地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

秋が来た。

2011年09月23日 | 梅月荘の思い出
秋は人をセンチメンタルにしますね。
こういうの書くとまた、いろいろを知ってる人々に心配をかけそうですが笑
書けちゃったので、載せちゃいます。


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秋が来た。

涼しさは目の奥を明晰に冴えさせ、
夏に溶けていたものごとの輪郭が、細く濃い線で描かれた絵のように
くっきりと刻まれて見え始める季節。

あの秋。

海の色は群青に深まり、乾いた風が高く晴れ渡る空を
軽やかに吹き抜ける秋。

海水はまだあたたかく、夏の狂乱を終えた砂浜が
ホッと一息つくころ。

私たちの、勝負の時がやってくる。

 全日本学生ボードセイリング連盟は、11月に控えた全国大会を前に、支部選考会を開催する。通称「支部戦」は、学連セイラーにとって学年末テストみたいなものだ。ふだんから練習をしている者にとっては、地道な努力の積み重ねに審判が下る日。ふだんさほど打ち込んでいない者にとっても、通らないとなんともバツの悪い日。だから支部戦前の海には、最後の追い込みをする選手に、申し開きのための一夜漬け練習をする選手が加わり、セイルがあふれる。

「カツカレーが食べたい。」

私たちは、つき合う直前で、それは支部戦の前夜だった。
白くて四角くて大きくて、ドアを閉めるとやたらと大きな音がする、中古のバンに乗って、湘南のどこかを走っていた。
彼は、正直なところ、海で費やす時間のわりに結果が出ないタイプで、
支部戦に通るかどうかは五分五分だった。
私は、それでも、支部戦の前夜、という特別な夜に、彼と一緒にいるのが私だってことにウキウキしていて、ウキウキしながら、レースの結果を案じて緊張していた。

珊瑚礁というカレーの有名店で、カツカレーを食べられるかどうか、私たちは知らなかった。超貧乏学生だった私たちにとって、ガイドブックに載らないことのないレストランなんて、壁の向こう側の世界だった。もとより、若くて大いに気負っていた私たちにとって、ヨソモノが並んで入るオーシャンビューのデートスポットなんて、邪道ですらあった。私たちの主食は、あくまでも路地裏の伊藤牛肉店であり、給食のおばちゃんみたいなおばちゃんが盛ってくれるバニー弁当だった。

でも、その日は特別だった。
「珊瑚礁に行く?」と言い出したのがどちらだったかはもう覚えていないけれど、私たちはあっという間にそのアイデアに夢中になった。不思議とその夜に限っては、ごはんを食べるのに一番ふさわしい場所に感じられたのだ。そして、たぶん104で調べた番号に電話をし、カツカレーがメニューにあることを突き止めた。

場違いな、私たちだったと思う。1999年の今ごろ、たいまつが焚かれたテラスのカップルシートで、ウィンドサーフィン三昧の夏にたっぷり日焼けをした2人の若者が、浮かれた様子で目をキラキラさせながら、初めて文明に触れた原始人のようにメニューを読んでいたはずだ。

あれから12年経った今でも、彼が夢中でほおばっていたカツのお肉が、やけにピンク色だったことを覚えている。

今誰かとデートをすることになって、その行き先が珊瑚礁だったとしても、あれほど浮かれることはないでしょう。こうして、手のひらからもうあらかたこぼれ落ちてしまった時のかけらをぼんやりと拾い集め、思い出に身を浸す秋が来ることなんて、想像もしない私がそこにいたのです。

材木座回想録。

2010年12月14日 | 梅月荘の思い出
やっぱりあの、鎌倉材木座海岸でのすばらしきウィンドサーフィンの日々は、
異常なほどに濃密だった。
宇宙のすみずみに散らばった光を、1箇所に集めたかのように
強烈な光を放って、今なお、まばゆいばかりに美しい。
あれほど濃密な青春を過ごせたことを、生涯、胸をはって自慢したい。

特別だった。
私と仲間たちは、私と仲間たちにとって、特別な存在だった。
自分と仲間の間の別の人間であるという現実の境界線は、
情熱と灼熱の太陽と夢が溶かしてしまった。
そのかわり、自分たちとそれ以外の人たちとの間には、神様でも超えられない深い谷があった。

