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ばばの日記

団塊世代 仲良し夫婦の暮らし
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カイゴ

2009年03月06日 17時51分26秒 | 思い出

3月6日(金)

昨夕、買い物に行った店のお姉さんが

「あの蚕って気持ち悪いよねぇ」と言った。

 

蚕・・・・・・・約半世紀も前、ばばの家では蚕を育てていた。

方言では「カイゴ」と言っていた。

 

大きな、竹製で深さはない四角いカゴで蚕を育てていた。

わかりやすく言えば畳の約8割ぐらいの大きさの竹カゴを

何十も並べてそこに蚕を入れ育てるのだ。。

 

もう記憶も定かではないが、

蟻の3倍ぐらいの大きさの蚕の幼虫を、父か母かがどこからか持って来た。

今にして思えば「養蚕所」という施設が隣集落にあったので

そこから買ってきたか、依託されていたと思う。

無数の蚕の幼虫は、ワシャワシャ動き回り壮観だった。

蚕の餌は桑の葉。

だから、ばば達姉妹は学校から帰ると畑を回って桑の葉を集めた。

家に帰って、蚕のカゴの上に桑の葉をたっぷりのせる。

夜中など蚕が「シャワシャワシャワ」と餌を食べる音が

まるで小雨でも降っているように聞こえた。

蚕の成長は早く、みるみるうちに大きくなり

体長が大人の小指くらいになり、

しばらくすると体の色が透き通った黄色っぽくなる。

体が黄色くなった蚕は「あがる」と言って別のカゴに移す。

そのうち蚕は餌を食べなくなり繭を作る。

繭を作るための部屋?もあったと思う。

確か、格子状になったものだったが、木製だったかなぁ。。。。

全部の蚕が繭になって、しばらく経ったある日、

繭を全部集め、大きな大きな鍋にお湯を沸かし、その中でぐらぐら炊いた。

その後、母が糸繰り機で糸を紡いでいた。

繭からきれいな光沢の糸が巻き取られていく様は見ていて飽きなかった。

その糸を使って母は機織りもしていた。

自分の家で絹織物が出来ていたんだなぁ。

今思えば凄いことだと思う。

母が織った反物を染めて、ばばのために着物と羽織を作ってくれた。

世界に一つしかない貴重な一品だ。

 

昨夕、「蚕って気持ち悪いよね」って言ったSさんは

蚕を育てた経験はないらしい。

蚕は色こそ薄いグレー系だが、形は、ばば、大の苦手青虫系。

今、ばばは蚕を見たら飛びすさってしまうかもしれないが

小さい頃は平気で自分の鼻に蚕を乗っけて遊んでいた。

どうして、小さい頃平気だったのに

大人になってこんなに蚕を気味悪く思うようになったんだろう?

子どもの頃と、大人になってからでは、大きく違ってしまう感性もあるんだろうな。

 

「虫つながり」でいくと、ばばは大好きだったブロッコリーも

数年前からあまり食べられなくなってしまった。

なぜか?

無人販売所から買ってきたブロッコリーを冷蔵庫に入れていたのだが

数日後、取り出して料理に使いましょうと茹でたら

何と青虫がプカップカッとお湯の中に浮いてきたのだ。

きれいに洗ったつもりなのに、房の中にでも潜んでいたのだろうか?

又、ある時、買ってきたブロッコリーを冷蔵庫に入れていて、出したら

何と、大きめの青虫が表面に。。。。

・・・と言うことは?冷蔵庫の中でも青虫は育つんだよねぇ~。

あれ以来、ブロッコリー=青虫と頭の中にインプットされてしまったらしい。

あの青虫は、成長したら何に変身するんだろう?

 

 


すぐ、そこ・・・・

2009年02月15日 19時23分49秒 | 思い出

2月14日(土)時々小雨

「近く」「すぐ、そこ」と言えば、

ばばの意識の中では、せいぜい身の回り2,300メートルくらいまで。

しかし、違うんですなぁ・・・・・

「すぐ、そこ」の意識が?

ばばが変なのか?

他の人が変なのか?

