2012年になりました。
沖縄の空気が優しいせいでしょう。
正直なところ、「節目」の感覚が入ってきません。
元旦を過ごした久高島は旧暦が公の暦で、
グレゴリオ暦の1月1日はなんでもない日、だったからかもしれません。
そもそも、ここ最近は、数年~数百年単位のダイナミックな時の流れの中の一点としての今を、
歴史が大きく塗り変わる地響きとともに感じて生きているので、
綿々と続く「今」のうちの一瞬、一日でしかない、という感覚です。
とはいえ、数年前から心待ちにしていた年の始まり。
何か書いてみようと思い立ちました。
私自身について。
できれば希望、のようなものをふりかけて。
人生、3年ひとくぎり、という感覚があります。
その枠でいくと、2009年1月4日に脱東京して、
フリーランスになって、
ブラウンズフィールドに飛び込んでから、今日でちょうど、
3年が経ちました。
ひとくぎりです。
この3年をひとことで表現するなら、
「基礎づくりの期間だった」という感じ。
目に見えない基礎。マインドセット。揺るがない信念や価値観のようなものを
じわじわと増殖させ、気体から液体、液体から固体へとつくりあげてきた過程。
まずは、フリーランスという働き方の不安定さとの折り合いのつけ方。
サラリーマンと比較するから不安定なのであって、
慣れてしまえば、人生、不安定なのが当たり前だし、
激流は、両手両足が遊んでる方が泳ぎやすい。
いきなり来るチャンスボールを俊敏につかまえられるよ。
それに、不安定さがサバイバビリティ=クリエイティビティを刺激するんだもんね。
などと今でこそ、スコンとのんきにやってますが、
当初はやっぱりせっかくだからたくさん稼ぎたい、という欲に
わりとまみれていて、必要以上に現金になる仕事を詰め込んでいました。
心にも時間にも余裕がなくて、
「早くこっち(BF的な)の世界に住人になりたい」と、焦っていました。
まだまだいろんなものを、手放せずにいた。
29歳という瀬戸際な感じの年齢のせいも、多分にあった。
でも、今私のコアになっているR水素ネットワークのお仕事は、
この年の10月に、現greenz.jp編集長のYOSHからかかってきた
一本の電話から始まったのですね。
そのときは、私を追いかけてくるたくさんの仕事のうちの
ひとつでしかありませんでした。
2010年。30歳になって早々に、
メインでやらせてもらっていた雑誌が休刊!(そういえばそんなこともあった。)
徐々にR水素のお仕事がメインになっていきます。
ハワイに取材を兼ねて逃亡したり。
デンマークのロラン島に、取材に行ったり。
そうこうするうちに、ピースボートで地球一周させてもらえたり。
そのたびに、お仕事をお断りしているうちに、
休刊した雑誌以外の雑誌からも、お声がかからなくなってしまいました。(そりゃそうだ)
今思えば、このプロセスが、
私を、半分サラリーマンのようなフリーランスの状態から
解き放ってくれたのだと思います。
「今を幸せに生きる。」究極の状態に少しずつ近づいていきます。
思えばピースボートでいろんな個性、いろんな才能、いろんな生き方・輝き方に触れ、
(触れたというよりその嵐にさらされた)
既に壊したつもりでいた既成概念をさらに跡形もなくぶっこわされてから
横浜港に降り立った10月20日、私は心の底から
「結局人間は、目の前にあることを一生懸命やるしかない。
今の私はR水素だ。エネルギーのことを一筋にやっていく。」と決心していたのでした。
2011年。R水素にぐっと集中力が高まったところでゲンパツ爆発。
私を沖縄へ引き寄せたのは、その前の週の
水素・燃料電池展での琉球大学の教授との出会いでした。
見るからにうちなーんちゅな先生が、極寒の東京ビックサイトで放った
「真っ黒に日焼けしてみない??」という言葉にハートを打ち抜かれた翌日、
沖縄行きの飛行機をおさえていました。
3月14日早朝、R水素のボスから
「一回首都圏を離れなさい。羽田までのタクシー代はおれがもつから」コール。(おっとこまえやな)
どこへ行こうか逡巡しながら荷物をまとめつつふと気付く。
「沖縄行きのチケットがあるじゃない。」
格安だから変更できない。ダメもとでJALに電話すると
「震災の影響であれば無料で変更させていただいております」(いいとこあるじゃないか)
とこのようにして、3月14日。
沖縄での生活が始まりました。
だいぶ長くなってきた。
ちょっとブレイク。