純粋だった。言い訳を知らない、折れない心。
自分の正しさを、がむしゃらに信じ切っていた。
純粋でいられたのは、無知だったからだ。
無関心であることを、許されていたからだ。
大人のバランスなんて、かっこわるいと思ってた。
夢中だった。だからたくさん傷ついた。

大人になったらなったで、
いいことだってある。
起きることや出会う人のすべてをポジティブにとらえ、
栄養にするしたたかさが身についた。
ものごとのよしあしを、短絡的に判断しない賢明さも。
今、ここを生きることと、自分という個の存在の尊さを知った。

26歳になったころ、
仲間たちが、境界線の向こう側に行ってしまう背中を、
黙って見つめた日々があった。
何かが少しずつ、でも決定的に、それまでとは違ってきていた。
あんなにも親しげだった思い出からの通信が、
ときおり途絶えるようになった。
青春の足音は、ノイズで聞こえづらくなった。
追いすがることは、とうてい無理だった。
やがて、背中は見えなくなった。
あるいは私が、見ることをやめたのかもしれない。
途方に暮れ、うちひしがれ、人情味もなく過ぎゆく時間を恨んだあと、
私もまた、歩き始めた。

学連imcoセイラーの春夏秋冬-春編その2-

2008年05月07日 | 梅月荘の思い出
私の場合を白状すると、入部の動機は至って不純なものだった。

理由その1 イッコ上の男の先輩4人がカッコいい。
理由その2 練習場である鎌倉材木座ビーチがうちから近い。

前者は置いといて(笑)
それまで、諸事情により退寮になったせいで
神奈川の南のへりから東京の西の外れまで
片道2時間かけて高校に通っていた。
だから、
「地元にベースができる」というのはとっても魅力的なことだったのだ。

このときは知る由もなかったことだけど、
私は、自分をウィンドの世界に引きずり込んだ
(私が勝手に引きずり込まれたんだけどね)
"カッコいい先輩"のうちの一人と大恋愛をすることになる。
人生何があるかわからないのだね。じつに。

勧誘されたわけでもなく、
奈々絵の「海系のいい感じのサークルあるよ。ウィンドサーフィンだって」
という言葉に乗っかって自らブースに吸い寄せられた私。

今登場した、「奈々絵」というのは高校の仲良しグループ友達。
同じように寮生として入学して
同じように退寮になって、
家が同じ方向ということもあって飽きるほど一緒にいて、
もう飽きたと思ったら、大学も同じになってしまったクサレ縁だ。

いざという時の自己主張と押しの強さが持ち味なので
やや敵を作りやすいけど、
一対一では相手の空気に敏感な賢い女子。

結局一緒に入部して、サークルまで一緒なの?とまわりに呆れられた。

でも、私がレースにハマって行く一方で
彼女には、「順位がつく限りは1番になりたい!」という類いの競争本能は
備わっていなかったらしい。

2年の終わりには正規練には来なくなり、
サークルを辞めて大学も中退した。

それはさておき。

トントン拍子に試乗会まで行き、
あまりにも全く、ウィンドサーフィンらしいことができなかった
記念すべき4月の日曜日、私の海狂い人生が始まったのだ。

初めて道具に触り、波打ち際でボードに乗る。
海面に倒れているセイルを、ブームから垂れ下がっているロープ
(アップホールラインという)を使って引っ張りあげる。
うまく上がって、マストがボードに対して垂直に立ったら
ロープからブームに手を移し、垂直状態をキープする。
この状態のとき、自分の立ち位置は、
ボードとリグ(セイル+マスト+ブームがセットされたセイル部分の総称)をつなぐジョイントの両側にあり、真上から見るとセイルはボードに対して垂直に開いている。
次の段階で、開いているセイルを、ボードのほうに引き寄せると、セイルが
風を推進力に変えて、ボードが走り出す。
そのためには、セイルを落とさないように支えながら、
自分をしかるべき位置に移動させ、体重を使ってセイルの角度をコントロールしなければならない。

