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ばばの日記

団塊世代 仲良し夫婦の暮らし
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話を聞かない男・地図が読めない女

2008年11月20日 21時53分56秒 | 思い出

11月20日(木)室温18度

旅行から帰ってきた日と今日の温度差約10度。

今日は秋らしい1日になりそうだ。。。。。。。。。。。。。。。。

 

 

もう何年になるだろうか?

「話を聞かない男・地図が読めない女」という本がベストセラーになったのは。

ばばは、この本を読んでいないが、

きっと男脳と女脳の特徴みたいなことが内容になっているのだろうか?

この本のタイトルは正にじじ&ばばにピッタリ当てはまる。

 

じじは、ばばが話しかけるといつも受け答えはしてくれるが

後でその返事を求めたりすると「エッ?何だったっけ」と言うことがよくある。

これは加齢によるものだけでなく、きっと「男脳」のせいなんだ・・・・・・・

一方ばばは?ハイ、本のタイトル通り全く地図が読めない女そのものです。

地理なんて一番嫌いな分野です。。。。。

 

唯一ばばが地図を見て頑張ったのは東京オリンピックが開催された年、

高校生だったばば。

世界地図を見ながらオリンピック参加国の位置と国名と国旗を覚えるという課題があった。

必死で覚えた。

テストは見事合格した。

でも、今、あの時必死で覚えた国名も国旗もほぼ全部忘却の彼方。

こんなばば、鹿児島以北の旅行ともなると、いつでもじじ頼み&娘頼み。

「目と口があるから、どこへでも行けるよ」とじじは言う。

 

じじは、若い頃からバイクが好きで60代だった父と3,40代だった義兄とじじで

日本全国あちこちツーリングを楽しんでいた。

一人で出かけることもあった。

北海道・四国・本州・沖縄と。

見知らぬ土地を風を切ってバイクですっ飛ばす・・・・男のロマンだなあ。

 

だから、どこへ旅行に行ってもどんどんあちこちへ出て行く。

ばばはしっかりとじじの上着の後にぶら下がって「引っ付き虫」状態。

 

こんなじじとばばだから、東京へ行ってもじじは毎日のように自由に歩き回り

ばばはひたすら家の周り半径1㎞内外で大人しく行動する。

 

又旅行へ行っても嗜好が真逆のじじとばば。

じじの好きなもの・・・バイク他機械類・・と言っても昨今はパソコン関係が一番の関心の的。

ばばの好きなもの・・・本・おいしい料理・ウインドウショッピング。

 

だから、今回の旅行でも東京滞在7日間、じじは毎日秋葉原へ出かけた。

小さな部品を買って帰ることもあれば、手ぶらで帰ってくることも多く、

(戦果なしか?)と思いきや旅行から帰ってくると

大きな箱がドオ~~ンと届いた。

(お主やるな)

またまたパソコンだ。全くもう~~~。

 

ばばは、チマチマと近所の商店街を回っては書店を覗き、

珍しいお菓子や食材はないか目を凝らし

素敵な洋服はないかとキョロキョロ。

でも、お店に入る勇気はない。

だって、店員さんにあれこれ言われるのが嫌だから・・・・・・

 

そしてそして、、ばばが娘たちに自ら告白して笑われたことと言えば、

約9ヶ月前にもブログに書いたと思うが「右折病」。

娘たちの住まいまで駅構内を出ると6~7分。

駅から家に帰る時は胸を張って堂々と迷うことなく一直線に帰れるばば。

しかし、家から駅へ向かう時は

どうしても二つ目の角のコンビニ前に来ると「右折」したくなるのだ。

娘たち、じじからは「ばばは、かえって遠回りしているよ。

駅に行けないことはないけど何でそんな遠回りをするの?」と不思議がられ、バカにされる。

 

