地球族日記

ものかきサーファー浅倉彩の日記

おかねと人生 その3

2010年05月31日 | お仕事日記
「自分の限界がどこまでかを知るために
ぼくは生きてるわけじゃない
だけど新しい扉を開け、海に出れば
波の彼方にちゃんと果てを感じられる
ぼくはこの手のばして空に向かい風を受けて
生きてゆこう」

1996年 my little lover「Hello Again ~昔からある場所」

おかねで買えないものはたくさんあるけど、
一番は「多感さ」なんじゃないかと思う。

この歌が聴こえていた1996年、私は16歳で痛いほど多感だった。
笑えるほどモテない女子高生だったけれど、
当時は全く笑えなかった。
海との出会いはまだ訪れていなかったので、
毎日、「ウチら」のペースに合わせて
自分を「よのなか的な正しい女子高生」に整えるのに必死だった。

心が本当に喜ぶことを知らないと、
世間や他人が気になるのだ。

コインの表と裏のように、世間や他人には敏感だった。
新しい曲、新しい長さのルーズソックス、新しいカバンの持ち方
新しいストニュー、新しい制服の着方、新しいランコムのマスカラ、
新しいヴィトンのライン、新しい種類の男の子たち(B-boyとかチーマーとかね)
新しいベル(ポケベル)の打ち方、、、、

今思えば、宇宙的にはどうでもいいことで、
頭がいっぱいだった。

なんせ時代は、
「crazy gonna crazy」で、
「家で電話を待つよりも歩いてるときに誰か
 ベルを鳴らして」で、
「今日が終わるたび 胸をなでおろすなんてやめよう
あきらめること許したらHelloだって言えなくなるから」
だったわけで、
みんなが「自分がイケてなく見られる不安」で胸をキリキリさせながら、
「ウチら」によるランクづけと刺激の消費に明け暮れていたのだ。

2年もするとglobeが、
「刺激に慣れ過ぎてからずいぶんたってる」と歌い出した。

渋センを歩きながらベルが鳴るのを待っていた
100万人の「ウチら」によって、コギャル文化は
どんどん洗練され、進化した。

そしてそれも、今となってはどうでもいいことだ。
通り過ぎて大人になった私には、コギャル文化が
バブル後の混乱と絶望の時代に咲いたあだ花にしか見えない。

それなのに、当時の友達に会うと、
「でも、あの頃ウチら、超楽しかったよね」
って言いたくなっちゃうのはなんでだろう?

※それにしても、当時の小室哲哉はやっぱりスゴかった。
完全に時代を読んでたと思う。
「ウチら」はみんな、夢中だったよ。

ある熱狂が多感さによって生まれ、
熱狂は、燃え尽きた姿をさらすことで
多感さを裏切る。
熱狂の裏切りを見せつけられて、心は多感さを失う。

話が見えなくなってきたけど、
もうひとつ思い出したこと。

深刻にモテなかった私でも、
たまには恋が芽吹くことがあった。

ある時、2つ年上の、まわりに取り巻きをはべらせているような
やたら態度が大きくて粗野で乱暴なのに、
遊び方が面白くてたまに優しい、なんだかとてつもなく大物っぽい人が
(って言ったって18歳とかで、完全に小僧だけどねw)
私に興味を持った。

みんなでキャンプをしに行った時、
2日目の朝、とりまきの1人が女子テントにいた私を呼びに来て(ってこの手口がまたウケるけど)
○○くんが話があるっていうから来て。と
連れて行かれた。

