ドイツのドレスデンを空爆した翌月、アメリカ軍は1945年3月9日から10日にかけて、東京の下町、深川、城東、浅草などを焼夷弾で焼き尽くした。
この爆撃で7万5000人から20万人の非戦闘員が殺されたと言われている。
投下された焼夷弾の中には38個の小爆弾が収納されていて、高度610メートル付近で子爆弾はバラバラに飛び散り、建造物や地面に到達すると数秒後に焼夷剤のゲル化ガソリンが燃え上がる仕組みになっている。
東京空襲を
指揮したのはアメリカ空軍のカーチス・ルメイ。
この軍人は原爆を投下する ? 都市の選定にも加わっていた。朝鮮戦争における空爆の責任者でもある。
ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官を務め、50年6月に始められた朝鮮戦争で朝鮮半島北部の78都市と数千の村を破壊して多くの市民を殺害。
ルメイ自身、3年間に朝鮮半島の人口の20%にあたる人を殺したと認めている。
朝鮮戦争が休戦になった翌年の1954年にルメイを含むアメリカ軍の好戦派はソ連を核攻撃する作戦を立てた。
アメリカに存在した核爆弾の数は無視したもので、600から750発の核爆弾をソ連へ投下、? 118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっていた。
その2年後にSACは核攻撃計画に関する報告書をまとめている。
それによると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下するとされている。
軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだ。この当時もSACの司令官はルメイ。
この計画ではソ連の主要都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。
日本列島が中国に対する攻撃の拠点として想定されていた可能性は高い。
1953年4月に沖縄では布令109号「土地収用令」が公布/施行されて基地化が強引に進められた。
土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。
沖縄の基地化はアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついていたと考えるべきだろう。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。
ドイツ軍は1941年6月にソ連に向かって進撃を開始した。バルバロッサ作戦だ。
このソ連侵略でアドルフ・ヒトラーは西の守りを無視して約300万人を投入した。
西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)
ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。
生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。東部戦線での敗北は戦争自体の敗北も意味していた。
ドイツ軍がソ連侵略に失敗したのを見て
イギリスやアメリカは慌てて動き始める。
その年の5月に両国はワシントンDCで会談、ドイツに対する軍事作戦を作成した。
7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸している。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。
ドイツ軍がソ連軍との戦いに敗れると、ナチス親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、実業家のマックス・エゴン・フォン・ホヘンローヘをスイスにいたアレン・ダレスの下へ派遣している。ダレスは当時、戦時情報機関OSSの幹部だったが、ドイツの巨大資本と連携していたウォール街の弁護士という側面も持っていた。
1944年になるとダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領に無断でドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触しはじめたが、その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。大戦後に極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる人物だ。
その後、ウォール街の住人たちがナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。
ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。フランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月に急死すると、こうしたウォール街の住人がホワイトハウスで主導権を握ることになる。
1945年5月にドイツが降伏すると、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。
その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。
この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われて成功。
トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の幕開けを宣言、その翌年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
ルメイたち好戦派が目論む計画の障害になる人物が1961年に登場する。ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任したのだ。
ケネディは1963年6月、アメリカン大学の学位授与式(卒業式)で
ソ連との平和共存を訴えている。
ケネディ大統領が暗殺されたのはその5カ月後のことだった。
日本政府がルメイに「勲一等旭日大綬章」を授与したのは暗殺の翌年のことである。
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