3.24 自由の半島クリミア
クリミアとセヴァストーポリが自らの歴史的祖国であるロシアと再統合してから、18日で丸1年になる。すでにロシア史の新たなページとなったこの出来事が、ロシア全体にとっての祝日である事は疑いない。しかし23年の長きにわたりこの日を待ち望んだクリミアとセヴァストーポリの人々にとっては、特別の感慨がある。
あれから1年がたった今、ドンバスの例がはっきり示すように、もしロシアの助けがなかったら、クリミアもドンバスと同じ状況に陥っていただろう。
セヴァストーポリとクリミアは常に、ウクライナにとって手に負えない「継子」のような存在だった。力ずくでのウクライナ化に従わず、政治状況の変化にもかかわらず、自分の伝統と歴史を尊んできた。
セヴァストーポリでは、町の防衛のため、命令や強制によってではなく、一般市民が自ら立ち上がった。ここ数年、戦闘的ナショナリズムの傾向をますます強めてきたウクライナ当局への抵抗が、第三のセヴァストーポリ攻防戦と呼ばれたのも決して偶然ではない。
2013年11月、首都キエフで、所謂「マイダン」が始まり、クリミアは、これに抗議の反応を示した。セヴァストーポリではEUへの統合に反対した。
2014年2月、キエフで国家クーデターが起こった。セヴァストーポリとクリミアは、そうしたできた自称ウクライナ当局の合法性を認めなかった。中心広場では2月23日(ロシアにおける祖国防衛者の日)、集会が開かれ、自分達の市長としてアレクセイ・チャルィ氏を選出した。義勇軍の組織が開始され、クリミア北部境界線防衛のために、特務部隊「ベルクート」が前面に出た。こうして、まさに「祖国防衛者の日」、クリミアではロシアの春が始まったのだ。
ウクライナ軍は、サバイバルを図り,参謀本部やセヴァストーポリ郊外のベリベク軍事飛行場に立てこもった。キエフからは、武装したナショナリストで満員の「友情列車」を送るとの脅迫があった。人々はロシアが今後どういった措置をとるのか、知らなかったし確信を持って知ることはできなかった。しかし彼らは信じていた。セヴァストーポリに続き、シンフェローポリでも26日、集会が開かれた。そして27日、クリミア最高会議の建物に、ロシアの三色旗が翻ったのだった。
しかしその当時でさえ、クリミアの人々は、ロシアが自分達を護ってくれると100%信ずることができたわけではなかった。ロシアとの再統合は、余りにも実現不能なものに思われた。彼らは、余りに長くそれを持ち続けたからだ! そして住民投票を実施し、ロシアとの再統合の問題が完全にはっきりした時初めて、クリミアの人々は、実現が可能だと信じるに至ったのだった。
しかし、住民投票より前に、セヴァストーポリとクリミアはすでに、ロシアへの再統合に賛成していたといえる。町や村では、ロシアの三色旗が配られ、人々はそれを、バルコニーや窓に、自分達の歴史的選択のシンボルとして掲げていたからだ。
3月16日の住民投票で、人々は「自動小銃を突きつけられて」無理やり賛成投票をしたのだという作り話は、欧米が乱暴に作り上げたプロパガンダであり、キエフの新政権にコントロールされたウクライナのマスコミにより故意に広められたものだ。
クリミアの人々は、まるでお祭りにでも行くように投票に出かけた。観測筋によれば、キエフのクーデター政権に従うことをよしとしない自由な人々による自由な選択だった。
あれから1年、その間、セヴァストーポリとクリミアは、困難な移行期を経験した。しかしすべては、一時的なもので克服可能なものであり、現在ドンバスで起きていることと比べるべくもない。
ドンバスの人々は、かつてのようにもうウクライナの一部として暮らすことは決してできないだろう。こうしたことを背景に考えれば、ポロシェンコ大統領の「クリミアをウクライナに戻す」という発言は、明らかに実現不可能なたわごとの様に思われる。なぜならクリミアの人々は、一年前同様今も、ロシアへの再統合に対し、同じ選択を下すだろうからだ。
☆ プーチンは人々の魂と生命と暮らしを守ろうとしただけなのだ。 すべてが曲げられて伝えられた。 日本は遠い国のことを感情 知性 魂を伴って見つめることは苦手であり 今もマスコミの奴隷である。
一人でも また一人でも クリミヤとドネツクを魂で知る人々が増えることを願うだけだ。
クリミヤ ドネツクで戦う人々 守ろうとしたプーチンはレプから人類を取り戻そうとしたのであり 仲間となりたいものである なぜなら今この国でも罪と罰という支柱をもたないものに支配されているのだから。
3.26 タタールのくびき
タタールのクビキをいう言葉を聞くことがある。 クリミヤでの少数民族がタタール族ということで かれらはクリミヤがロシアに編入されたことを喜んでいないという反プーチンの声がある。 それではウクライナの領土になったほうがよかったのか とんでもないことだが いつもどこからか反プーチンの声は聞こえるものだ。
