地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

この感覚、ひさしぶり。

2017年06月09日 | お仕事日記
こうやって自分の頭の中にあること。
自分自身を文章にするのは、実に久しぶりのことです。

自分自身が、ただ書きたいことを書くというのは、
なかなか条件が揃わないと始まらないのです。

たとえば、人に会いすぎていないこと。
外からの刺激が多いと、自分じゃないものに神経を持っていかれます。
ちょっと人不足だな、さびしいんだけどな、と思いながらひとりで過ごす時間を
十分にとった後に、こういう時間は訪れます。
それから、部屋がある程度片付いていること。
ああ、部屋が散らかっているな。食器も溜まっているし、
洗濯物がカーテンレールにかけっぱなし。
となると、罪悪感に神経を持って行かれます。
天気との相性もあるかな。

以前に、どういうときに幸せ?と聞かれて、
自分自身を表現できていることを書いているとき、と
ありがとうでいっぱいになたとき、と
答えたことをすごく覚えています。

聞いた人は、わたしが自分自身を書いたブログを読んで
連絡をくれた人だったので、それは、とてもよく、
過不足なく、必要十分に内容や人間味や意味のある、
まとまったよい会話でした。

あの会話は、真実をついていた、と、今でも思います。

そう。そういう時間が、長いこと訪れなかったなあ。

今日こうなったことには、
わたしが計り知ることができない、
大きな意味があるのでしょう。
大いなる時の運びが、そうさせているのでしょう。

自分自身を表現することにこだわる沖縄の立体作家 今村能章さんのインタビュー記事を書いたこと。
少し前にウェブマガジンに書いた自分の記事を、おもしろいじゃないか、と読み返していたこと。
吉本ばななと岡本敏子の「恋愛について、話しました」という対談集を読んだこと。
去年の公募ガイドをパラパラとめくって、「エッセイを書く勘どころ」について学んだこと。

それらによって引き起こされているこの時間。
一番好きな、午後の遅い時間の光。

いくらでも、どこまでも、書けるような気分。
いまわたし、ここで、幸せです。

求めない。

2017年06月09日 | 自分日記
求めないこと。

人に。
男に。
仕事に。
家族に。
お金に。
ものに。
暮らしに。
土地に。
占いに。
食べ物に。
体に。
親に。
子どもに。
自分自身に。
情報に。
書物に。
時間に。
今日に。

それは、
バランスよく、意識を向けること。

すべてのものごとは、協力しあって
わたしを支えてくれている。
その絶妙なバランスを、自ら壊そうとしないこと。

なにかに執拗に意識を向けても、
バランスが崩れるだけなのです。

今、なにかがないと思ったら、
それは、別のものがあるということ。
なにかに働きかけることができなくても、
別のなにかには、働きかけることができる。

それをようく観察して、
上手に見つけて、働きかけることが、
唯一、「わたし」ができること。

できる、といっても、求めすぎない。
自分にね。

夕方になりかけた、遅い午後の光

2017年06月09日 | たまに詩人になります
夕方になりかけた、遅い午後の光が好きだ。

朝の光は人を前へ、とかきたてる。
その混じり気のなさは、どこか空虚だ。

正午に向かう午前中、空気はふくらんでいく。
世の人のやる気だとか、はたらく人がたてる音だとか、
そういった活動的なものを吸い込んで、ぱんぱんになる。
ぱんぱんの空気が、光を跳ね返す。

午後になりたての時間、
おなかがいっぱいの空気は眠い。
光を跳ね返す元気もなく、余計にすいこんで、
気だるい。

そうして、時は満ち、夕方になりかけた、遅い午後がやってくる。
空気は肩の力を抜いて、今日という日の終わりに向かい始める。
今日1日何があろうと、なかろうと、今日は終わる。

しっとりとしぼみはじめ、光を柔らかく受け止める。
桜の薄い花びらのようになった空気は、
でも、まだ、生気を十分にたたえている。

ほっとしていて、落ち着いていて、
でもどてっとしてもいなくて、
夜のように余計な由無しごとが充満してもいなくて、
なんとなくどうでもいいような、
でもだからこそ、実は一番意味があるような、
そういう時間。

そういう時間を、気負わずに照らす、
夕方になりかけた、遅い午後の光が好きだ。