でも・・・・ね、遠回りって言うけどじじ&娘たちと歩く同じ道なんだよ、ばばが通っているのも。

「じゃ、お母さん、右折してなくて私たちと同じ道を歩いてるんだよ。

お母さんの頭の中だけで右折したつもりになっているのかも。

お母さんって不思議・・・」と娘たちは言い、

長女も「お母さんって本当に不思議ちゃん」と笑う。

じじに至ってはあきれ果て諦めきっている。

 

コンビニの角に来ると娘たちは

「お母さん、右折しちゃダメよ。直進直進。」と教える。

ばばも「直進・直進」と呪文を唱えながら歩く。

自分でも呆れるほどの方向音痴の地図音痴。

 

今回の京都旅行でも次女が「私、地図が読める女で良かった」と呟いたのを

ばばは聞き逃さなかったぞ。

ばばに似ないで本当に良かった良かった。。。。。。。。。。。。。


ばばの初恋・他

2008年10月31日 17時55分46秒 | 思い出

10月31日(金)後小雨

ばばの初恋?

それは小学6年生の時。相手は担任の先生。

別に手紙をだすわけでなし、ただ心の中で(素敵だなぁ???)と思っていただけ。

ところが、ある日、ばばに恋敵が現れた。

なぜ分かったかというと、いつも一緒に帰るNちゃんと下校途中に

「好きな人はいるか?」という話になった。

二人とも恥ずかしいので「いっ、せぇーのぉーでぇ~~」で

一緒に好きな人の名前を言い合う羽目に。

そして何と二人の口から同時に出たのは担任の先生の名前。

ばばはショックだったが,Nちゃんもショックだったかも。

でも、一瞬後には二人とも声を上げてゲラゲラ笑い始めた。

涙が出て、お腹が痛くなるまで笑った。

何であの時、涙を流し笑ったのかは今でも解説?出来ない。

急な上り坂道を帰りながら、二人が次にとった行動は?

声を揃えて「好きな人は、○○○○△△△~~~~」と大きな声で歌うように言い続けたのだ。

その言い方がおもしろい。

今でもはっきり覚えている。

例えばその先生の名前を仮に山田真吉としよう。

ばばとNちゃんが言うのは「山田、真太郎、吉八郎ためとも・山田真吉!!~~~~~~」

と、節を付けて言うのだ。

坂道を上る二人の歩調に合わせ、何回も何回も叫んだ。

近年「世界の中心で愛を叫ぶ」というフレーズを何回も耳にし、目にしたが

ばばとNちゃんはまさに「坂道を上りながら愛を叫ぶ」状態だったのだ。

いくら担任の先生が好きだと言っても、ばばとNちゃんの行動も変わることなく

ただ、少しでも勉強頑張ってみようかな?とは思ったが

午前の授業中は2階だった教室の窓から見える山の中腹の穴には何が住んでいるか

気になり、ずっとよそ見をしては叱られ

昼の授業は当時給食がなかったので家まで帰って昼ご飯を食べて出直していたが

食事後の満腹感で上の瞼と下の瞼はいつでもくっつきたがり

無理して引き離すのに苦労した・・・という状況で、又叱られ・・・・・・・

 

その上、掃除をした後集めた木の葉を集めて学級園の片隅に埋めて堆肥にし

大根の種を蒔き収穫し、

その大根を使って夜Nちゃんの家でみそ汁を作って数名で食べた。

「夜間外出の罪」で逮捕?説教されたのは何故かばば一人。。。。。

他にも4名ほどいたのに、何でばばだけ?

学級園で大根を作ったから?

違うよね、夜間外出したからだよね。だったら、何故、ばばだけ叱られる?

意味わかんな~~~い!!!

でも、何故、自分の家で夕ご飯を食べた後に

またNちゃんの家に集まって大根みそ汁なんか作って食べたのだろう?

厳しいばば母が何故、夜、ばばの外出を許したのだろう?

未だに不思議でならないが何十年経っても忘れられない想い出だ。

 

ばばは、わざと好きな担任の先生に叱られるようなことばかりしていたのだろうか?

