「次世代の規格」の普及で
利益を上げようとしている。

不動産ディベロッパーもテレビ局も電機メーカーも通信会社も、
そこで働く勤勉な人々は、
目をつぶって、どこへ向かっているかわからないけれど全力で走っている。
科学技術の進歩がお金を生み、お金を持って何でも買えることが「幸せ」だと信じて。

目を少しだけ開いてみると、
今、日本は、グローバル資本主義経済のまっただ中にいる。

それはどういうことかというと。

近所のスーパーマーケットでバナナやコーヒーを買うと、
知らないうちに、
効率の名のもとに、伝統的で循環型の持続可能な自給自足生活を営んでいた人たちから
生活の糧である土地と自然を奪い、
安い賃金労働者として雇い、
農薬と化学肥料たっぷりの搾取的農法で環境と彼らの健康を破壊し、
貧困と環境破壊を生み出している企業に利益をもたらしてしまう。

ATMが多くて便利だから
メガバンクをお給料の振り込み口座にすると、
知らないうちに
そのお金が命を奪う兵器を売って
儲ける企業の事業の元手になってしまう。

それが、日本で暮らす毎日の現実。
そのことに気付いたのは最近だ。

もっと便利に、もっと豊かに。
戦争に負けて焼け野原になったところから、
まずは食べ物に困らない生活を求め、
次に、冷蔵庫と洗濯機とテレビのある生活を求め、
「いつかはクラウン」を夢見て
日本人は頑張って働いた。

そのときはきっと、
科学技術の進歩がお金を生み、お金を持って何でも買えることが「幸せ」だった。

外国から資源を買い、加工して売る貿易に労働力と資本を集中させたことで、
国際競争力のあるモノを生産する力をつけて、お金が増えていった。

お金が増えると、外国から色々なモノを買うことができるようになったし、
そのお金を元手にして、もっと色々な種類の、もっとたくさんのモノを
生産することができるようになった。

そうやって生産されたものを消費する側にもお金がまわった。

食べるものにも困っていたのに、
いつの間にか、家電を持ち、自家用車を持ち、海外旅行に出かけられるようになった。
高級品だった卵やバナナが安く手に入るようになったり、
ブランドものの洋酒やバッグがお店に並ぶようになった。
お金で買えるものがどんどん増えて、
便利で楽しくて、それがみんなにとっての幸せだった。

お金って便利。

日本経済がピンチの時は、いつもアメリカが助けた。
復興に必要な石炭産業を復活させるための重油はアメリカが援助した。
貿易に必要な為替レートを決める時も、実力より60円も円安に設定して
有利なようにした。
見返りは、東西冷戦で軍事的にもイデオロギー的にもアメリカ側につくこと。
そして、アメリカ軍が基地を持つことを認めることもまた、
国防に使う資金を経済成長に振り向けることにつながった。

だから、アメリカが貿易赤字を解消するために
円高政策を求めたとき、そのまま従った。
そのための不況を解消するために金利を下げ、
大量に出回ったお金が、不動産と株に集中した。
みんなが欲しがるものが高くなる仕組み。

余っているのはお金だけじゃない。
時間も余った。

安いエネルギー、地球の生命維持システムへの影響は無視していい、という
前提が崩れはじめた。

競争が厳しくなってきた。
国際競争力の名の下に、労働力の選別が行われはじめた。
ジニ係数が上がり、貧富の差が激しく

工業ばかりやっている内に、
食べ物をつくる産業は外国に明け渡してしまった。

食べ物に困らずにここまで生きてこられたのは、
親とその前の世代のおかげ。本当にありがとう。

でも、今の社会にはNOと言わざるを得ない。
だから、言葉でNOを言う代わりに、
「本質的に、自分を生かしてくれる自然や環境に向き合って責任を持つ」
という暮らしをしたい。
誰もがそれをできるモデルに、まずは自分がなりたい。

いざというとき、お金を食べることはできない。

無尽蔵の太陽光を電気に変える分散型発電があれば
石油をめぐる戦争に加担しなくてすむ。

戦争は、
侵略と抵抗
イデオロギーの対立

戦争を可能にしているお金の流れを止めるには、
途上国の政治的腐敗からくるブラック経済を排除すること
戦争で市場を得るグローバル企業の商品を買わないこと
資源を奪い合う必要がないようにすること 侵略と抵抗
貧困をなくすこと


いつのまにか、
「もうこれぐらいでいいよ」と誰も言えなくなってしまった。

食べ物を輸入して、その2割を捨てるようになってしまった。

1400兆円の個人資産を持ちながら、
年間3万人も自殺している

効率とスピードを優先する暮らしの中で、
失ってきた幸せをを取り戻したい。



カッコいい男たちのカッコいい言葉たち

2008年05月10日 | お仕事日記
思想はほとんどの場合、社会の情勢とは悲劇的に対立する。
しかし、その対決で世界は充実していく。それが"思想"なんだよ。
ほんものの思想だったら、情況はどうあれ、
そんなにかんたんにコロコロと変わるものではないはずなんだ。
                         ー岡本太郎

