五木寛之の「大河の一滴」を読んだ。
内容は、人間の奢りをいさめる文明批判。にとどまらず、人間という存在を宇宙のものさしで測り、その小ささを大河の一滴になぞらえる筆者の思想・生き方についての指南が語られたエッセイだ。
読んでいてふと、思い出したことがある。
あれはちょうど7年前、私は
ハワイイ・マウイ島南部に位置する世界的サーフポイント
ホノルアベイにいた。
その日も、えぐり取られたような海岸線と、リーフで形成された海底の地形はその実力を遺憾なく発揮し、プロ級未満の波乗りを寄せ付けないブレイクがつぎつぎと炸裂していた。
私はそこで、プロ級のローカルサーファーたちすら避けたトリプルオーバーの波をぎりぎりの場所で超えそこね、リップから海底にたたきつけられたのだ。
せり上がり、視界を奪いながら襲いかかってくる山のような水のかたまりは見たことのないサイズと迫力で、
その後にやってくる衝撃の激しさや水中で呼吸を止めなければならない時間の長さも想像がつかなかった。
もう間に合わない。巻かれるしかない。
恐怖でこわばった体は、一瞬の静寂ののち、大洋のはるかかなたから旅をしてきたうねりの崩壊に吸い込まれた。
吹き飛ばされ、もみくちゃにされ、でんぐり返しをしながら海底まで突き落とされる。永遠とも思える怒濤の後、音のない薄闇の中、右肩のあたりにリーフがこつんと当たった。
上部の水たちの暴走が届かない海底で、ようやく自分の体のコントロール権を取り戻した時、すでに肺にはわずかばかりの空気しか残されていなかった。
一瞬で、千々に乱れ舞い上がった心を、ストン、とまとめ、静かに確実に海面を目指す。
口と鼻を最優先に浮き上がらせるために顔を真上に向け、思うように動かない腕で水をかく。
そして、水面に達したと同時に、真空状態の肺にがむしゃらに空気を送り込んだ。
陸が見えた。
なんとか、空気のある世界に生還しても、まだ油断はできない。
後ろを振り返る。
今の波に巻かれたことで、私は、波がブレイクする地点よりも沖の安全地帯から、
割れた後の波が暴れる地帯へと運び出されているはずで、
そこに次のブレイクがやってきたら、あっけなく再び、水が支配する世界に引き戻されるのだ。
ところが、次の波は、来ていなかった。
今でも、あのときの安堵を覚えている。
私は、生きていた。
なまなましい生の実感があった。
風に舞い上がる木の葉のような、自分の体に対する心もとなさに震えながら、
なんとかビーチまでパドリングし、岩だか砂だか忘れたけれど、
とにかく大地を踏みしめ、適当な岩を見つけて座り込んだ。
ドクンドクンと波打つ心臓も、言うことを聞かない手足も、
私はもてあましていた。
ただ、うぶで柔らかく、傷つきやすい自分という魂の存在を強く感じていた。
それは、今の波に巻かれたことで、一度奪い去られ、なんとか戻ってきたのだという実感だけがあった。
その後、1時間ほどただ海を眺めてボーーーっとしていた。相当、遠い目をしていたと思う。
繰り返しやってくる波を、プロ級のサーファーやボディボーダーたちが嬉々として滑り、駆け抜けていくのが、ぜんまい仕掛けの人形劇のように感じられ、どこか現実感がなかった。
人間は小さい。命には魂がある。
そのことを体で知ったできごとだった。
分を知り、自然の摂理に逆らわない生き方を望んでいる今の私は、
もしかしてあのとき、かたちづくられたのかもしれない。
そんなこんなで、、、
時代が取り戻すべき"大河の一滴思想"を説く名著。おすすめです。
内容は、人間の奢りをいさめる文明批判。にとどまらず、人間という存在を宇宙のものさしで測り、その小ささを大河の一滴になぞらえる筆者の思想・生き方についての指南が語られたエッセイだ。
読んでいてふと、思い出したことがある。
あれはちょうど7年前、私は
ハワイイ・マウイ島南部に位置する世界的サーフポイント
ホノルアベイにいた。
その日も、えぐり取られたような海岸線と、リーフで形成された海底の地形はその実力を遺憾なく発揮し、プロ級未満の波乗りを寄せ付けないブレイクがつぎつぎと炸裂していた。
私はそこで、プロ級のローカルサーファーたちすら避けたトリプルオーバーの波をぎりぎりの場所で超えそこね、リップから海底にたたきつけられたのだ。
せり上がり、視界を奪いながら襲いかかってくる山のような水のかたまりは見たことのないサイズと迫力で、
その後にやってくる衝撃の激しさや水中で呼吸を止めなければならない時間の長さも想像がつかなかった。
もう間に合わない。巻かれるしかない。
恐怖でこわばった体は、一瞬の静寂ののち、大洋のはるかかなたから旅をしてきたうねりの崩壊に吸い込まれた。
吹き飛ばされ、もみくちゃにされ、でんぐり返しをしながら海底まで突き落とされる。永遠とも思える怒濤の後、音のない薄闇の中、右肩のあたりにリーフがこつんと当たった。
上部の水たちの暴走が届かない海底で、ようやく自分の体のコントロール権を取り戻した時、すでに肺にはわずかばかりの空気しか残されていなかった。
一瞬で、千々に乱れ舞い上がった心を、ストン、とまとめ、静かに確実に海面を目指す。
口と鼻を最優先に浮き上がらせるために顔を真上に向け、思うように動かない腕で水をかく。
そして、水面に達したと同時に、真空状態の肺にがむしゃらに空気を送り込んだ。
陸が見えた。
なんとか、空気のある世界に生還しても、まだ油断はできない。
後ろを振り返る。
今の波に巻かれたことで、私は、波がブレイクする地点よりも沖の安全地帯から、
割れた後の波が暴れる地帯へと運び出されているはずで、
そこに次のブレイクがやってきたら、あっけなく再び、水が支配する世界に引き戻されるのだ。
ところが、次の波は、来ていなかった。
今でも、あのときの安堵を覚えている。
私は、生きていた。
なまなましい生の実感があった。
風に舞い上がる木の葉のような、自分の体に対する心もとなさに震えながら、
なんとかビーチまでパドリングし、岩だか砂だか忘れたけれど、
とにかく大地を踏みしめ、適当な岩を見つけて座り込んだ。
ドクンドクンと波打つ心臓も、言うことを聞かない手足も、
私はもてあましていた。
ただ、うぶで柔らかく、傷つきやすい自分という魂の存在を強く感じていた。
それは、今の波に巻かれたことで、一度奪い去られ、なんとか戻ってきたのだという実感だけがあった。
その後、1時間ほどただ海を眺めてボーーーっとしていた。相当、遠い目をしていたと思う。
繰り返しやってくる波を、プロ級のサーファーやボディボーダーたちが嬉々として滑り、駆け抜けていくのが、ぜんまい仕掛けの人形劇のように感じられ、どこか現実感がなかった。
人間は小さい。命には魂がある。
そのことを体で知ったできごとだった。
分を知り、自然の摂理に逆らわない生き方を望んでいる今の私は、
もしかしてあのとき、かたちづくられたのかもしれない。
そんなこんなで、、、
時代が取り戻すべき"大河の一滴思想"を説く名著。おすすめです。