 

いつも叱られ役のばばも中学生になって、また恋をした。

恋?なんて言うほどものではない。

またしても好きになったのは3年生の時の担任の先生。

この先生は国語を担当されていたので他の教科はさておいて

国語だけは必死に勉強した。

 

そんなある日、朝登校したばばの机の中に封筒が入っていた。

何だ?と思って開けてみると英語で文が書いてある。

「I like you」という文字が見えた途端、ばばはその封筒をほっぽりだしてしまった。

差出人は学年で1,2位を争う秀才のK君。

噂では聞いていた「ラブレター」かも・・と瞬時に判断。

頭の良いK君はラブレターも英語で書くんだ」と妙に感心しつつ、

その後とった自分の行動が未だに理解できないが、

ほおり投げた手紙を再び手に取ると

何とばばはその手紙を持って職員室へ一目散。

そして手紙は担任の先生に・・・・その後ばばには何一つ変わったことはなく、

手紙を書いたK君に先生がどんな話をしたかも知らない。

せっかく手紙を書いてくれたK君、ごめん!!!

今は外国にいるとか風の噂に聞いたけど中学卒業以来会うこともなかったね。

どんなに謝っても謝りきれないけど、ごめんなさい。

 

こんなばばが高校生になると、またしても副担任の「倫理」の先生を好きになった。

哲学的なことなんか大の苦手なくせに

一生懸命本を読んだり先生の話を聞いたりしたっけ。

でも、ばばと同じ高校に兄が勤めていたし、

ばばは心の中で「この先生いいな」と思っても行動に移すわけでも無し。

心の中で思うだけ。それで満足していた・・・・・・

 

だから、ばばが人を好きになって・・・・なんて言っても

大したことないね。

 

短大に進んでも、同じ寮にいた親友と繁華街までバスで行き

喫茶店の前まで行ったのについに足を踏み入れることが出来ず帰った。

 

この時から4年の年月が流れてばばはじじと運命の出会いをしたんだよ。 

 


めぐりあい・・ありがとう!

2008年10月21日 14時51分59秒 | 思い出

10月21日(火)

じじが言った。

「ばばがこんなにネットにはまってくれるとはなぁ・・・まんまとじじの作戦に乗ったね」って。

ばばは、根っからの機械音痴。

算数、数学大嫌い。機械大嫌い。

12,3年前までばばの周りでパソコンを持って使える人と言えば

大学を卒業したての若い同僚ぐらいしかいなかった。

女性ではワープロを使っている若い同僚が数名いた。

研修会とかなればせっせと手書きでプリントを作り、

輪転機で印刷していた。

研修会などでも手書きのプリントを提出する人は少なくなり、ばばもだんだん焦ってきた。

そこで、じじから指令が。

まず、パソコンでワープロ機能を使おうと思ったら、

本を丸ごと一冊丸写しで入力して練習しなさいと。

そこで、ばばは読み物の本を最初から最後まで入力して練習した。

そして、何とか基本的な文字入力は出来るようになった。

 