 

徳之島は狭い。

特にばばの小さい頃までは車もなくどこへ行くのも徒歩。

隣近所も軒を並べていて、大声で呼べばお互いに聞こえるほどの近さ。

小学校時代は学校までも一キロはない。

友達の家も一番遠くても200メートルくらいしか離れていないという環境で育った

「井の中の蛙」のばば。

 

こんなばばが、今から20年ほど前、

姪の結婚式に出席するため姉と一緒に東京へ行った。

無事結婚式も終わった次の日、

姉の友人のM兄さんが東京タワーを見せてあげるという。

ばば達が泊まっていたホテルから東京タワーは

すぐ目の前に見えた。

M兄さんが「すぐそこだから、歩いて行こう」と言った。

姉とばばは、着替えなどが入ったボストンバッグを肩に

M兄さんの後に従った。

(もう、着くかな?)と思いながら、汗を拭き拭き

歩けども歩けども、東京タワーには着かない。

(まだ?)と救いを求めるようにM兄さんを見ると

「すぐそこだから、もう少しだよ」と涼しい顔で言う。

おかしなもので「すぐそこ」と聞けば、又元気が出て歩けるから不思議。

何回,M兄さんの「すぐ、そこ」という言葉を聞いたことだろう。

歩き始めて40分以上も経った頃、やっと東京タワーの足元に着いた。

はぁ~~やれやれ。

ばばと姉は思った。

「東京の(すぐ、そこ)の遠いこと、遠いこと」と。。。。。。。。。

20年たった今でもあの時の「すぐ、そこ」のことを思い出しては

ばばと姉は大笑いする。

「東京のすぐ、そこ」って、徳之島の4分の一周ぐらいあるんですねえ。。。(大袈裟??)

 

あと一つ、「すぐ、そこ」の思い出が。

家族で鹿児島に行った時のこと。

船で行ったので、港で船を下り市立病院まで行くことになった。

ばばなら、すぐタクシーに乗るのだが、じじが

「すぐそこだから、歩こう」と提案。

この時、ばばは市立病院の位置を知らなかったので

ほんの2,3分では着くと思いじじに従った。

「お父さ~ん、まだ?」と聞く娘たち。

ばばだって「じじ~~まだ~~」と聞きたかったが

幼い娘たちのことを考えグッと我慢した。

歩いて歩いて歩いて・・・・・・・・・・・・・

どのくらい歩いただろう?

じじ一人元気、ばばと3姉妹はげんなりして、

やっとの思いで市立病院に到着したのだった。

この時、ばばは思った。

(じじの、すぐ、そこは信じないぞ)と。

 

そう言えばじじ母が何回かばばに話すことがある。

「若い頃はよくお父さんと旅行したんだけど、

どこまでもどこまでも歩かされるので疲れてしまって、

・・・・だから、お父さんと旅行に行くのはイヤだったのよ」と・・・・・。

 

父子って、似るのかなあ。。。。。。

 

「すぐ、そこ」・・の他にばばにとっては「近くて遠い場所」がある。

それは、家の向かいにあるカラオケスナック。

家の階段を下り、そのまま道路を渡ればスナックなのだが、

ばばはカラオケとかに全然興味がないので

足を踏み入れることはない。

本当は目と鼻の先のカラオケスナックだが、

ばばにとっては「近くて遠~~~い場所」なのだ。

 

 

 

 

 


河童の鳴き声って?????

2009年02月11日 16時03分34秒 | 思い出

2月11日(水)

月曜日の晩、NHKの「家族に乾杯」という番組を見た。

鶴瓶さんと浜口京子さんが岩手県遠野市を旅行して

地域の方々とふれ合う内容だった。

遠野と言えば、ばばの大好きな民話のふるさと。。。

民話と言えば、河童も良く登場する。

河童に騙される話、河童と相撲を取る話等々。。。。。

 

河童と言えば、ばばの実家のある集落でも

昔は集落を流れる川の河口付近には

河童がいるから近づくなと言い聞かされていた。

実際、ばばの一つ後輩の子が

この川で溺れて亡くなるという悲しい事故があった。

「河童に水の中に引き込まれた」と大人はばば達に教えた。

後になって考えれば、この場所は山に挟まれた所で

昼間でも鬱蒼とした山道を下って行かなければならなかった。

いくら大胆なばばでも一人では怖くて、この川には行けなかったし

母と一緒の時も、何だか両側の山の中から

何か得体の知れない物が出てきそうでキョロキョロ左右を見ながら

必死で母の後を追ったものだった。

 

きっと、大人達は、この川はあちこちばば達の身長よりも深い場所があり

危ないので、「子どもだけで行かないように」と言う代わりに

「河童がいるから・・・・」と脅かしていたのだろう。

 