すると、○○さんはテントの一番奥で、
野武士のように部下をしたがえて、ドドーンと座っていた。

私が入り口付近でおずおずしていると、
その場所に座ったまま、彼は私を手招きし、
私が近づくと言った。

「昨日から、みんなで会話してて誰かが詰まったりすると、
全部お前がフォローしてる。
お前は勘がよくて優しくていい女だ。おれはお前が好きだ。」

言いたい事はそれだけだ、的に女子テントに戻され、
後日ポケベルでデートに誘われた。

ところが、
その人は私の友達と付き合っていた。
2人はあんまりうまくいってなかった。
それなのに、くそまじめで義理堅く、そして、仲間外れが怖かった私はどうしても、
友達に隠れて、その人とデートすることができなかった。
すごく興味があったのに。その人にも、その人の彼女というポジションにも。
もしあのとき、ロンバケのモモちゃんみたいに、
「好きっていう気持ちは一番偉いんだよ!」なんて言い放って
デートしていたら、
思いっきり好きになって、取り巻きから「○○さんの彼女」ってちやほやされて、
高価なプレゼントとかもらって、たぶん結局泣かされて、
友達連中からはハブにされて(仲間外れにされて)
全然違う人生になってたかもしれない。

回想にかまけて脱線した。

多感な私は、短くて偏ってて弱くて鋭かった。

あれから14年も経ってしまって、
絶対にならないと思っていた30歳にもなり、
今だったら、と考えてみる。

多感さは失われ、かわりに
長い全体的な視野でものごとをとらえるクセがつき、ある意味鈍い。
思い詰めない。

だから、今だったらきっと、一度ぐらいデートしてみるだろうと思う。
書ききれないほどの色々な理由で、そう思う。
すべての人間関係つまるところ縁だから。とか。
一回デートするぐらい大した問題じゃない。とか。
女は男で変わるから。とか。

いずれにしても、人生に対して、わかったようなフリをするのが
うまくなってしまった。
それで、飽きている。

こういうときは、恋と旅が特効薬なのに、
どちらも足りない。
極彩色が戻ってこない。

おかねと人生 その2

2010年05月24日 | お仕事日記
前回は、おかねのいらない遊びを上達させるのに必要な時間を
生活の中で見つけるには、やっぱりお金が必要じゃないか、
というところで終わっていた。

「おかねのいらない遊び」は、「家族や友達と過ごす時間」や「自分自身と向き合う時間」
「何もせずにのんびり海をながめてボーッとする時間」「何か好きなことに夢中で没頭する時間」にも置き換えられる。

どちらにしても、忘れてはいけないのが、本当に必要なのは時間で、お金ではない。ということだ。

時間は人間に本来備わっているクリエイティビティを開拓し、発揮するチャンスを与える。
それによって生み出される価値は、お金が生み出す価値の比ではない。
そもそも人間のクリエイティビティが発揮されなければ、お金と交換したいと
思うような「モノ」や「サービス」なんて生まれない。

モノが売れずに地盤沈下する日本経済の本質は、そこだと思う。

「時間がない」って本当につらい。個人にとっても。社会にとっても。
時間がない人は、たいてい疲れている。リフレッシュする時間もないから。
時間がない人は、たいてい選挙にいかない。誰に投票するかを考える時間がないから。
時間がない人は、たいてい流行っているものを買う。自分が本当にほしいものを考える時間がないから。
時間がない人は、東京に住む。どんなに空気や水や食べ物がまずくても、便利だから。
時間がない人は、ホンモノノホンを読まない。深い知識の地盤を肥やすよりも、誰もが消化しやすいニュースを着ていた方がキャッチーだから。

投票率が異常に低くて、テレビが「人気店」と言えば
すぐに長蛇の列ができて、東京の過密化と地域の過疎化が同時進行し、
本が売れなくなっている日本は、時間最貧国だ。
そして、みんなが「時間がない」と言っている影で、
民主主義が成熟せず、政治は三流以下のまま。
日本という国の思考力とサバイバビリティはどんどん衰弱していっている。

「時間がない」は大問題だ。

それなのに、多くの日本人は、「時間がない」と言うとき、うれしそう。
挨拶がわりに、「忙しい?」と尋ねあう。「元気?最近は忙しいの?」
さらには、「いや~、不摂生がたたって健康診断でD判定もらっちゃいましたよ~」
とかって、不健康自慢までする。
クレイジーだ。笑えてくる。