そんな時、加計呂麻へ転勤。それも単身赴任。

職場は管理職ふたり、ぱりぱりの30代の男性1名、20代の女性1名。

大台に乗ったばばと、あと一人同年配の同僚、全部で6名。

この中で管理職とと20代、30代の二人の同僚はパソコンが使えたしデジカメも使えた。

しかし、ばばと言えば・・・・デジカメも持っていない。

やっと文字入力ができるぐらいでイラストを入れたり、写真を取り込むなんて別世界のこと。

夜、家でプリント作成途中でも分からなくなると徳之島のじじに電話をして

いちいち指示を仰ぎ?言われたとおりに作業するだけ。

パソコンもプリンタも新しいのを買って持って行ったにもかかわらず

古い大きな旧式のばかりを使っていた。

でも、そんなに不自由は感じなかった。

当時(8,9年前)県ではパソコンを使いこなせるようにと分厚い冊子を作り

各地を回ってはインストラクターが指導していた。

ばば達も隣の会場まで山を越えて研修に行った。

転勤の時買って持って行き、使うこともなく押入にしまい込んであった新品のパソコンも持って。

その時の研修は「文集などに写真を取り込む」という操作だった。

ばばも初めて新品のパソコンを開けてスイッチオン。

でも、講師の先生の言うことはチンプンカンプン。

それで、自分のパソコンはいじらず、若い同僚がするのを横でただ見ていた。

その日の研修は何にも分からないまま、帰ることに・・・・・・・

ところが、いったんスイッチは入れたものの終了の仕方が分からない。

いくら何でもそんなことを年下の我が子と同年代くらいの同僚に聞くわけにも行かず

ばばは知らん顔してパソコンをケースに入れて持ち帰った。

家に帰り、夜になって慌てて徳之島のじじに電話。

めでたく終了して電源を切った。

今なら本当に笑い転げるようなことを真剣に悩み

当時悩みに悩んだおかげでシワが増えたかも・・・・・なぁんちゃって。

加計呂麻にいた3年間はひたすら文字入力だけ。インターネットなんて怖くて・・・・・

という3年の勤務を終え、島に帰ってきた。

「やはり、人と人の出会いは大事ですねぇ」とばばは声を大にして言いたい。

ばばの最後の職場は職員15,6名。

20代から40代までのほぼ全員がパソコンを持ち、使っていた。

今やパソコンは必需品で、ばばが島を出た3年前とは大違いだった。

ばばは、専ら家で文書作成していた。

「じじ先生」に指導を受けながらね。

じじは、ばばと頭の構造が全く違うので、

機械のこととなるとばばにとって「じじ様、神様、先生様々」の存在だ。

いつでもすぐ身近にいるので、ばばも不安になることもなく

平穏にパソコンのワープロ機能を使い、そのうちイラストの挿入なども出来るようになっていった。

島に来て2年目の夏休み。

ばばの職場は新築されることになり、

仮設の建物が出来るまで(夏休み中)隣の施設の一部屋を借りることになった。

それまでの部屋よりちょっと狭かったが、職員は和気藹々。

夏休み中と言うこともあり、毎日パソコンを持って行っては仕事をしていたが

少しでも分からないことがあると同僚誰にでも声をかける。

すると、少しも億劫がらずに気軽に何でも教えてくれた。

そうこうしているうちに仮設の建物が完成、引っ越し。

この時点で、ばばは生まれて初めてパソコンでメールの仕方を教えてもらった。

今になると笑い話だが、当時は昼休みなど一生懸命女子職員同士でメールを作成、

送信までするが、目の前に座っている同僚にメールが届いたか不安になる。

そこで、「○○さ~~ん、メール送りました~~届きましたか」と目の前の同僚に声をかける。

届いていることが分かると、みんなで笑いながら大喜び・・・・・・

ハイ、これが6年前のことです。

職場ではメール作成・送信など教えてもらいながら家ではじじにインターネットを教えてもらった。

やればやるほどおもしろく、なれてくると自分でどんどんやりたくなる。

自分が出来るようになったことを職場で女子職員に話したり、教えたり、教えられたりする。

分からないことは後輩の同僚にでもどんどん聞いた。

聞かれた同僚は親切に教えてくれる・・・・こういう風に毎日が過ぎていった。

そして、ある日今度は「インターネット電話」なる物をある同僚が懇切丁寧に教えてくれた。

何と便利な物が世の中にはあるんだろうと思った。

 

ばばは、思うんだけど・・・・・・・・・・

加計呂麻では単身赴任ということと、自分と他の同僚の年が離れすぎてるということがあり

ばばは、自分の殻に籠もっていた部分があったのではと・・・・・・・。

多分、あの時だってばばが「教えて」って声さえかけたら

後輩達も気持ちよく教えてくれただろう。

一方、島に帰ってきてからは、「いつでも分からないことはじじに聴けばいい」という安心感があり、

なおかつ、職場には色々な年代の同僚がいて、狭い部屋を間借り?したということで

みんなの親近感が強くなり・・・・・と良い方へ良い方へと動いていったと思う。

ばばは、仕事を辞める直前になって多くの貴重な体験をさせてもらったと思う。

 

