私が16歳から18歳までの日々を過ごしたICU高校には、とある社会科の先生がいます。
コギャル小室安室華原globeスピッツジュディマリMisiaストニューな時代でした。
公民の授業で、ブルーハーツのライブ映像とか
ロボトミーをテーマにした社会派映画「カッコーの巣の上で」を見せてくれた、
相当ファンキーな東大出身の先生です。
去年久しぶりに連絡を取ったとき、私のことを、
「原始の風吹き抜ける大地(今は海上か←注ピースボートに乗ってたから)で、
つながってるような気を発するヤツ」
と表現してくれた、まあいわゆる、恩師です。
その先生に、「宇宙がなぜ人間をつくったかわからない」と書送ってみたら、こんな返事が返ってきました。
保存用にブログに転載。
第一弾
★そうか。お前は放浪者か!ブッダや画狂老人卍(葛飾北斎)のように、ふるさとを持たずに生きる!すばらしい!
★ところで、人間だけが、カオス(未知なもの)に理由を求め、意味を与える。
人間は世界に意味・価値・目的が見いだせないと生きてけない。
宇宙が人類を作ったことにも、理由は全くない。だが、その理由を探さずにはいられない。
それが、人間だ。
意味・価値・目的・理由のなさ(ニヒリズム)に耐えるには人間は知的すぎる。
知的=幻だけで生きていけてしまう。
★お前のようなNPO系放浪者の生活をしていると、非日常性のすばらしさがきわだつ。
非日常性が輝けば輝くほど、日常性が灰色化する。そこでまた、さらにより刺激的な非日常性へ。
この日常と非日常の分裂を、自分の身体・尾てい骨から貫き通すために、
僕は常々一瞬一瞬に、自分を「犬=獣」や意識を持たぬ物質である「石」や「植物」だとイメージする。さらに、9年前に心不全で倒れ今「植物」状態の元同僚の姿を思い浮かべることにしている。
また、ALSで一瞬の「まばたき」でしか会話できない人を思い浮かべる。「それに比べて自分はなんて恵まれてるんだ」じゃない。「今ここにあること」の根源へと碇を常に降ろそうともがいている。
★外部の本より、お前の内部の直観と身体感覚に耳を傾けるシステムを灰色の日常のまっただなかに、構築することが、意味・価値・目的・理由のない世界で生きる鍵だとおもう。
第二弾
★思考のからまわりが便秘となっていたのが、そこがすこんと抜けてすっきり、というところだな。
★前回の話をさらにまとめると、「今そこ」にいるお前の根底に「ものの曼荼羅(ブラックホール、ダークマターからお前が今足を踏みしめているタイル・ビルそれを支える大地)が広がり、
その上の層にお前の「からだの曼荼羅」(からだを構成する60兆個の細胞と1日3000億個の細胞の生滅)があり、さらにお前の頭を覆うように、「夢=幻の曼荼羅」界(これが、人間にのみ固有の言葉とイメージの世界だ)が積み重なっている。物思いにふける、考え事をするときは、下の二層を土台にしつつ(そのことを全く忘れて)「夢=幻の曼荼羅」のなかをさまよい歌い喜び嘆く。この曼荼羅は、「考える」ことでさらに緻密化し高度化する。だが。下の二層は「考える」ことを止めることでしか入れない。つまり、「考えるのではなく、感じる」ことでしか入り込めない。だが、われわれ人類は、普段感じることより、「考えること」のほうに浸りそれに喜びを感じる(そこでは、「悩む」ことすら、「考える喜び」となって考えることに呪縛される。)
★前回のメールで僕が日々一瞬一瞬やっていることとして紹介したのは、「考えない」で「感じる」方へと次元をずらすためのしかけということになる。
コギャル小室安室華原globeスピッツジュディマリMisiaストニューな時代でした。
公民の授業で、ブルーハーツのライブ映像とか
ロボトミーをテーマにした社会派映画「カッコーの巣の上で」を見せてくれた、
相当ファンキーな東大出身の先生です。
去年久しぶりに連絡を取ったとき、私のことを、
「原始の風吹き抜ける大地(今は海上か←注ピースボートに乗ってたから)で、
つながってるような気を発するヤツ」
と表現してくれた、まあいわゆる、恩師です。
その先生に、「宇宙がなぜ人間をつくったかわからない」と書送ってみたら、こんな返事が返ってきました。
保存用にブログに転載。
第一弾
★そうか。お前は放浪者か!ブッダや画狂老人卍(葛飾北斎)のように、ふるさとを持たずに生きる!すばらしい!
★ところで、人間だけが、カオス(未知なもの)に理由を求め、意味を与える。
人間は世界に意味・価値・目的が見いだせないと生きてけない。
宇宙が人類を作ったことにも、理由は全くない。だが、その理由を探さずにはいられない。
それが、人間だ。
意味・価値・目的・理由のなさ(ニヒリズム)に耐えるには人間は知的すぎる。
知的=幻だけで生きていけてしまう。
★お前のようなNPO系放浪者の生活をしていると、非日常性のすばらしさがきわだつ。
非日常性が輝けば輝くほど、日常性が灰色化する。そこでまた、さらにより刺激的な非日常性へ。
この日常と非日常の分裂を、自分の身体・尾てい骨から貫き通すために、
僕は常々一瞬一瞬に、自分を「犬=獣」や意識を持たぬ物質である「石」や「植物」だとイメージする。さらに、9年前に心不全で倒れ今「植物」状態の元同僚の姿を思い浮かべることにしている。
また、ALSで一瞬の「まばたき」でしか会話できない人を思い浮かべる。「それに比べて自分はなんて恵まれてるんだ」じゃない。「今ここにあること」の根源へと碇を常に降ろそうともがいている。
★外部の本より、お前の内部の直観と身体感覚に耳を傾けるシステムを灰色の日常のまっただなかに、構築することが、意味・価値・目的・理由のない世界で生きる鍵だとおもう。
第二弾
★思考のからまわりが便秘となっていたのが、そこがすこんと抜けてすっきり、というところだな。
★前回の話をさらにまとめると、「今そこ」にいるお前の根底に「ものの曼荼羅(ブラックホール、ダークマターからお前が今足を踏みしめているタイル・ビルそれを支える大地)が広がり、
その上の層にお前の「からだの曼荼羅」(からだを構成する60兆個の細胞と1日3000億個の細胞の生滅)があり、さらにお前の頭を覆うように、「夢=幻の曼荼羅」界(これが、人間にのみ固有の言葉とイメージの世界だ)が積み重なっている。物思いにふける、考え事をするときは、下の二層を土台にしつつ(そのことを全く忘れて)「夢=幻の曼荼羅」のなかをさまよい歌い喜び嘆く。この曼荼羅は、「考える」ことでさらに緻密化し高度化する。だが。下の二層は「考える」ことを止めることでしか入れない。つまり、「考えるのではなく、感じる」ことでしか入り込めない。だが、われわれ人類は、普段感じることより、「考えること」のほうに浸りそれに喜びを感じる(そこでは、「悩む」ことすら、「考える喜び」となって考えることに呪縛される。)
★前回のメールで僕が日々一瞬一瞬やっていることとして紹介したのは、「考えない」で「感じる」方へと次元をずらすためのしかけということになる。