河童と言えば絵本で見るくらいしかなく

イメージもあまり湧かないが、何処かのお寺には

「河童の全身のミイラがある」とか「掌のミイラがある」などと聞いたり

テレビの映像で見たことはある。

やはり、得体の知れない怖い生き物として

ばばのアタマにはインプットされているが

遠野のある方は「河童は見るものではなく、会うものだ」って言っていた。

なるほど。。。。何だか分かるような気もする。

河童のことが胸の何処かに引っかかっていた昨夕

夕方の買い物に出かけた途中で、

同じ店で買い物をするSおばちゃんに会った。

おばちゃんは70代後半でいつも手押し車を押して歩いている。

そして、いつの間にか道路の真ん中の方へ歩いていってしまうので

ばばが見かけた時はなるべく、

おばちゃんが道路の端を歩くようにエスコートしている。

昨日もおばちゃんの腰に手を回し、エスコートしながら歩いていると

突然「あなたの実家のある集落では、

よく河童が鳴くってよ」と言いだした。

前日、河童伝説のテレビを見ていたせいか

ばばの耳は一瞬にしてダンボ状態になった。

「エッ」と聞き返すと、おばちゃんは再び

「あなたの実家のある集落の川では、夜になるとよく河童が鳴くんだってよ」と。。。。。

 

ヒョエ~~初めて聞いたよ~~~~

興味津々、耳を傾けると「昔、友達の○○さんがよく話してた」って。

 

なあんだぁ~~昔のことかぁ~~~

ばば、びっくりしたよ~~。

それにしても、昔って、いつ頃のこと?

何年前くらいのこと?

河童って、どんな鳴き声を出すんだろう?

 

河童とか、ケンムン(島の妖怪の一種???)とか、聞くけれど

実物を見たことはないが、

「あれが、ケンムン?」と思ったことは2回あるよ。

河童は一度も見たことも会ったこともない。

今、「河童がいる」と言われていた実家近くの川へは行けるのだろうか?

昔から、狭い山道だったけれど、今は道いっぱいに

鬱蒼と草が生い茂り道もなくなっているかも知れないなぁ。。。。

怖いけれど、もう一度行ってみたいな。あの川に。。。。。

♪シイの実 拾いし かの山~

河童 いると言う かの川~~♪

 

今は川で洗濯する人もいないし

近くの山の木を切る人もいないだろうから

ばばが子どもの頃よりも河童達はのびのびと暮らしているかも知れない。

 

本当に河童はいるのかな?と思いながらも

いて欲しい。。。と思うばばである。

 

 


田んぼの泥から始まった!

2009年02月05日 13時31分34秒 | 思い出

2月5日(木)

ばばは、迷う。

洗髪する時、迷う。

お店に行った時迷う。

何を迷うかって?

シャンプー類の多さに。

 

ばばの子どもの頃なんて、シャンプーやリンスなんて無かった。

だから、何と田んぼの泥で髪を洗わされたこともある。

母が「田んぼの泥で髪の毛洗っておいで」と言うと

何の疑いもなく、友達と一緒に

家から一番近い他人様の田んぼに行って、

田んぼの泥を髪の毛に塗りたくってマッサージして

少し移動して、水のきれいな所ですすいで洗髪完了!

 

又、親から教えられたか、自分たちで考えたかは定かでないが

ハイビスカスの仲間?の葉っぱを石ですりつぶしてヌルヌルにし、

洗った後の髪の毛に塗ってリンス代わりにもしていた。

 

あの当時の大人も、子どもも、みんな髪の毛はきれいだったと思う。

髪の毛に付ける物と言っても、ばばの家には「椿油」だけがあった。

 

泥シャンプー時代からしばらく経って、

今度は「髪洗い粉」なる物が登場した。

ちょっとねずみ色っぽい粉が、今の歯磨き粉の入っている

箱らいの大きさで四角い紙パックに入っていた。

髪に付けてもガサガサするような気がしたものだ。

 

それから又しばらく経ってやっと今のシャンプーや

リンスの前身なる物が登場した。

余所の家庭ではどうだったか分からないが

ばばの家では髪を洗う時は洗面器に水を少し入れ、

シャンプー液を少し落として手でかき混ぜて髪に付けて洗った。

リンスも同じように薄めて使っていた。

 

しかし、あれから半世紀近く経って、

今、スーパーなどに行くと、シャンプーもリンスも

ある、ある・・・・・・・・・・・・・色々な種類が。。。。。。。。。

そして、テレビでは髪の毛のきれいな女優さん達が大勢登場して

「これでもかっ」っていうくらい宣伝している。

入れ物もカラフルで。。。。。。

おまけに、シャンプー・リンスの他に

コンディショナーなる物やトリートメント等々

どれとどれがどう違い、どれをどう使えばいいか分からないほどの数の商品がある。

 