最後の職場での同僚達との巡り会いがなければ

インターネット電話など使ってもいなかったかも知れないし、

チャットやメールもしていなかったかも知れない。

ましてや、ブログになど手を出すなんて事は絶対なかったと断言できる。

 

どうしてばばがブログまで書く羽目になったかは明日書きたいと思う。


運動会

2008年09月29日 19時45分10秒 | 思い出

9月27日(土)

明日は島内のほとんどの中学校の体育祭。

そして一週間遅れで10月5日は小学校の運動会。

運動会も、時代と共に変わってきたなぁと思う。

 

ばばが小学生の頃は、児童数が多かったので、集落対抗での競技だった。

各集落で応援や競技の練習をしていた。

地域一体となった行事だったと思う。

今でも、ばばの母校では子どもたちは紅白対抗で

大人の人たちは集落対抗で競う。

何故子どもたちは紅白対抗になったのか?一番は児童数の減少だと思う。

現在、母校はばばが小学生だった頃の8分の1の児童数だ。

紅白対抗で、兄弟がいる子は一人は紅組で、一人は白組ということもある。

保護者は、昔も今も同じだとは思うが・・・・・我が子への声援に声を張り上げ

中には足踏みならし、腕を大きく振って応援する保護者もいる。

競技する子どもの姿より、

我が子を応援する保護者の方を見ていた方がおもしろいこともある。

 

競技内容は、かけっこ・リレー・綱引き・ダンス・学年種目・応援合戦・保護者種目・

来賓種目・地域対抗種目等々、3時頃まで盛りだくさんのプログラムでにぎわう。

ばばの母校ではまだすず割りという種目があり、

すずが割れて昼食となるが、このすず割り作るのがけっこう難しい。

あまりにあっけなく割れてもいけないし、いつまでも割れなくても困る。

その加減が難しい。

一回紙を貼って紅白塗り分けた後、カッターであちこち切れ目を入れていた。

 

地域の方の種目では一定距離離しておかれたバケツめがけて

ソテツのみを投げ入れる玉入れや、輪投げ、ムカデ競争など

昔懐かしい競技もたくさんある。

中でも「輪回し」という競技は、

自転車のリムを一本の短い竹で回してリレーするのだが

なかなかうまく回せない人もいれば、昔取った杵柄でそれは見事に回す人もいる。

ばばが子どもの頃男子は良く輪回しで遊んでいたなあ。。。。。

今は輪回しをする子なんて一人もいないけれど。

 

ばばは、小学生の頃、走りはそう速くなかったと思う。

いつも後ろから来る友達の足音に追い立てられるように

走っていた記憶があるから、最後尾でもなかったと思うが、

自分が何番だったかとかほとんど記憶がない。

競技の後の昼ご飯がとても楽しみだったことなどは覚えているのに。。。。

お昼ご飯は、いつもの食事より豪華で、家族揃って木陰などで食べていた。

そして、必ず我が家の庭で実った「喜界ミカン」がデザートだった。

・・・ということは?昔は10月末か11月に運動会があったのかなあ。

「喜界ミカン」はその頃からしか食べられないから。

 

ばばが先日知人から聞いた話では、

最近、都会では運動会に保護者は学校に行かず、

子どもだけの運動会をするところもあるそうだ。

今朝、ラジオを聞いていると「最近は働く親が増えているので、

親が運動会に来られない子もいる。だから、親が来られない子だけ教室に集めて

昼ご飯を食べる」と言っていた。

 

ばばが小学生の頃は保護者もほとんどが農業をしていたし、

集落の方々も運動会の日は仕事を休んで学校に来て下さっていた。

でも、今は仕事をしていない保護者の方が少ないので

行事に参加するのも大変だろうなと思う。

町内のスーパーは中学校の体育祭には開店しているが

小学校の運動会は休むところも多い。

経営者の方も色々考えて下さっているのだろうな。

 