彼らがそういう自慢をするとき、本当に言いたいのは、
「自分は周りの人や社会から、必要とされているんです」ということなのだと思う。
もしくは、「自分はたくさん稼いでいるんです」ということかもしれない。

だったらそういえばいいのに。
言霊 の力はあなどれない。
挨拶がわりのゴキゲンうかがいの場面で、
「時間がない」と繰り返し口にすることで、
病的な自己暗示に集団感染している気がする。

ただし、今書いたような、「稼いでいる」「必要とされている」という自信をアウトプットするために
「時間がない」と言っている人ばかりではない。

社会人5年目ぐらいまでの私がそうだったように、
時間もお金も自信もなくて、精神的にも肉体的につらい
抑圧的な日々を送っている人も多くいる、と思う。

そういう意味での「時間がない」は、緊急事態だ。

私が勤めていた会社では、
時間がないために、離婚したり病気になった人は数知れない。
本当のことだ。
亡くなった若い女性もいる。噂などではなく、
ある日、部署全体に「○○さんが亡くなった」というメールが流れた。
死因は過労だった。
朝出社しなかったので、同僚が自宅や携帯に電話をしても連絡がつかず、
状況を危惧して自宅を訪ねてみると、寝たまま亡くなっていたのだ。

このことは、「時間は命」ということの、切実な証拠だ。
ということは、時間がない=命がない だ。

らくだの背中に一本ずつわらを乗せて行くと、
最後はわら一本の重さでらくだの背骨が折れるという。

時間という命が、命を喜ばせない仕事によって
毎日5分、10分。
くだらない会議で3時間。
少しずつ、少しずつ骨抜きにされていくことで、
ある時命がポキンと折れるのだ。

過労死は極端な例だけれど、
時間がないという病の重さは、いくら強調してもしすぎることはない。

ではどうして、人は一番大切な時間をなくしてしまうのだろうか。

ここでもう一つのキーワードを登場させると、
時間(人生)とお金の本当の関係が浮かび上がってくる。

そのキーワードとは、「居場所」だ。「満足」と言い換えてもいい。

時間というあってないようなふわふわした存在に対して、
社会生活を営む人間にとって「居場所の有無」の存在はもっと重い。
「受け入れてもらいたい」という根源的な欲求(欲望ではなく、欲求)が
満たされるかどうかは、日々の人生の"腰"にくる。

では「居場所の有無」を感じるメディアは何かというと、
仕事であり家族・友人であり消費生活だ。

そして、今の居場所に満足しているか、つまり「居場所の質」を感じるメディアもまた、
仕事であり家族・友人であり消費生活なのだ。

具体的には、

居場所がほしい→しかし私のお給料は安い→お給料が安いから、高い人よりも軽く扱われる→お給料を上げるためにもっと働かなくちゃ
誰かの役に立ちたい→最低限の生活
結婚して家族がほしい→生活の基盤がほしい→お金が必要
いい女と結婚したい→競争に勝たなければならない→もっとお金が必要
友達とお酒を飲みに行きたい→お金が必要
子どもを生んで安心して育てたい→安定的な生活の基盤がほしい→お金が必要
あの人への愛を表現したい→言葉よりももっと確かな、行動で示したい→指輪を買いたい→お金が必要

などなどなどなど。

このように、「お金」は「居場所」の「有無」と「質」に密接に関わってくる。

つまり、まとめると、

「時間」という「命」には、「居場所」が必要で、「居場所」の「有無」と「質」は「おかね」の影響を強く受ける。
だから、人生にはお金が必要で、それは多ければ多い方がいい。

ということだ。

つづく

お仕事"写真"日記

2010年05月13日 | お仕事日記
三菱地所さん取材@新丸ビル エコッツェリア インタビュイーの井上成さんは、バリ帰りのナイスミドル♡


WorldShiftForumで登壇@国連大学ウ・タントホール co-speakerのYOSHくんは秋田生まれのイケメン♡



アースデイ東京水素バスツアーでバスガイド@代々木公園 


おまけ。田んぼで運動会で人力代掻き中@ブラウンズフィールド


以上。貧乏だけど、お仕事楽しい♪浅倉彩でした。

おかねと人生

2010年05月07日 | お仕事日記
原稿料の請求書を書こうと思ってボールペンを手に取ったら、
おかねについての大切なことを書きたくなったので、書いてみたいと思う。
「おかねと人生」
本が一冊、書けるテーマだ。