ばばも、色々なシャンプーやリンスやコンディショナーや

トリートメント剤を使ってきた。

でも、今イチ、どれがいちばん良いのか判断しかねている。

値段とか、香りとか、パッケージとかでなく

自分の髪質に一番会う物が良いのだろうが、

決めかねるくらい種類が雑多だ。

行きつけの美容室の方のアドバイスで使ってみた商品もあるが・・・・・・・

 

昨年あたりから、じじも男性用のシャンプーを使うようになった。

それまでは石鹸でゴシゴシ、またはばばと共用で使っていたが、

ある時から男性用のシャンプーに替えた。

それで、何が、どう良くなったのか、変化がないのか

効用はさっぱり分からない!

 

先日じじのシャンプーが切れたのでお店に行った。

しかし、去年買った商品はもう無かった。

あれば、詰め替え用を買おうと思っていたのに当てが外れた。

そこで、あるタレントさんが宣伝している

ちょっと高価な「薬用シャンプー」なる物を買ってきた。

じじ、使い心地はどう?

 

シャンプーやリンスの移り変わりはファッションと同じくらい激しいね。

おまけに、あんなにたくさんの種類があって、売れ筋商品と

そうでもない商品があるはずなのに。。。。。

あまり売れない商品はいつまでもスーパーの棚に

置かれっぱなしになっているのだろうか?

ちょっと興味が出てきたぞ!

 

食料品などは賞味期限・消費期限がある物が多いが

シャンプーやリンス等、洗髪用品などは、どうなんだろう?

 

又、日本では何種類くらいのシャンプーやリンスなどが出回っているんだろう?

調べてみたらおもしろいかな?

 

シャンプーやリンスが、たった数種類しかなかったばばの子ども時代。

あまりに多くの種類が出回っている今。。。。

はたして??????


タンニャ

2009年01月23日 18時22分39秒 | 思い出

1月23日(金)

最近の子どもたちは「タンニャ」と聞いても

「何?それ」と思うだろう。

ばばの記憶の中ではタンニャは友達・ペット・時々食糧だった。

タンニャとは?

タ・・・は田んぼ  

ン・・・は「~の」

☆もしくは「タン」で田んぼのという意味かな?

ニャ・・は貝

とでも訳せば良いのかな?

田んぼの貝、即ちタニシのこと。

 

ばばが子どもの頃は米の減反政策などというのもなかったし

農家の現金収入はお米とサトウキビだった。

ばばの家でも5カ所くらい田んぼがあり

米作り作業は黒糖作りと並んで二大労働だった。

米作りのうち田んぼの中での作業で

ばばが一番好きなのは田植え作業だった。

田植えの後は「田の草取り」という作業もあった。

その後が稲刈り。

この3回の田んぼの中での作業のうち

どの作業の時だったかは忘れたが、

仕事よりタニシや鮒を捕まえるのがばばは好きだった。

当時は田んぼにはヤゴ・鮒・タニシ・ドジョウ・ヒル・ミズスマシなどもいた。

ばばが好きだったのはタニシと鮒。

二つとも捕まえた後持ち帰り家のミカンの木の側に置かれた

大きな瓶や壊れた鉄ヤカンの中で飼うのが楽しみだった。 

どういう訳か鮒は持ち帰るとあまり長生きしなかったが

タニシはけっこう長生きし

ある朝突然、赤ちゃんタニシがいっぱい生まれていたりして

嬉しかった。

親タニシそっくりの小さな赤ちゃん達が

鉄ヤカンに張り付いて動く様子が可愛かった。

何日か過ぎるうちに赤ちゃんは大きくなり

中には死ぬタニシもいたけれど小さな鉄ヤカンの中で

繰り広げられるタニシ達のドラマがおもしろかった。

このタニシ、ばばが壊れた鉄のヤカンで飼っていた頃も

脱走していたか定かな記憶はないが

加計呂麻にいた頃水槽で飼っていたタニシが

夜中に全員脱走し床に転がっていたのにはびっくりした。

水槽は机の上に置いてあったので大体1メートルくらいの高さから

落ちたタニシ達、固い殻のおかげか全員?無事だった。

落ちた瞬間は脳震盪を起こしたかもしれないな。

タニシに脳ってあるのかな?