ばばも仕事をしていたので、それに島内の小学校は同じ日が運動会なので

一度も我が子の応援に行くことが出来なかった。

子どもたちが中学生になって初めて堂々と

我が子の応援に行けた時はとても嬉しかった。

高校生になると「別に来なくても良いよ」と言う娘の言葉に素直に従って

応援に行ったことがないが、

最近になって「行ってあげれば良かった」と思うことがある。

 

今日のスーパーは明日の運動会用なのか

カゴいっぱいに肉や野菜を入れている人が多かった。

明日、天気に恵まれ、想い出に残る運動会が出来ればいいな・・・・・


いろいろ・・

2008年09月26日 18時54分21秒 | 思い出

9月26日(金)

8月末、朝夕は涼しくなって「今年は秋の訪れが早いな」と

思っていたのもつかの間。

夜はクーラーをかけて寝ている。

でも、日暮れは確かに早くなった。

6,7、8月は夕方6時半にならないと日射しが和らがず

散歩に出る時刻も遅かった。

しかし、秋の夕暮れは「つるべ落とし」と例えられるように、

とても早い。

6時半ともなると真っ暗だ。

 

ばばは、普通、6時になると夕方の買い物に出る。

キョロキョロあたりの風景を眺めながら魚屋さんによって、

途中にお本屋さんによって、スーパーの店先で

鉢物の植物を見たりしていると、あっという間に7時前であたりは真っ暗。

慌てることが良くある。

 

ばばが毎日行く魚屋さんの店先のガラスケースには

色とりどりの魚が並べられている。

魚の中には口からピンクっぽい風船のような物を出している魚もいる。

何だろうと思いお店の人に聞くと「胃」だと言う。

つり上げられた?網に入った?ショックで胃が口から出てくるのだろうか?

ケースの中の魚はどれも大きな目をぱっちり開いていて

ちょっと可愛そう。

刺身の苦手なばばは宴会などで「魚の活け作り」が出ると

魚が恨めしそうにばばを見ているようで

なるべく魚から離れたところに席を替わっていた。

 

こんなばばなのに、小さい頃はよく田んぼで鮒を捕まえては

空き缶などに入れて家に持ち帰り飼おうとしたが

環境が変わるせいか、一度として鮒の飼育に成功したことはない。

今の子どもたちも、花園や校庭のの隅で見つけた

大きな白い幼虫を「クワガタの幼虫だ」と家に持ち帰ったり、

遠足で行った海で小さな魚を捕まえては「家で飼うんだ」と

大事そうにビニル袋に入れて持ち帰っていた。

巨大ウジ虫のような幼虫を見たお母さんはどんな反応をしただろうか?

「家で飼う」と持ち帰った魚も、きっとその日のうちに死なせてしまっただろうな。

 

田植えや稲刈りの手伝いをサボって鮒取りに熱中しては

たくさんの鮒を殺してしまっていた、ばば。

今思うとかわいそうでならない。

鮒を飼うのは失敗の連続だったが、タニシは捕まえて帰り

水を張った入れ物に入れておくと、いつの間にか

大人タニシそっくりの小さなタニシが次々に生まれ喜んだのを覚えている。

 

今、島には田んぼはほとんどない。

田植えの時期だけ田んぼに水を入れ

稲作りをしている場所が2カ所ほどはあるが・・・・・・・・

だから、今の子どもたちは田んぼで鮒やドジョウ、

タニシを捕まえて遊ぶ機会もない。

 

今日遊びに来た姉に聞いてみると、

鮒は、煮付けて、ドジョウは串に挿して灼いて、タニシも煮て食べていたそうだ。

「サイ」という小さな海老も田んぼにいたような気がする。

ばばは、オキアミを見ると「サイ」を思い出す。

笊ですくって取っていたような・・・・

サッと炒めて食べていたと思う。

炒めると色が赤く変わってきれいだった。

田んぼには泉もあって、

ツワブキや野いちごの葉でうまくコップを作って水をすくい飲んでいた。

泉の水は甘くて、美味しかったなぁ。

二度と戻ることのない日々。

懐かしい!