以下、種まき大作戦 「趣旨」と「建白書(抜粋)」
                ー種まき大作戦WEBサイトより

2007年。藤本敏夫氏がこの世から去ってちょうど5年。
彼は亡くなる間際、「持続可能な循環型田園都市」構想を、
国に、私たちに残してくれました。

「食」の不安、「農」の危機、それを支える「環境」の破壊、広がる「格差」の絶望がますます叫ばれる2007年こそ、
まさにジャストタイミング。
藤本敏夫の思い、彼の描いた構想をわたしたちが受け継ぎ、
「新しい国」、「本当の社会」をつくりたいと思います。
未来への「希望」のために。

 2007年、わたしたちは「農的幸福=土と平和」というキーワードのもと、「団塊の世代」と次世代をつなぐ「団塊Jr.」のみなさんの力を結集させ、
前代未聞の「農」ムーブメント「種まき大作戦」をはじめます。
ぜひ参加ください。

建白書 藤本敏夫

■ 時代と国民が期待する農林水産省の役割

 農林水産省、および農林水産大臣が国民に正面から語らねばならぬことを
不遜ながら短くまとめれば、
以下のように言えるのではないでしょうか。
「”健康と環境”を保全する”持続と循環”の仕組みを持った農業と地域社会を
創り上げ、”公開と公正”に基づく国民的合意の中で、
日本及日本人の”自給と自立”を達成すること」

 さらにもう少し具体的に私見を色濃く交えて提案させていただければ、つぎのように言えるでしょう。

「プロの農家の「エコファーマー」としての再構成と、
国民・市民の「ウェルネスファーマー」としての登場を通じて、
21世紀型地域社会「持続循環型田園都市」と21世紀型生活スタイル「里山往還型半農生活」を創造すること」「農業」を中核に据えた日本の地域社会づくりと「農的生活」をベースにした、日本人の生活設計が農林水産省の目指すべき目的・目標だといえましょう。

  今こそ21世紀の希望を行政目標として、そして個別政策として語ることが必要なのだと確信するものです。

■ 健康・教育・環境・レジャーに対応する農業の多様な価値を担う「ウェルネスファーマー」

「ウェルネスファーマー」という言葉は、農民でなかった人が新規に就職したり、他に定職を持ちながら農業にも携わる兼業農家を目的に志したり、まったく趣味として農的生活を楽しむ人を目指してつくられた造語です。
 専業農家の急速な減少と高齢化により担い手を失いつつある日本農業にとって、就農希望者を広くリクルートする環境整備はとても大切です。
 そのためには一直線に生産農家となるための手立て、方法の国民的な提示も必要ですが、「自然に親しみたい」「農作業を楽しみたい」という農的生活への興味と関心を多種多様に汲み上げプロ農家を支える広い裾野をつくることも考えねばなりません。
「ウェルネスファーマー」は子どもたちの生命教育、家族の健康など生活者の直面する問題解決のために国民生活の中に農的世界を導入して、「健康」と「環境」を保全するライフスタイルであるといえます。したがって農林水産省としては、日本国民全員が何らかのかたちで「ウェルネスファーマー」となるように提唱してゆかなければなりません。

■ 国民的規模での「ワークシェアリング」に貢献する「ウェルネスファーマー」

21世紀の希望を語る世論形成の土俵づくりを、農林水産省が「正面きって」提案することが時代そのものから要請されています。
 農林水産省の「正面きっての提案」の一つは現在、合理化・リストラの大波を受ける労働界で論議されている「ワークシェアリング」に対する受け皿としての「ウェルネスファーマー」の役割です。
 趣味の園芸からプロの農家までの幅で国民・市民と農業との関係を取り結ぶ機会を提供する「ウェルネスファーマー」を「もうひとつの労働」「もうひとつの社会参加」と位置づければ、会社を離れざるを得ない立場の社員との協力関係を組織的に明確にした「ワークシェア」としての「ウェルネスファーマー」を具体的に構想することができます。
 5名から10名の「ウェルネスファーマー」のチームが里山里地に定住・半定住・往還(言ったり来たり)し、地元生産農家の指導を得て、元同僚の社員がサポーターとして購入する。
 そのような小さな動きでも日本国民のある程度の人々が参画すれば「生活農業化運動」「国民皆農運動」となって、21世紀ライフスタイルをつくり出すに違いありません。

※この建白書は 2003年、当時の農林水産大臣大臣に提出した文書です。