 

このタニシ、何回か母が焼くか炊くかして

食べさせてくれたような気がする。

当時の重要なタンパク源だったと今は思う。

味は????普通の貝類と同じだったかなあ?

 

昔(ばばが子どもの頃)は理科の教科書に

タニシが出てきたかな?????????????

今はタニシを知らない子が多いと思う。

何処に行けばタニシと会えるのだろう?

 

国の減反政策によって、もう何十年も

徳之島で稲作はほとんど行われていない。

個人的にほんの少しだけお米を作っている所は2,3カ所ある。

だから、子どもたちは毎日のように食べているお米が

どのように作られているか、どのよう名成長過程を経て、

どのように実るのかさえ知らない子どもたちがほとんどだと思う。

代の移り変わりとはいえ、少し寂しい気がする。

 

ばばがタニシを見ることがなくなって何年か経った頃

ジャンボタニシなる生き物が輸入?されて?

学校の池にもいた。

「タニシ」と聞いてばばは子どもだった頃の

黒っぽいタニシの大きなものを想像したが

ばばの意に反して、薄茶色と白の斑模様があるような長い巻き貝で

ちょっと気味悪くびっくりした。

ある朝、学校の池の縁石いっぱいにピンク色のツブツブがあって

それがジャンボタニシの卵と知った時はゾッとした。

今は害虫として焼き捨てられているというジャンボタニシ。

同じ「タニシ」の文字を持つ生き物でもこんなに違うんだなあ。

 

人間は思いつきで色々な動物を安易に輸入したりしてはいけないと思う。

ジャンボタニシも、奄美のハブの天敵として放たれたマングースも

今や奄美の生態系を乱す有害動物になっている。

 

子どもだった頃、色々な生き物と共存していた時代に

郷愁を感じるばばだ。

年のせいかな? 

 

 


今どきの・・・・・

2009年01月14日 18時20分16秒 | 思い出

1月14日(水)

ばばが小学生の頃も運動会の時は

「提灯ブルマース」なるものを着ていた。

だが・・・・・

その体操服なるブルマース、ランドセルに入れて持ち運んでいたのか

それとも、別にバッグを準備していただろうか?

ばばにははっきりした記憶がない。

 

今から20年近く前までは、巾着袋のような物に

体操服を入れてランドセルの横にぶら下げている子が多かった。

だから、修了式が近くなると、ばばはクラスの人数分巾着袋式の

バッグを作り子どもたちにプレゼントしていた。

 

それから数年後にはナップサック型になって

ランドセルの上に、更にナップサックを背負うようになった。

それから更に何年か経ってリュックを背負う子も出てきた。

中にはランドセルより大きなリュックに体操服の上下を

入れている子もあり「リュック、重かろうに・・・・」

と、ばばは思ったものだ。

手提げ型のキャラクター物の大きめのバッグに入れている子もいた。

時代と共に「体操服入れ」も変わってきたなあと思う。

 

ばばの家の下を毎朝夕、登下校する小学生を見ていると

やはりランドセルの上にリュックを背負っている子

手提げを持っている子・・とさまざまである。

 

買い物に行った店で「近視の手術」について話題になった。

先週、大阪で手術を受けた方がいて

何と両目で15分ぐらいで手術は終わるそうだ。

麻酔も点眼で・・・・・・

系列病院が3つあるそうで、この3病院で

1ヶ月に行う視力回復手術数は約1万件くらいだって。

現は片目手術する費用は8万円(7万だったっけ?)とか。

でも、7年保証があるんだって。

今回手術を受けた方は手術後の視力が

何と1,2と1,5になったそうだ。

その方の話によると、老眼も視野狭窄も手術で直せるそうで

ツアーを組んで手術に来る人たちもいるって。

凄いもんだなあ・・・・・今時の眼科手術。

 

 


再生

2009年01月11日 14時32分35秒 | 思い出

1月11日(日)

   

ばばの実家の庭。

上の写真は6月に剪定した後の画像。

マッコウの木ミカンの木

剪定から6ヶ月。

半分諦めていたけれど、見事復活した庭木。

凄いなぁ・・・と感動!