○タタール(タタルとも、Tatar)は、北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。日本では、古くは中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は異なる。
○現在では、旧ソビエト連邦を中心にシベリアから東ヨーロッパにかけて居住するテュルク系諸民族がタタールを自称するが、必ずしも歴史上タタールと称されてきたあらゆる民族の末裔ではない。現在タタールと呼ばれる諸民族はロシア連邦内のヴォルガ川中流域に住むヴォルガ・タタール人、ヴォルガ川下流域に住むアストラハン・タタール人、シベリアに住むシベリア・タタール人、ウクライナ領のクリミア自治共和国に住むクリミア・タタール人、ベラルーシ、リトアニアおよびポーランドに住むリプカ・タタール人などに別れる。
タタール人の人口が多い国はロシアで、統計上の総人口はおよそ550万人でロシア人に次ぐ多数派民族である。数が多いのはヴォルガ・タタール人で、ヴォルガ中流域のタタールスタン共和国に200万人、隣のバシコルトスタン共和国に100万人が居住する。また、中国の少数民族のひとつタタール族(塔塔尔族 拼音: tătăĕrzú)は、中国の新疆ウイグル自治区に居住するロシア系タタール人のことで、人口は約5000人。
○モンゴルのルーシ侵攻
モンゴルのルーシ侵攻とは、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。1223年の戦いでは、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。
これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になった[1]という見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある[2]。
また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった[3]。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはトヴェリ大公国(英語版)やモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。
クリミアとセヴァストーポリが自らの歴史的祖国であるロシアと再統合してから、18日で丸1年になる。すでにロシア史の新たなページとなったこの出来事が、ロシア全体にとっての祝日である事は疑いない。しかし23年の長きにわたりこの日を待ち望んだクリミアとセヴァストーポリの人々にとっては、特別の感慨がある。
あれから1年がたった今、ドンバスの例がはっきり示すように、もしロシアの助けがなかったら、クリミアもドンバスと同じ状況に陥っていただろう。
セヴァストーポリとクリミアは常に、ウクライナにとって手に負えない「継子」のような存在だった。力ずくでのウクライナ化に従わず、政治状況の変化にもかかわらず、自分の伝統と歴史を尊んできた。
セヴァストーポリでは、町の防衛のため、命令や強制によってではなく、一般市民が自ら立ち上がった。ここ数年、戦闘的ナショナリズムの傾向をますます強めてきたウクライナ当局への抵抗が、第三のセヴァストーポリ攻防戦と呼ばれたのも決して偶然ではない。
2013年11月、首都キエフで、所謂「マイダン」が始まり、クリミアは、これに抗議の反応を示した。セヴァストーポリではEUへの統合に反対した。
2014年2月、キエフで国家クーデターが起こった。セヴァストーポリとクリミアは、そうしたできた自称ウクライナ当局の合法性を認めなかった。中心広場では2月23日(ロシアにおける祖国防衛者の日)、集会が開かれ、自分達の市長としてアレクセイ・チャルィ氏を選出した。義勇軍の組織が開始され、クリミア北部境界線防衛のために、特務部隊「ベルクート」が前面に出た。こうして、まさに「祖国防衛者の日」、クリミアではロシアの春が始まったのだ。
ウクライナ軍は、サバイバルを図り,参謀本部やセヴァストーポリ郊外のベリベク軍事飛行場に立てこもった。キエフからは、武装したナショナリストで満員の「友情列車」を送るとの脅迫があった。人々はロシアが今後どういった措置をとるのか、知らなかったし確信を持って知ることはできなかった。しかし彼らは信じていた。セヴァストーポリに続き、シンフェローポリでも26日、集会が開かれた。そして27日、クリミア最高会議の建物に、ロシアの三色旗が翻ったのだった。
しかしその当時でさえ、クリミアの人々は、ロシアが自分達を護ってくれると100%信ずることができたわけではなかった。ロシアとの再統合は、余りにも実現不能なものに思われた。彼らは、余りに長くそれを持ち続けたからだ! そして住民投票を実施し、ロシアとの再統合の問題が完全にはっきりした時初めて、クリミアの人々は、実現が可能だと信じるに至ったのだった。