以上のことを、風にセイルをなぶられ、足場であるボードを波に揺らされながら
こなすのだ。

セイルは重いし、何もできないし、
雨でも降っていれば4月の海はまだまだ冷たい。

そんなわけで、せっかく可能性に満ち溢れた貴重な土曜日に
電車を乗り継いで鎌倉くんだりまで出かけ、
試乗会に参加しても、ここでほとんどが脱落する。

私はというと、ボードから落ちたりこけたりして
よろよろしたりしている間に、
「これに乗れるようになりたい」「なんかアツそう」
という感情が相模湾上空から下りてきた。

単純に、「道具を携えて海に出る」という行為が、
たとえ使いこなせなくても、
自分にとって最高に楽しいということを
察知したのかもしれない。

冒頭で書いた通り不純な動機も多分にあったけど、
これから始まる大学生活に、完璧にワクワクできる未来が見えた。

新歓の流れとしては、GW中に艇庫セブンシーズで行う1泊2日の新歓合宿までに
入部するかどうかを判断する決まり。
私は4月の半ばにはもう心を決めていて、
あとは、30万円をどうやって親にねだるかだけが問題だった。

実際のところ、その年、つまり1998年度は
二男目当てのトントン拍子シスターズが
大量にいたし、そのうち5人は30万円の道具を買って入部した。
男子も2人。
7人のヒヨコたちは、それぞればらばらなテンションで、
お互いに興味を持つよりも、ウィンドの技術を上達させるよりも、
先輩たちと早く仲良くなりたい気持ちが
先行していたような気がする。

サークルとしての、結束の固さを感じたし、きちんと目指す目標がある適度な緊張感があった。
そして体育会系ド根性ではなく、センスとおしゃれ感のある
キラキラした先輩たちが、私たちヒヨコを迎えてくれたのだ。


学連imcoセイラーの春夏秋冬-春編その1-

2008年05月07日 | 梅月荘の思い出
学連imcoセイラーの1年は、新歓で始まる。

「新入生を入れる」=「仲間を増やす」というワクワクなイベントだけど、

我らがソフィアウィンドサーフィンフリートへの入部条件は、
いきなり30万円のウィンド道具一式を買うことと、
毎週日曜日に必ず鎌倉に来て練習をすること。

とにかくいろんなこと楽しみたい!素敵な人と知り合いたい!
イケてる大学生になりたい!的な浮かれ具合の
フレッシュマンは、かなりの確率でドン引きする。

(最近は就活サークルみたいなのが人気らしい。
一体何をするの?大学一年生から就職のために貴重な時間を費やすなんて、
絶句もののバカさ加減だと思うのは私だけ?)

一回ハマっちゃえば、日曜日の正規練じゃ足りなくなる。
土曜日はもちろんのこと、平日午前中の授業のあと(!)とかでも、
四谷から鎌倉に駆けつけて自主練に行っちゃうおばかさんになる。

道具代も、30万円で十分ドン引きだけど、
実際にはたやすく折れるバテン(セイルのかたちを支えるあばら骨的な棒)が1本3000円もするわ、
セイルが破れた日には万単位でお金が出て行く
超カネ食いスポーツだったりもする。

でもそんなことはおくびにも出さず、
まず新宿での飲み会、そして鎌倉での試乗会に連れ込むことが、
新入生獲得の第一ラウンド、
メンスト(上智大学北門から伸びるメインストリート)においての目標なのだ。

ところで新歓は、学校側の決めごとで3日しかない。
ありとあらゆるサークルや部活が会議室机を並べ、
そこで待ち構えるお留守番以外のメンバーは
遠征スカウトに出かける。

年に一度きりのチャンス。
勧誘する側される側が入り乱れる、竹下通りばりの人ごみから、
未来の海女、海男を発掘するのだ。

ちなみに、1学年に6人いれば多い方という
スモールイズビューティフルなサークルだったので、
1回新歓を外すと部の存続に怪しい雲行きとなり、
2回連続で外せばかなり危機的状況になる。