これからは定期的に剪定をし雑草を抜き

父が遺して暮れた庭木を今まで以上に大切に守っていきたい。 

 門から表玄関を臨む  

 

蘇ったマッコウの木・クロトン

 

 

門の入り口から風呂屋を臨む

 

今朝は起きてすぐ温度計を見ると12度。

でも、昨日より寒いとは感じない。

雨も降っていないし、風も穏やかだ。

朝ご飯を終わって「さて動き出そうか」と思っていたら

お客様。

ばばが約30年前の職場で一緒だった大先輩だ。

ばばより20才以上年上だがとても若々しい。

今朝は野菜と観葉植物等届けて下さった。

先輩は天城町にお住まいで今でも碁・庭いじり・

野菜作りなど頑張っておられる。

今日も早くから車をご自分で運転され、真心こもるプレゼントの数々を・・・・

ほうれん草は長さ優に50㎝はある。

キャベツも瑞々しくて美味しそう!

化学肥料はいっさい使ってないと言う。

だから、ばりばり生食しなさいと。。。。

有り難いなあ。

30年近くもわざわざ大先輩が後輩のばばを訪ねて下さる。

ばばが先輩の居住地域で働いていた時は

季節季節の新鮮フルーツなどを職場まで届けて下さった。

同じ職場で4年ほど働いただろうか?

あれから約30年の年月が過ぎても

ばばのことを忘れず可愛がって下さる。

こういう先輩に恵まればばは幸せ者だ。

瑞々しいほうれん草とキャベツ。

 

名前は分からないけれど・・・・観葉植物


首っ切り豚の子(首のない豚の子)

2009年01月06日 22時14分43秒 | 思い出

1月6日(火)

ばばが以前ブログに書いたことがある

「首の切れた豚の子」の話を今日ある人から聞いた。

 

ばばの実家へ向かうには県道から急な坂道を登る。

坂道にかかる手前右手には共同墓地がある。

坂道を登りつめた所には「墓地礼拝所」があり

子どもの頃からこの場所では墓地に向かって礼をしていた。

 

登下校にもばば達は必ずこの墓地礼拝所を通っていた。

 

ばばが子どもの頃(小学生の頃)、この礼拝所近くでは

首のない豚の子が現れると言い聞かされていた。

近くの道端には「ワンクヮ花」という花も咲いていた。

ワと言うのは方言で豚という意味。

クワァというのは方言で子どもという意味で

「ワンクワァ」で「豚の子ども」という意味である。

どうして、あの花がワンクワァ花って呼ばれていたかは定かではない。

1本の草にオレンジっぽい小さな花がたくさん咲いていたと記憶する。

 

何故、あの場所に首のない子豚が現れると言われていたのか

その訳は分からない。

ばばが聞いた話では首のない豚の子がお墓へ続く坂道の下から

上の方(墓地礼拝所の方)へ坂道を駆け上がって来るのだと言うことだった。

 

首のない豚なんてあり得ないと思いながらも

少しユーモラスで、少し怖い。

ばばは幸いと言おうか今日まで一度もこの子豚と遭遇したことはない。

 

しかし、今日ある人から色々な話を聞いている中で

首のない子豚の話を聞いた。

大分前のことらしいがある親子が、

夕方、墓地礼拝所近くの坂道を下っていると

下の方からもの凄い勢いで首のない子豚が走ってきたそうだ。

大変な物を見てしまったと、親子は家へ帰るや、

親が子どもを家の外に待たせて、家の中に入り

一握りの塩を掴んで子どもの体に振りかけて体を清め

自分の体も清めたそうだ。

しかし、その親はその晩から訳の分からない高熱を出し

長いこと寝込んでしまったそうだ。

 

・・・・・・・・・・・・・と言うことは?子豚は悪者?

ばばの中では何故か「豚の貯金箱」のモデルのような

コロコロした可愛い子豚が3匹・・・・・というイメージがあるが。。。。。。

と言っても顔は無いわけで・・・・・やはり怖いかな?

 

ばばに話してくれた人によると

こういう物は見える人には見えるが、

見えない人には見えないんだって。

 

そう言えば、ばばの父もこういう話をしてくれたことがあった。

父の父(つまり、ばばにとって祖父)から聞いた話としてだが。

祖父は、ばばの家のある下の集落で家の建築の仕事を手伝い

その後お祝いがあって帰りが遅くなったので

提灯を借りて夜道を照らしながら帰っていたそうだ。

そして、墓地礼拝所近くまで坂道を登った所で向こうから

大きなボールのような物が祖父めがけてもの凄い勢いで転がってきた。

祖父の目前までボールが来たので祖父は片手に持っていた杖を

思いっ切りボールめがけて振り下ろした。

すると、次の瞬間、ボールは、真っ二つに割れ

半分は坂道の下へ、残りの半分は坂道の上へ勢いよく転がりだしたって。

祖父は持っていた提灯を放り投げて、一目散に家に逃げ帰ったって。

次の朝、まだ薄暗いうちに放り投げた提灯を取りに

その場所に行ったら提灯は燃えることもなく

ちゃんと祖父が放り投げたあたりにあったって。

 

