地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

【本】大河の一滴

2009年03月29日 | 読み聞き日記
五木寛之の「大河の一滴」を読んだ。

内容は、人間の奢りをいさめる文明批判。にとどまらず、人間という存在を宇宙のものさしで測り、その小ささを大河の一滴になぞらえる筆者の思想・生き方についての指南が語られたエッセイだ。

読んでいてふと、思い出したことがある。

あれはちょうど7年前、私は
ハワイイ・マウイ島南部に位置する世界的サーフポイント
ホノルアベイにいた。

その日も、えぐり取られたような海岸線と、リーフで形成された海底の地形はその実力を遺憾なく発揮し、プロ級未満の波乗りを寄せ付けないブレイクがつぎつぎと炸裂していた。

私はそこで、プロ級のローカルサーファーたちすら避けたトリプルオーバーの波をぎりぎりの場所で超えそこね、リップから海底にたたきつけられたのだ。

せり上がり、視界を奪いながら襲いかかってくる山のような水のかたまりは見たことのないサイズと迫力で、
その後にやってくる衝撃の激しさや水中で呼吸を止めなければならない時間の長さも想像がつかなかった。

もう間に合わない。巻かれるしかない。

恐怖でこわばった体は、一瞬の静寂ののち、大洋のはるかかなたから旅をしてきたうねりの崩壊に吸い込まれた。

吹き飛ばされ、もみくちゃにされ、でんぐり返しをしながら海底まで突き落とされる。永遠とも思える怒濤の後、音のない薄闇の中、右肩のあたりにリーフがこつんと当たった。

上部の水たちの暴走が届かない海底で、ようやく自分の体のコントロール権を取り戻した時、すでに肺にはわずかばかりの空気しか残されていなかった。

一瞬で、千々に乱れ舞い上がった心を、ストン、とまとめ、静かに確実に海面を目指す。

口と鼻を最優先に浮き上がらせるために顔を真上に向け、思うように動かない腕で水をかく。
そして、水面に達したと同時に、真空状態の肺にがむしゃらに空気を送り込んだ。

陸が見えた。

なんとか、空気のある世界に生還しても、まだ油断はできない。

後ろを振り返る。

今の波に巻かれたことで、私は、波がブレイクする地点よりも沖の安全地帯から、
割れた後の波が暴れる地帯へと運び出されているはずで、
そこに次のブレイクがやってきたら、あっけなく再び、水が支配する世界に引き戻されるのだ。

ところが、次の波は、来ていなかった。

今でも、あのときの安堵を覚えている。

私は、生きていた。

なまなましい生の実感があった。

風に舞い上がる木の葉のような、自分の体に対する心もとなさに震えながら、
なんとかビーチまでパドリングし、岩だか砂だか忘れたけれど、
とにかく大地を踏みしめ、適当な岩を見つけて座り込んだ。

ドクンドクンと波打つ心臓も、言うことを聞かない手足も、
私はもてあましていた。

ただ、うぶで柔らかく、傷つきやすい自分という魂の存在を強く感じていた。
それは、今の波に巻かれたことで、一度奪い去られ、なんとか戻ってきたのだという実感だけがあった。

その後、1時間ほどただ海を眺めてボーーーっとしていた。相当、遠い目をしていたと思う。
繰り返しやってくる波を、プロ級のサーファーやボディボーダーたちが嬉々として滑り、駆け抜けていくのが、ぜんまい仕掛けの人形劇のように感じられ、どこか現実感がなかった。






人間は小さい。命には魂がある。
そのことを体で知ったできごとだった。






分を知り、自然の摂理に逆らわない生き方を望んでいる今の私は、
もしかしてあのとき、かたちづくられたのかもしれない。




そんなこんなで、、、
時代が取り戻すべき"大河の一滴思想"を説く名著。おすすめです。

そこらじゅうの春 そこらじゅうの奇跡

2009年03月21日 | 自分日記
熱湯に入れた氷がみるみるうちに溶けていくみたいに、
そこらじゅうに、いっせいに、春が来ました。

自分の命を守るように、かたく沈黙していた木は芽吹き、
星空の下、目覚めたカエルのカラカラとかわいた鳴き声がこだましています。
静かで、たゆみない歌声が、一日の終わり、眠る前の心にしみいります。

ヨモギやミツバが地面から顔を出し、
満開のユキヤナギと木蓮はまぶしいほどの白さで
枝を埋め尽くしています。
畑で生き残った
ふきのとうや菜っ葉たち、ブロッコリーは
黄色い花を咲かせています。

耕したばかりの畑では、
ありが急がしそうに出たり入ったり。
ちゃっかり地面のやわらかいところに
巣をつくってるけど、
どうやって見つけたんだろう。

みんなみんな、春を待っていたんだね!!!

古民家の、キンキンに冷えた冬を越したからこそ、
生き物たちと同じ目線で春を迎えることができました。

そんな中、3月のはじめに蒔いた種たちが
そろって小さな双葉を出しています。
まわりの雑草と比べると、あまりにもはかなげでたよりないその姿。
まるで、保育器に入れられた赤ちゃんみたいです。

小指の先でつぶせるような、細くやわらかい体に
水をいっぱいみなぎらせて、
ちいさなポットの中、せいいっぱい上を向いて生きています。

あまりにも小さくて、ふだん見慣れている
大人の野菜に化けるとは思えない。
かといって、大人の野菜にするためにできることといえば、
毎日雨水を溜めておいたタンクから水をじょうろにすくい、
ちょっと移動して種を蒔いた土の上にかけることぐらい。
育てるのは太陽と大地と、世界中を旅する水。

きっと大丈夫なんです。

その証拠に、スナップエンドウは、
1月に私が来た頃は、まだ正体不明の小さな草だったけれど、
このところみるみるうちに大きく伸びて、
ある日、見慣れたスナップエンドウがひとつ、
何事もなかったかのようについていました。

だいいち、かわいた砂粒のような種から、
緑色のみずみずしい芽が出てくること自体が驚きです。
それも、出たり出なかったり、いったい何が原因なのか。

奇跡は、世界中で、毎日、起きている。
誰かがよーいドン!の笛でも吹いたんでしょうか?
しめしあわせたかのような、小さな命たちのかけっこの始まりに
ただただ、目を見張るばかりの私です。