だから、結構必死。

とはいっても、手当り次第に声をかけると、
こっちだって大して魅力感じてないヤツに
「あ。おれ塩がダメなんで」とかいう意味不明な断り文句と
根拠のない上から目線で断られ、イラッと神経をすり減らすだけ。

欲しいかどうかと入りそうかどうかの両方を見極めて一本釣りした方が、
結局はハッピーな結果をもたらす。

一番のポイントは、地に足がついてて何か一つのことに打ち込めるかどうか。
そうじゃないと、どうせ入らない。

釣れやすい漁場は、めったにいないけど、元ヨット部。
またはなにがしかの部活経験者、そして帰国子女・外人。

余談だが、ウィンドサーフィンは日本よりも海外で知名度と浸透度が高い上に、
上智は比較文化学部を中心に外人と帰国子女が多めなので、
毎年外国人が一人は、試乗会まで到達する。
そして、同じ艇庫の武蔵大学お祭り人間集団の格好のネタになるのだ。

以上のことをふまえた上で、
服装、顔の座り具合、目つき、体格、派手さ加減とかを見て、
全体で判断して声をかける。

消去法も有効。
ウィンドサーフィンと言いながら
競技自体は「ヨットimcoクラス」なので、サーファーは案外畑違いだ。
それに、すでに海を知っていてサーフィンに情熱を傾けてるタイプは、
根性あるからこそウィンドサーフィンに浮気をしない。

色黒でも、キレイめイケてたい系はイベントサークルへどうぞ。
ファッションが裏原系だと合宿所を見て引きそう。
色白だと日焼けが苦手そう。
地味過ぎるタイプは、あんまり触手が動かない。・・・・・と
学校の構内を歩き回りながら次々と×がつく。

やっとこさいい感じの子を見つけ、
「海好き?」「ウィンドサーフィン興味ある?」
願うような気持ちで呼び止める。
ポジティブだったらそのままブースへ。
楽しげな写真ばっかり集めたアルバムとか、誰かがレースで入賞した盾を見せたり、
応援に来てくれた他大の仲間にしゃべらせて、「他大に友達ができる」アピールをしてみたり。
ノートに名前と連絡先を書いてもらう。
その場で飲み会や試乗会に来ると決めた子の名前の頭には、印がつく。

ひたすら繰り返し、足も喉もヘトヘトになったころに、一日が終わる。




風が吹き抜ける場所

2008年04月30日 | 梅月荘の思い出
商店街から薬屋さんの角を曲がると、
人が二人並んで歩くのにちょうどいいくらいの幅の
路地に入る。

夕方になると、古い平屋の木造家屋からお味噌汁の香りが漂い、
そのことは裏道を通る地元の人だけが知っている、そんな場所だ。

全部で60mほどしかない道のちょうどまんなかあたり。
そこだけ胸くらいの高さに盛り土がされていて、
梅月荘は、その上に建っていた。
私たちが合宿所と呼んでいた103号室は
1階の道に面した角部屋で、正面に腰高窓、道から見た左側面にもはき出し窓があり、
右側面の玄関ドアを開ければ3方向から風が通る。
とは言っても入り組んだ路地の中のこと。
オープンで心地いい高級ヴィラのデッキにはほど遠く、
でもどこか開放感のある部屋だった。

冷暖房は、ほこりだらけの扇風機と、
オーブントースターの熱源が10本くらい並んだ電気ヒーターだけ。
だから、夏はキャミソールやタンクトップから出た
生手足を惜しげもなく蚊の猛攻にさらし、
冬はダウンジャケットや寝袋にくるまって寝るのが当たり前だった。