首のない子豚の話にしても、ボールが真っ二つに割れて

上下にそれぞれ転がった話にしても

信じがたいけれど、本当にあった話かも知れないと

ばばは思う。

じじは一笑に付してしまうと思うけれど。。。。。。。。。。。

 

お墓の近くと言うことで、昔から色々いわれがあるのかなぁ・・・・


のどかですなぁ~~~~

2009年01月03日 21時13分46秒 | 思い出

1月3日(土)時々小雨

お正月三が日も今日で終わる。

あんなに準備したのに、終わってみれば何と言うことはない。

 

時間は同じ速度で流れていく・・・・・・・・・・・

いつもは家の下を通り登下校する子どもたちの賑やかな声も

北へ南へ行き交う車もまばらで

ほんとう~~~にのんびりしたお正月だった。

 

ばばが子どもの頃は正月と言えば

両親は数ヶ月も前から色々な準備をしていた。

父は山から木を切り出し牛に引かせて運び乾かし

適当な長さに切り、それを親戚のお兄さん達と共同作業で

夜に割って一年分の薪として積み上げていた。

また、正月の何日か前になると

自分の家で飼っている豚をつぶし(残酷だけどしかたないね)

母は豚肉を塩漬けにしたり、脂身からは油を作ったりして

保存食を作っていた。

豚のつぶす現場は今思い出しても可愛そうだった。

ハシゴに逆さにくくりつけられた豚・・・・・・・

思い出しても辛いが、人間は生きるために色々な物を食べなくちゃならないからね。

ばばが20代になる頃は集落内で・・と言うか

自宅で豚を飼う人はいなくなり

畑の中に豚小屋を造り餌を運んで飼育するようになった。

衛生面から色々問題があったのだろう。

 

正月には浜の白砂を運んで庭に撒くのも習わしだった。

門松や鏡餅の準備・・・・・・松・竹・ユズリハ・シイの木の枝・ウラジロを揃えていた。

そして、門松は、門に浜砂をピラミッド型に積み上げ

その中心に飾り、根っこの方には何故か短い薪も3本飾っていた。

今は、薪を飾っている家は、ばばが今年見た限り皆無だ。

暮れも29日頃には各家庭で餅をつき鏡餅を作っていた。

鏡餅を作った後は、丸餅や伸し餅にしていた。

丸餅はお雑煮に入れたり焼き餅にして食べたが

伸し餅はカラカラに乾かしてカンナで突いてかき餅にしていて

これも保存食だった。

 

子どもが「もういくつ寝るとお正月」と楽しみにしたのは

新しい洋服や、大きな手鞠、下駄、羽子板などを買ってもらえるからだった。

ふだんはそんな贅沢は出来なくても

お正月だけは特別だった。

 

ちょっと年長の男の子達は

畳一枚ほどもある(それ以上大きかったかも知れない)凧を作っていた。

竹で骨組みを作り、紙を貼って文字や絵を描き自慢の凧に仕上げていた。

ばばの家の裏の方は絶好の凧揚げ場所だった。

大きな凧がいくつも空に舞う様は壮観だった。

おまけに尻尾に付けた縄が唸るような音を出すのがおもしろかった。

 

正月の遊びと言えば女の子はまりつき、男の子は凧揚げと決まっていたなぁ。。。。

 

今のお正月に手鞠を買ってもらう子はいないだろうな・・・・・・・・・・

まりつきがうまくできる子がいるかなあ・・・・・・・・・

男の子でも自作の凧を揚げる子がいるだろうか・・・・・・・・・

 

今の子の遊びと言えばゲームかなあ・・・・・

 

我が家で今年正月したことと言えば・・・・

ばばが切ってきた松や竹で門松を飾り、鏡餅は市販品。

お餅の上に飾ったミカンは姉の実家から取ってきた葉っぱ付きの小ミカン。

お雑煮は食べたけれど、、、、、

おせち料理も金柑の甘露煮・ごまめ・根菜煮付け・豚骨の塩煮など

いくつか作ったけれど、食べたのはじじだけ。

 