しかし、住民投票より前に、セヴァストーポリとクリミアはすでに、ロシアへの再統合に賛成していたといえる。町や村では、ロシアの三色旗が配られ、人々はそれを、バルコニーや窓に、自分達の歴史的選択のシンボルとして掲げていたからだ。
3月16日の住民投票で、人々は「自動小銃を突きつけられて」無理やり賛成投票をしたのだという作り話は、欧米が乱暴に作り上げたプロパガンダであり、キエフの新政権にコントロールされたウクライナのマスコミにより故意に広められたものだ。
クリミアの人々は、まるでお祭りにでも行くように投票に出かけた。観測筋によれば、キエフのクーデター政権に従うことをよしとしない自由な人々による自由な選択だった。
あれから1年、その間、セヴァストーポリとクリミアは、困難な移行期を経験した。しかしすべては、一時的なもので克服可能なものであり、現在ドンバスで起きていることと比べるべくもない。
ドンバスの人々は、かつてのようにもうウクライナの一部として暮らすことは決してできないだろう。こうしたことを背景に考えれば、ポロシェンコ大統領の「クリミアをウクライナに戻す」という発言は、明らかに実現不可能なたわごとの様に思われる。なぜならクリミアの人々は、一年前同様今も、ロシアへの再統合に対し、同じ選択を下すだろうからだ。
☆ プーチンは人々の魂と生命と暮らしを守ろうとしただけなのだ。 すべてが曲げられて伝えられた。 日本は遠い国のことを感情 知性 魂を伴って見つめることは苦手であり 今もマスコミの奴隷である。
一人でも また一人でも クリミヤとドネツクを魂で知る人々が増えることを願うだけだ。
クリミヤ ドネツクで戦う人々 守ろうとしたプーチンはレプから人類を取り戻そうとしたのであり 仲間となりたいものである なぜなら今この国でも罪と罰という支柱をもたないものに支配されているのだから。
3.26 タタールのくびき
タタールのクビキをいう言葉を聞くことがある。 クリミヤでの少数民族がタタール族ということで かれらはクリミヤがロシアに編入されたことを喜んでいないという反プーチンの声がある。 それではウクライナの領土になったほうがよかったのか とんでもないことだが いつもどこからか反プーチンの声は聞こえるものだ。
○タタール(タタルとも、Tatar)は、北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。日本では、古くは中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は異なる。
○現在では、旧ソビエト連邦を中心にシベリアから東ヨーロッパにかけて居住するテュルク系諸民族がタタールを自称するが、必ずしも歴史上タタールと称されてきたあらゆる民族の末裔ではない。現在タタールと呼ばれる諸民族はロシア連邦内のヴォルガ川中流域に住むヴォルガ・タタール人、ヴォルガ川下流域に住むアストラハン・タタール人、シベリアに住むシベリア・タタール人、ウクライナ領のクリミア自治共和国に住むクリミア・タタール人、ベラルーシ、リトアニアおよびポーランドに住むリプカ・タタール人などに別れる。
タタール人の人口が多い国はロシアで、統計上の総人口はおよそ550万人でロシア人に次ぐ多数派民族である。数が多いのはヴォルガ・タタール人で、ヴォルガ中流域のタタールスタン共和国に200万人、隣のバシコルトスタン共和国に100万人が居住する。また、中国の少数民族のひとつタタール族(塔塔尔族 拼音: tătăĕrzú)は、中国の新疆ウイグル自治区に居住するロシア系タタール人のことで、人口は約5000人。
○モンゴルのルーシ侵攻
モンゴルのルーシ侵攻とは、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で本格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。1223年の戦いでは、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。
これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になった[1]という見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある[2]。
また東ヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えた。東スラヴ人はモンゴル侵攻後の各地方で異なる道を歩み、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人の民族の違いがはっきりとするようになった[3]。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の属国と化して「タタールのくびき」に苦しむルーシ諸国の中からはトヴェリ大公国(英語版)やモスクワ大公国といった新興勢力が現れるようになった。