地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

2012年になりました。その1

2011年12月28日 | 自分日記
2012年になりました。

沖縄の空気が優しいせいでしょう。
正直なところ、「節目」の感覚が入ってきません。
元旦を過ごした久高島は旧暦が公の暦で、
グレゴリオ暦の1月1日はなんでもない日、だったからかもしれません。
そもそも、ここ最近は、数年~数百年単位のダイナミックな時の流れの中の一点としての今を、
歴史が大きく塗り変わる地響きとともに感じて生きているので、
綿々と続く「今」のうちの一瞬、一日でしかない、という感覚です。

とはいえ、数年前から心待ちにしていた年の始まり。

何か書いてみようと思い立ちました。


私自身について。
できれば希望、のようなものをふりかけて。

人生、3年ひとくぎり、という感覚があります。
その枠でいくと、2009年1月4日に脱東京して、
フリーランスになって、
ブラウンズフィールドに飛び込んでから、今日でちょうど、
3年が経ちました。
ひとくぎりです。

この3年をひとことで表現するなら、
「基礎づくりの期間だった」という感じ。
目に見えない基礎。マインドセット。揺るがない信念や価値観のようなものを
じわじわと増殖させ、気体から液体、液体から固体へとつくりあげてきた過程。

まずは、フリーランスという働き方の不安定さとの折り合いのつけ方。

サラリーマンと比較するから不安定なのであって、
慣れてしまえば、人生、不安定なのが当たり前だし、
激流は、両手両足が遊んでる方が泳ぎやすい。
いきなり来るチャンスボールを俊敏につかまえられるよ。
それに、不安定さがサバイバビリティ=クリエイティビティを刺激するんだもんね。

などと今でこそ、スコンとのんきにやってますが、
当初はやっぱりせっかくだからたくさん稼ぎたい、という欲に
わりとまみれていて、必要以上に現金になる仕事を詰め込んでいました。
心にも時間にも余裕がなくて、
「早くこっち(BF的な)の世界に住人になりたい」と、焦っていました。

まだまだいろんなものを、手放せずにいた。
 
29歳という瀬戸際な感じの年齢のせいも、多分にあった。

でも、今私のコアになっているR水素ネットワークのお仕事は、
この年の10月に、現greenz.jp編集長のYOSHからかかってきた
一本の電話から始まったのですね。
そのときは、私を追いかけてくるたくさんの仕事のうちの
ひとつでしかありませんでした。

2010年。30歳になって早々に、
メインでやらせてもらっていた雑誌が休刊!(そういえばそんなこともあった。)
徐々にR水素のお仕事がメインになっていきます。
ハワイに取材を兼ねて逃亡したり。
デンマークのロラン島に、取材に行ったり。
そうこうするうちに、ピースボートで地球一周させてもらえたり。
そのたびに、お仕事をお断りしているうちに、
休刊した雑誌以外の雑誌からも、お声がかからなくなってしまいました。(そりゃそうだ)
今思えば、このプロセスが、
私を、半分サラリーマンのようなフリーランスの状態から
解き放ってくれたのだと思います。

「今を幸せに生きる。」究極の状態に少しずつ近づいていきます。

思えばピースボートでいろんな個性、いろんな才能、いろんな生き方・輝き方に触れ、
(触れたというよりその嵐にさらされた)
既に壊したつもりでいた既成概念をさらに跡形もなくぶっこわされてから
横浜港に降り立った10月20日、私は心の底から
「結局人間は、目の前にあることを一生懸命やるしかない。
今の私はR水素だ。エネルギーのことを一筋にやっていく。」と決心していたのでした。

2011年。R水素にぐっと集中力が高まったところでゲンパツ爆発。
私を沖縄へ引き寄せたのは、その前の週の
水素・燃料電池展での琉球大学の教授との出会いでした。
見るからにうちなーんちゅな先生が、極寒の東京ビックサイトで放った
「真っ黒に日焼けしてみない??」という言葉にハートを打ち抜かれた翌日、
沖縄行きの飛行機をおさえていました。
3月14日早朝、R水素のボスから
「一回首都圏を離れなさい。羽田までのタクシー代はおれがもつから」コール。(おっとこまえやな)
どこへ行こうか逡巡しながら荷物をまとめつつふと気付く。
「沖縄行きのチケットがあるじゃない。」
格安だから変更できない。ダメもとでJALに電話すると
「震災の影響であれば無料で変更させていただいております」(いいとこあるじゃないか)

とこのようにして、3月14日。
沖縄での生活が始まりました。

だいぶ長くなってきた。

ちょっとブレイク。






オトコズキ♥

2011年12月27日 | 自分日記
先日、会社の同僚たちとクリスマスパーティをしていて、
酔いがまわったころに「でも私、男の人って好きですよ」
と口走ったところ、
その場にいた一人に「いいですね~。じゃこれから男好きキャラで」と、
あらぬ疑いをかけられそうになりました。

