ばばの日記

団塊世代 仲良し夫婦の暮らし
HPは http://www.ibuchan.com/

ミィウ~~~ミィウ~~の正体

2008年05月31日 12時19分31秒 | Weblog

5月31日(日)

今朝、(今日で5月も終わりかぁ)と思いながら起きて

表の間に行くと、どこからか「ミィウ~ミィウ~」というか弱い声が聞こえる。

どこから聞こえるのか?

何が鳴いているのか?

ばばは一瞬,鳥がばばの家の何処かで雛をかえしたのかな?と思った。

縁側に出る網戸を開けると声は聞こえなくなった。

前の家の何処かで何かが鳴いていたのかな?と

気にはなりつつも網戸を閉めた。

その後は仏様の水を換えたり、朝食をとったり

じじ父のデイケアへの見送りをしたり・・・・

洗濯・押入の掃除・布団の片づけと次々動いているうちに

声のことはすっかり忘れていた。

11時過ぎに一段落。

少し休憩しようかな?とパソコンのスイッチオン。

すると又、今朝のあの声がどこからか聞こえてくる。

確かにうちの屋敷内から聞こえるようだ。

ばばは改めて又網戸を開けて縁側に出ようとした。

すると「ミィウ~ミィウ~」とはっきり聞こえる。

????と思いながら、ふとエアコンの室外機の下に目がいった時、

ばばはのけぞりそうになった。

なんと、真っ黒な猫が座っている。そして、そのお腹の所に子猫が・・・・・

それも3匹も・・・一匹は親と同じ真っ黒・もう一匹はグレー・

あと一匹はグレーと白の模様が。

ばばと目が合った親猫は、緑色の目を大きく開け

身じろぎもせずばばの方を見ている。

子猫たちは団子状になり親猫のお腹あたりに・・・

子猫たちは生まれて大分日が経っているらしい。

体調は約20㎝ぐらいある。でも、まだ足はしっかり立たないようだ。

目も開いているのかいないのか・・・・

 

ばばは急いでカメラを取って構えた。

親猫は危険を感じたのか子猫を残し縁側の下へ移動した。

そして、じっと光る目でばばの方を見ている。

ばばは、猫が好きでないので内心、いつ親猫がばばに飛びかかるか

気が気ではなく足はガクガク震える。

でも、思い切って室外機と壁の隙間にカメラを入れ

何とか写真をと頑張るがなかなかうまく写せない。

やっとの事で写真を写したがあまりはっきり写ってはいない。

親猫は?と言えばいつの間にかもっと奥へ潜り込んだのかばばの視界から消えた。

しかしばばは深追いしない。

猫の目が怖いから・・・・・

ここまで書いてもう一度子猫たちを覗いた。

3匹でやはりお団子状になって固まっている。

よく見ると真っ黒だと思った子猫の顔に少し白い毛が混じっている。

この子達、今後もこの場所で大きくなるのだろうか?

今は、何を食べているのだろうか?お乳を飲んでいるのだろうか?

親猫自分の食事はどうしているのだろう?

ばばの手でこの猫の親子を追い出したくはない。

もうすぐ、ばばの家は網戸取り替えや雨戸取り付けなどの工事が始まるよ。

それまでにはぜひ何処換え引っ越して欲しい。

でないと、きっと大工さん達に何処かへ追いやられるよ。

手荒な真似はしないと思うけど・・・・ばばが餌でもやって居着かれても困るし、

ばばの悩みが増えた。どうしよう、あぁ~~~どうしよう。

 

ここまで書いてもう一度子猫たちを覗くと今度はグレーの子猫が一番下になって

団子状に固まっていた。

お母さん猫が言い聞かせたのか、ばばが写真を写したり、

パソコンの前に座っていると3匹の子猫は「ミィ~」とも声をたてない。

 

 

写真を撮り直そうとカメラを取り出して構えながら、ふと縁側の下を見ると・・・・・・・

あの親猫が目をいっぱい見開いてばばの方を見ているではないか!!!!

お母さん!ごめん!絶対危害は加えないから。

 

 でも、今までばばの家で子猫が生まれるなんてことなかったなあ。

二階まで上がってきて野良猫が子猫を産むんだ・・・

 

この親子3匹の今後は????