ここで、毎週日曜日の「正規練」と呼ばれる全員集合の練習の後、
この合宿所の中で輪をつくり、一人ずつ順番に今日の練習の反省を言う
「ミーティング」が行われる。

冬のあるミーティング中、突然電気ヒーターから黒い煙が上がった。
全員が火元に注目すると、そこにいたのは天然キャラのTM(♀)。
決まり悪そうに、ヒーターのカバーのもようにこげた、白いダッフルコートのすそをたたいている。
150cmしかない彼女が、160cm以上ある妹と一緒に使っているロングコートの、
さっきまで地面に引きずりそうになっていたすそだ。
みんながいっせいに彼女のコートに視線を移すと、
食パンだったらちょうど食べごろ、というぐらいこんがり焼けて茶色になっている。
ありえない。
「ありえない!」「大丈夫?」「なんで?」
みんなが絶句して、それぞれがあきれたり心配したり爆笑したりする中、
本人は人間に囲まれた子犬のように上目遣いで顔を見渡した。
その後、無言で体育座りに丸まって小さくなってしまった。
一瞬表情がこわばったので、泣き出すのか?!と肝を冷やしたりもした。
ありえないことをやってのけるのが、まぎれもない天然キャラなのだ。
その年に流行っていた、(つまり買ったばっかり)フリース素材のかわいい白いコートが
再起不能になるかわりに、TMはサークル内のキャラクターを不動のものにしたのだった。

ミーティングにまつわるエピソードは他にもあるけど、それはまた今度。

さて、合宿所には、まくらがない。
なぜかというと、あそこに置いてある布類には、
さすがに顔を直接つける気にならないからだ。

合宿所は基本的に誰のものでもなく、だから全員が無責任。
例倉庫も炊飯器もテレビもこれ以上ないくらいぼろぼろで、
盗まれて困るのはプレステのソフトぐらい。
だから、夕方練習を終えて帰ると、布団や畳に猫が残して行った黄色いシミを
発見することになる。
「あ~また!」「誰だよ開けっ放しにしたの!」「最後に出たの誰?」とか
一応言ってはみるものの、前にもやったし、どうせまたやる。

それに、基本的にシーツとかカバーとかいう概念がないので、
夏にかいた寝汗は、そのまま布団が吸収する。
合宿所歴が長い布団ほど、蒸され熟成された匂いを放つことになる。
みんな一度は、自分の家から自分用のタオルケットや寝袋を持ち込む。
でも、あまりにもあっけなく合宿所の匂いになるし、
そうなるころには、自分も合宿所の一部になっているので、
「自分用のきれいな布団」という二度目のチャレンジをした人はいない。多分。

だから、少しでも心地よい眠りのために、合宿所に着いたらまず、
今夜の寝具を確保するのがセオリーなのだ。
その取り合いに、容赦はない。上下関係も、通用しない。















梅月荘103号室

2008年04月29日 | 梅月荘の思い出
ここに、一見鍵のような形をした、緑がかった小さな鉄のかたまりがある。

ある秋の日、
地主さんは、家賃3万2千円の風呂なし木造アパート「梅月荘」を解体することにした。
バカではない大学生だった私たちは、わりとあっさり、そのことを受け入れた。

「こんないい場所にたったの3万2千円ってありえないよね」
「なんで残ってるんだろう。地主さんお金なくて建て替えられないのかな」
「住んでる人がなかなかどかないらしいよ」
なんていいながら、どこかで予感はしていたからだ。

立ち退きの日、私は微風でもガタガタいう2枚の窓ガラスを
貫通させてくるくるまわして閉める鍵の貫通させる棒の部分を、
引きちぎって持って帰った。それが、この小さな鉄のかたまり。

今ここにあって、もうすぐなくなってしまう
兄弟のような空間の、時間と風と闇と空気を思い出せるように。
そして、鍵を壊しておけば、またここに来られると思ったから。

海まで歩いて3分。ウィンドの道具を置いている艇庫セブンシーズまでも歩いて10分。
近所には100mほどのちいさな商店街がある。
薊(あざみ)という中華料理屋や、アメリカ屋というおもちゃ屋、
そば屋に八百屋に米屋、しらす屋、魚屋、貸しボード屋、薬局。
魚屋の店先には水を張った大きな樽の上にまな板が渡してあって、
そこでいつもおばちゃんが何かしらの獲物をさばいていた。