人生とは、時間であり、お金ではない。
お金は、人生という時間を豊かにする道具だ。

言うまでもない。こうして書いてしまえば、当たり前すぎて
書くにも値しないようなことだ。

しかし、大学を卒業したての私がそうだったように、
お金で悩んでいる人は多い。

贅沢にも、実家暮らしの恩恵にあずかっていた私が、
どうしてお金で悩んでいたのか?
今思うと不思議でしょうがない。
でも、私は、ものすごーーーく悩んでいた。
こんなに忙しいのに、どうしてお給料が安いのか。
もっと稼ぎたい。年収1000万円になりたい。
高給取りとになりたい。でもできていない。
まわりの友達はもっと稼いでいるのに。
住宅手当やボーナスがうらやましい。。。
四六時中とは言わないまでも、かなりの時間、
そのような"うわごと"が頭の中を駆け巡っていた。

なぜだったのか?
もう、答えは見つかっている。

それは、稼いでいる金額が人より多いか少ないかが、
自分の価値だと思っていたからだ。
そのような価値観を持つに至ったのは、
幼い頃からの受験人生で、
テストの点数や通う学校の偏差値が人より高いか低いかが、
自分の価値だと思わされてきたから。
点数と偏差値が、社会にでてお金を稼ぐようになったら、年収に代わったのだ。

今、私の年収は、当時と大して変わっていなくて、
多分、相変わらず、同級生よりも少ないと思う。

だけれども、そんなことは、どうでもいい。
理由はみっつ。

ひとつは、仕事の充実感や仕事以外の時間の楽しさは、お金に比例しないから。
ふたつめは、年収が100万円だろうが1000万円だろうが、そんなものは、
兆の単位で動いている世界のマネーの濁流のうちの一滴に過ぎず、一喜一憂するに値しないから。
みっつめは、私には経済的に余裕のある両親がいて、
一文無しになったら両親を頼ればいい境遇にあるからだ。

みっつめを読んで、イヤミなやつだと思った人もいるだろう。
「自立していない」と、私を軽んじる人もいるかもしれない。

だけど、お金で悩む人のうちの何割かにも、私と同じように
経済的に余裕のある両親がいるはずなのだ。
むしろ、生活に「必要」なお金に「困っている」人ではなくて、
プライドのためのお金を「ほしがる」ことで、人はお金に「悩む」のだと思う。
プライドが、誰かに頼ることや、人並みではないことを、許さないのだと思う。

仕事以外の時間の楽しさで言えば、私にはサーフィンがあるから、大してお金は必要ない。
サーフィンは、ものやお金ではなく、自分自身に備わっている肉体と精神を使う遊びだ。
だから楽しい。大金持ちが何億円はたいても、その人のサーフィンを上達させることはできない。
絶対に、できない。

同じことが、料理にも、ギターにも、ダンスにも、楽器の演奏にも、言える。

「そんなこと言ったって、お給料が安いせいで長時間はたらかなきゃいけなくて、
 練習する時間がとれないせいで上達しないんだから、やっぱりお金が必要じゃないか」
という意見もあると思う。

・・・とそろそろインタビューの仕事に行かなきゃ。つづきはまた。

つづく。

夕暮れ

2010年05月05日 | たまに詩人になります
気付くとぼくは、海に立っていた。
とおくのほうに、かすかに残る一本の線が、海と空の境目を告げていた。
しめつけるような群青にすべてをからめとられながら、
ぼくのこころは、くりかえし、きみといたとりもどせない時間を想った。
今想えば、奇跡としかいいようのない、
でもあのころは、そうとわかっていたはずなのに、
ただ無邪気に過ごしてしまったかけがえのない時間を。
もう一度、あのころのきみとぼくに出会えるのなら、
ぼくはきみになんと言うだろう。なんと言えばいいのだろう。
きっと、想っていることの100分の1も言葉にできずにぼくは、
この宇宙が生まれてからただひとつ変わっていない、
やさしくて残酷な時間の流れに身をまかせるにちがいない。

