タカちゃんの絵日記

何気ない日々の感動を、スケッチと好きな音楽と、そして野鳥写真を。。。

  ~「海を見に」 長田弘~・・・♪ 海は広いな大きいな~♪

2019-09-17 | 邦楽

 

私は時々海を見にゆく。  ただボンヤリと出掛けて行く。  そのひと時は何ものにも代え難い、心に沁み入る様な、満たされた時間が流れて行くのだ。  今朝は、弓ヶ浜半島のの松原を中海越に、伯耆富士の背中からゆっくりと、黄金色に輝くお陽さまを、漆黒の海にゆっくりと映しながら、静寂の中で明け行くひと時を過ごしてきた。   一日二十四時間、どの様に使うかは自由なのだ。   人間には、そんな自由な時間が必要だと思う。

『海を見に』 長田弘

海を見にゆく。  時々その言葉に内からふっとつかまえられて、よく海を見にいった。   どこでもいいのだ。   目のまえに、海が見えればそれでよかった。   なにもしない。 そのまま、ずっと、海を見ている。   水平線がぐらりと沈んでゆくように見える日もあれば、空が水平線を引っぱりあげているように思える日もある。   夕暮れの海にはいつでも、どこでも子供たちがいた。 遊んでいる。  喚声を上げて走りり回っているのだが、声は聴こえない。  犬は波が好きだ。   海をまえにするとき、言葉は不要だと思う。      私はただ海を見にいったのだ。   海ではなかった。   好きだったのは、海を見にゆくという、じぶんのためだけの行為だ。 

  万葉の昔のころからずっと、海を見ること、寄せては返す白波を見つめることは、この世のさまに思いを致すことでした。   海を見にゆく。  それはわたしには、秘密の言葉のように親しい行為だった。   何をしにゆくわけでもなく、ただ海を見にゆくということにすぎなかった。   海からの帰りには、人生にはどんな形容詞もいらないという、ごく平凡な真実が、靴の中にのこる砂粒のように、胸にのこった。    一人の日々を深くするものがあるなら、それは、どれだけ少ない言葉でやってゆけるかで、どれだけ多くの言葉でではない。・・・・・海辺が訪れるものにいつのときも語ってきたのは、地球というものを原初からずっとささえてきて、いまもささえているもの、地球を地球たらしめいる調和というもの、そういうものを思い出させる秘密ではないでしょうか。   その古くからの秘密こそ、・・・「海を見にゆく」ということが、私たちの心を誘って止まないものなのだろう。  ~長田弘・なつかしい時間~