変わったなぁ~~お正月も。


いつの時代も

2008年11月25日 17時45分20秒 | 思い出

11月25日(火)

いつの時代も女の子は可愛らしく・美人になりたいと願い

男の子はハンサムでかっこよくなりたいと願っているんだろうな・・・・・

 

ばばの家からは登下校する小・中・高の子どもたちがよく見えるが

最近の子どもたちは体格が良くなり、可愛くなったなあとつくづく思う。

そしてスーパー・空港・港・町中で見る若い女の子達はみんな可愛い。

ファッション・髪型にしても都会の子とほとんど変わらない。

 

昔々のその又昔、ばばが子どもの頃はおしゃれなんて考えることもなかった。

おしゃれより、元気いっぱい遊び回るのがみんな好きだった。

 

とは言うものの、小学2年生の時に美人?になりたくてあることをやった。

今でも鮮明に覚えている。

当時、女の子は「鼻が高かったらなぁ・・・」という子がたくさんいて

昼休みとかになると校庭の銀杏の落ち葉を拾っては、その茎を使って

鼻の高さを測って遊んでいた。

でも、友達と比べて「高い」「低い」と比べることもなく

ごくごく平和的な光景であった。

 

ある日、一級先輩のMちゃんが

「夕べ洗濯ばさみで鼻を挟んで寝たら、朝、鼻が高くなっていた」と言った。

学年が違うし、Mちゃんの鼻が高くなったかどうかなんて、ばば達には分からなかった。

でも、Mちゃんは何を根拠にしたかは分からないが

「確かに鼻が高くなった」と言うのだ。

 

ばば達はシレェーーと聞いていたが、内心は興味津々。

ばばも早速家に帰って母から洗濯ばさみを一個借りて寝る前に鼻を挟み、

心の中で「鼻高くなあ~~~れ」と念じながら寝た。

翌朝、目覚めて鏡で自分の顔を見てびっくり、そして失望。

ちぃっとも鼻は高くなっていないし、おまけに鼻の両側には

洗濯ばさみで挟んだ跡が赤く付いている。

なるべく顔を上げないように教室に入ったが、ばばの他にも同じように

鼻の両脇に赤いスジをつけた友達を発見してばばは何だか嬉しくなった。

でも、この出来事以来、「決して友達の口車に乗るまいぞ」と

ばばは決意したような気がする。

 

高校時代も、おかっぱ頭を三つ編みにしたくらいで、何らおしゃれをすることもなく

ただ、ひたすら図書室へ通い本を読んで日を過ごした。

 

大学で鹿児島へ出て、ばばの視野はぱぁ~っと広がったような気がする。

学生寮で2年間過ごしたが

口紅一つ塗っていなかった離島出身のばば達に比べ

鹿児島の友達はお化粧をしていたし、おしゃれのことを良く話題にしていた。

 

ある日、ばば達も少しくらいはおしゃれをしようと、

親友のJちゃんと談話室に入り戸を全部閉めた。

そして、繁華街、天文館で思い切って買った安物のファンデーションを

そぉっと塗ってみた。

談話室には鏡もなかったのでコンパクトの小さな鏡を見ながら・・・・ね。

初めての化粧故、どのくらいつけたらいいのか予想もつかないばばとJちゃん。

思い思いに自分の納得いくまで塗って口紅も塗ってみた。

紅筆を使うこともなく、直塗りで・・・・・・・・・・・・・・・

さて、思う存分お化粧をしたつもりでお互いの顔を見合ったJちゃんとばば。

次の瞬間二人同時に「プゥ~~~~~ッ」と吹き出してしまった。

思い切りファンデーションを塗ったJちゃんの顔(ばばも同じだったろうが)。

ファンデーションの塗り方はムラがあり、口紅もきちんとは塗れていない。

可愛くなったなんていうものではない。

かえっておかしな顔になってしまっていた。

ばばと、Jちゃんは畳の上を転げ回りながら

お互いの顔を見ては笑い、涙を流しながらお腹が痛くなるほど笑った。

 

どのくらいの時間だったか、ばばとJちゃんの「「大変身中?」

誰も談話室の戸を開ける友達がいなくてラッキーだった。

ばばとJちゃんの初化粧は散々なものだった。

 

その後も友達は髪にカーラーを巻いてウェーブをつけたり

睫を長く見せる化粧法をしたり

マニキュアを塗ったりとどんどん進化していったが、ばばとJちゃんは全然進化無し。

 

ばばはその後も「進化無し」のまま今日に至っている。