何度でも。

何度でも。

しずくの恋のものがたり

2010年05月05日 | お仕事日記
あるとき女の子は、水のしずくに出会いました。

こんにちは。

こんにちは。

水のしずくは言いました。

僕を飲んでね。おじょうさん。
そうしたら、ぼくは、あなたになるから。

女の子は、水のしずくを飲みました。



あるときにまた、女の子は、水のしずくに会いました。

こんにちは。

こんにちは。

あなたに会うのは2回目ね。
不思議ね。飲んでしまったはずなのに。

ふふふ。

水のしずくは笑います。

私は水です。あなたの体と一緒にいたあと、
あなたと離れて、世界中を旅してきました。
ぼくで体を洗ってね。
そうしたらぼくがあなたをきれいにしてあげる。

女の子は、水のしずくを浴びました。



またあるとき、女の子は水のしずくに会いました。

あなたに会うのは3回目。
いったいどうしたことでしょう。

ふふふ。

水のしずくは笑います。

また旅をしたのです。僕はいつも、旅をして、
何度でも、あなたのところに帰ってくるのです。

どんなところを旅したの?

女の子は聞きました。

水のしずくは答えます。

空を舞い散る雪になって峠の屋根に下りました
それから軒のつららになって、冷たい地面に落ちました
お日さまに呼ばれて空高くのぼり、今度は雲になりました
こらえきれずに雨になったら、大きな海が待っていました
くじらのおなかを通りすぎ、とびうおの羽根のしぶきになって
遊んでいたら、またお日さまが僕を呼びました。
そうしてもう一度雲になり、あなたの上を浮かんでいたら、
あなたに会いたくなったので、雨になってここにいます。


まあ。・・・・・・。

女の子は、何も答えられません。
誰もできないような冒険をしている水のしずくに、
すっかり恋をしてしまったのです。

私もあなたと一緒に、旅がしたいわ。
どうしたら、いいのかしら?

水のしずくは、びっくりしてこう言いました。

ぼくみたいな、冒険が好きな女の子を、
ぼくはずっと、ずっとずーーーーっと、待っていた。
もしあなたが、ビリビリとみんなを元気にする電気になってくれたなら、
ぼくたちは、奇跡を起こして、一緒にこの世界を変えることができるんです。

あらまあ。ステキ。
私はどうやって、電気になれるの?

こそこそこそ。

水のしずくは女の子のかわいい耳に、
魔法の呪文をそっとささやきました。

その瞬間、
女の子の瞳は太陽に、唇は風に、寝癖のついた髪のけは波に、
鼻はマグマになって、地球に溶けていったのです。

それから、太陽と風と波とマグマは、力いっぱいまわってまわって、
電気になりました。


こうして、水のしずくと、電気になった女の子は、めでたく結ばれました。

そして、かわいい赤ちゃんが次々に生まれました。
赤ちゃんは、生まれたときから、
みんなを助ける、天才でした。

赤ちゃんが呼吸をして酸素と仲良くすると、お母さんと同じ電気に変身します。
そのついでに、あたたかさをふりまいて、みんなを助けます。

赤ちゃんが火の粉と仲良くすると、赤ちゃんはお父さんと同じ水に変身します。
そのついでに、大きな自動車を動かして、みんなを助けます。

赤ちゃんは、水のしずくと電気になります。
水のしずくと電気からは、また赤ちゃんが生まれます。
そしてまた赤ちゃんは、水のしずくと電気になります。
水のしずくと電気からはまた赤ちゃんが生まれ、、、、

こうして、やっと出会えた
水のしずくと、女の子の旅は、
永遠に、永遠に、

みんなを助けながら、ずーっとずっと、続きました。