それで、好きなのは確かだがそういうニュアンスじゃない!と
慌てて拒否したわけですが、
じゃあどういう意味だったのかということを、
ちょっと書いてみようと思い立ちました。





つまり。




たとえばじゃあ、

どうして飛行機が当たり前のように飛んでいるかというと、

それは男の人がいるからです。

大胆に発想して、できると信じ込んで、とにかく始めちゃう。

それでめちゃくちゃに固執して、とうとう実現させちゃう、みたいなこと。

人間が鉄のかたまりに乗って空を飛べるかもしれない、

なんてバカなことを思いつき、

そのただひとつのことに、とんでもなく執着して

ついには実現してしまうようなことって

女の人にはできないんじゃないかな。と思うわけです。

地球が丸いと気付いたのも、株式会社という制度を考えだしたのも、
一年を365日、一日を24時間と決めたのも、
ディズニーランドをつくったのも、
電気やクルマを発明したのも、
わざわざ戦場まで出かけて行って写真を撮ってくるのも、
そもそもカメラとか写真を発明したのも、
全部、男!

これって、よく考えるとすごいことだと思いませんか?

いったいどういうことなのよ!

そういう意味で、半分あきれかえりながら、
放心しながら、
好きだなあ、と思うわけです。

最近は、草食男子 などと呼ばれる
男性が増えているらしいですが、
何かの間違いじゃないかと思います。

そもそも。

そもそもですよ。

女が考えつかないような、とんでもなく壮大な発想で、
ごりごり時代をつくり替えてきたのは男性なのですから、
今のこの、いろんなことが危機的な時代にこそ、
がっつり本領発揮して、幸せな世の中をつくって!

よろしくー♪

大学生のころ、こんなことを思っていました。

2011年12月08日 | 自分日記
ずっと前に書いて、どっかに出すはずが、お蔵入りになった文章が出てきました。
ここ最近、自分の頭の中にあることばっかり書いててうざいんですけど、ま、ブログだからいっか。
ということで。

私が働く理由。みたいなもの。


大学生のころ、こんなことを思っていました。

「風がある日はウィンドサーフィンをして、
波のある日はサーフィンをして、
どっちもない日は素潜りをして、生きていきたい。」

毎日毎日、そういう生活をずっと続けたら、快楽に倦むどころか、生きることへの学びを深めて、とびきりステキな大人になれると信じていました。
全日本学生ボードセイリング連盟の選手として、ウィンドサーフィンに明け暮れる毎日の中で、海や海の仲間から、言葉にならない多くのことを学んでいた頃のことです。

そうこうするうちに時は流れ、大学卒業とともに、あっけなく経済大国ニッポンのあらがえない渦に巻き込まれていきました。それも、かの有名な「ロストジェネレーション」として。
一番になるために営業成績の数字を追いかけたり、記事制作の締め切りに追われたり、時間やお給料と戦い、海では出会い得なかった人々に出会う中で、さまざまな情報が、頭と心を行き交い通り過ぎていきました。外からの膨大な刺激にさらされて、多くの「疑問」や「悩み」や「憧れ」や「つかの間の信念」が浮かんでは消えていきましたが、社会に出て5年が経ってなお残ったのが、どうしてもなくならない、しぶとい2つの願い。この2つの願いに、徹底的に向き合うために、私は今、働いているのだと思います。

その願いとは、「もっと地球と上手につき合える人間でありたい」ということ。
そして、「自分も含めたすべての人に人生に根付いた仕事をしてほしい」ということです。この2つをまとめると、「人間と自然が大切にされる社会にしたい」ということになります。

私自身は、海と交わる日々を通じて、風や波と調和し自然とひとつになれた時の深い幸福感や、宇宙の摂理でいとも簡単に私たちをもてあそぶ風や波という自然への畏怖を知りました。自然を「対象」としてではなく自分の一部として、自分を自然の一部としてとらえる感性が刷り込まれてしまったので、私にとっての人生に根付いた仕事のテーマは、人間の自然との関わりなのです。

具体的には、人間がもっと地球と上手につき合うための鍵であるエネルギーを持続可能なものに変えていくためのアクションをしています。ビジョンは、世界中のエネルギーを水と自然エネルギーでつくる持続可能なエネルギーのかたち「R水素」にシフトすることです。そのために、行政やビジネスラインの方々に伝え広めています。
そして、これまでの仕事で培った情報発信の企画・制作力を生かして、仲間のすばらしい活動を一人でも多くの人に伝えていくことが、今の私のミッションです。