夏の夜は甘い。そして、暑苦しい。
窓を開けっ放しにしてほこりのたまった扇風機をまわしても、
6畳に4人以上雑魚寝すると、さっきまで海水にさらされ、
セブンシーズでシャワーを浴びたばかりの髪や肌が
すぐにベタっとしてくる。
誰かがいびきをかく。寝言を言う。夏の虫がキンキン鳴く。
布団の中ではダニが元気いっぱい動き回る。
そんな時に妙に頭が冴えてしまったりすると、
まくらの湿り気が気になりだし、明日のハードな練習のためには
睡眠が必要なのに、眠れなくなってしまう。

そんなとき、浜に行く。
私たちはビーチのことを、浜と呼んでいた。
「海」では範囲が広すぎる。
艇庫も、レース会場も、海上の集合場所も、材木も逗子も坂下も、
全部海だから。
「道具を浜まで運ぶのが大変」「バーベキューは浜でやるから」
「バニ弁買って浜で食べよう」「もう浜に集合してるよ」

合宿所のある路地から商店街に出て、
左に少しいけばすぐに浜がある。
材木座海岸。と書かれた丸いバス停とベンチが右手に見える。
その頃は、海上に海水浴ゾーンを示すブイが打たれ、
昼間はパラソルとビキニが浜を彩る真夏でも、
夜は静かだった。
今みたいに、東京をそのまま持ち込んだみたいなやたらうるさい野外クラブも、
夜遅くまでやっているバーもなかった。

つかの間の休息をとる材木座ビーチ、じゃなくて材木の浜で、
闇に沈む海の家のデッキに座って、
えんえんと、浮かんでは消える白い波を眺めていた。
アイスなんかあると最高なんだろうけど、
一番近くのコンビ二まで歩くほどじゃない。
そして、アスリートのはしくれは、ビールなんて飲まない。
だから酒屋の店先の自動販売機でお茶を買って、一人で飲んだ。

スタッスタッと音を立てていたビーチサンダルを脱ぐと、
砂はひんやりと湿り気を帯び、
昼間の日焼けで火照った足の裏に心地よい。

そうしてしばらく波の音を聞き、
海岸線をふちどって坂の下海岸へと続く134号線のライトを
眺めていると、眠気が下りてくる。
そのままデッキで寝てしまうぎりぎりのところで起き上がって、
またスタッスタッと仲間のいる寝床に戻るのだ。

明日はどんな、風が吹くのかな?



プロローグ

2008年04月29日 | 梅月荘の思い出
映画「In Gods Hands」のラストシーン。
マウイ島の大波JAWSに散った親友を想って、
主人公がある質問をする。
「一緒にいるだけで心底笑いが絶えない。そんな仲間がいるか?」
列車の席で隣り合わせ、
質問を向けられた女性は、少し顔を曇らせながら首を横に振る。

「そうか。それは残念だ。僕にはいる」

私にも、いる。

鎌倉と呼ばれる古都。
都心まで1時間ということもあって、
休日には観光客が歩道をうめ、
次々と建てられるマンションが憧れの”湘南ライフ”を求める人々を呼び寄せる。

そんな中心部を横目にバスに揺られて、
海が見えるあの角を曲がり、
でこぼこ道を進んだその先に、梅月荘という今にも崩れそうな木造アパートがあった。

大学生だった私は毎週、
金曜日の夜にリュックに海道具をつめこんで、
101号室のカギがかかった試しのないドアを、ワクワクしながら開けていた。

これから始まる週末に、起こるすべてに期待して。

そんな日々のことを、小さなことから書こうと思う。
もう多くのことを忘れてしまった。
忘れるということに、ありがたみを感じるくらいに大人にもなった。
だから思い出した。
”あの頃”の輝きは、なんでもない星の数ほどのきらきらした瞬間が
時間とともにとけあってできた結晶。
結晶を眺めてうっとりするのもいいけれど、
忘れてしまうには惜しすぎる愛しい瞬間を
少しでも書き留めておきたい。やっぱり。

ウィンドサーフィン、正しくはヨットのimcoクラスでのコースレーシング競技に
夢中になっていた日々は、きっとずっと、
心の奥の宝箱に大切にしまわれ続ける。
そして時折、何かの拍子で記憶の海から浮かんできては、
私を幸福感と少しの喪失感で包みこむ。

その先の人生を、海から続く道をもうとっくに歩いている私の、原点。