猫嫌いなばばでも気にかかる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

後記

※夕方になってやけに「ミィゥ~、ミィゥ~」とうるさくなった。

そぅっと覗くと、いつでもこちらを睨むような母親の黄緑色の目と

ばばの目が合う。怖い~~~。

母猫は何処かで餌を食べてきて子どもたちのお乳を与えているようだ。

小学1年生の国語の勉強で「どうぶつの赤ちゃん」という教材があった。

ライオンの赤ちゃんは生まれてすぐは自分ではあちこち移動することができないので、

母ライオンが口にくわえて移動するのだそうだ。

この子猫たちはばばの家の室外機の隙間で生まれたのか?

それとも母猫が何処かで産んで

一匹ずつくわえて今の場所へ移動してきたのか・・・?

これからは昼間でも窓を開け放してはおけないなあ。

だって、母猫がいつ何時入り込んで台所やテーブルの上を物色でもしたら大変だもの。

元々、ばばは猫が怖い。」でも、日々子猫の成長を見守りたい気もする。

しばらく家で子育てして欲しいと思う反面、速く子猫たちが歩けるようになって

何処かへ行って欲しいと思うばばでもある。


12人中12位

2008年05月30日 07時48分02秒 | Weblog

5月30日(金)

ばばが加計呂麻の学校にいた時、

毎日2校時の終わりに体力作りと称して約1㎞ぐらい走っていた。

児童数は8名。職員は校長・教頭・養護職員・担任3名・用務主事さんで7名。

 

職員で毎日走るのは教頭と担任3名。教頭は30代後半・

担任の男子職員は30代・女子職員は20代前半・

ばばは・・・と言うと50代前半だった。

校長と用務主事さんがばばより一才年長だったので、

ばばは7名の職員中上から3番目の年令だった。

体力作りで走るコースは、何と学校の前の道路。

集落の中心道路、バス通りでもある。

と言っても車2台がやっと離合できるぐらいの道路である。

バスは1日数回しか運転しないし、

お勤めの方も朝車で出かけたら帰りは夕方だから小学生が走っていても、

たまぁに車が1台通るか、通らないかという交通事情だったから、

堂々と集落の中心道路を走っていた。

 

準備運動をして校門前を出発。

往路の約500メートルぐらいは、しばらく集落内を走り、次は両側が畑、

そこを過ぎると山道に入り、ダラダラと上り坂が続く。

だんだんきつくなり息も苦しくなる。

折り返し地点には石灰でUータンマークが大きく書かれていて、

そこでUータンし帰りは同じ道をダラダラ下って校門前がゴールとなる。

全員がゴールすると整理運動をして休み時間だった。

 

ばばは3年間このマラソンが嫌で嫌でたまらなかった。

 

 

3年間続けて1・2年生を担任していた。

入学したての1年生は、まあ、ばばと互角の走力か少し遅いぐらいであるから、

ばばも一番遅い子の横について走っていた。

しかし、子どもの力は凄い!!!

1学期が終わる頃にはだんだん私よりも走りが早くなる。

そして、2学期、3学期と進むにつれ、遙か私の前を走るようになる。

高学年の子は私が息も絶え絶えに往路の途中を走っている時に

もうUターンしてくる。

すれ違いざまに「○○ちゃん、頑張って!」と私とタッチして走っていく。

たまに庭仕事をしている70,80代のおじいちゃん、おばあちゃんや

道路を通る人も「先生頑張れ」と応援してくれる。

(Uターン地点まで行かず途中で引き返そうか)と何十回考えたか分からない。

職員にしても20代、30代なので、それはもう速い速い。

息も上がらず悠々とばばとすれ違って走っていく。

(あぁ~~~もう少し若ければなぁ。)と何百回思ったことか・・・・・

かくして、2学期の終わる頃には、ばばは全走者の最後尾。いつでも・・・・・・

だから、ばばがゴールする頃には8名の子どもたちと3名の職員が

いつでも木陰で「○○ちゃ~~~ん、がんばれぇ。もう少しだよぉ~~~」と叫んでいる。

みんなの大声援の中、12人中12番でのゴール!!!

何で、50才過ぎて毎日本気で走らなきゃならないのぉ~~~と、

恨む相手もいないのに恨んでいた。

 

3年経って自分の母校に赴任した時も、

初めの頃は強制ではなかったが朝とか2校時の休み時間に

子どもたちは自主ランニングをしていた。

ばばも、冬の寒い日に何回か走ったことがある。

でも、だんだんその自主ランニングはなくなっていった。

運動会では学級対抗リレーというのがあり

3年間は保護者と一緒に走ったが4年目と5年目は怪我をしたりして走らなかった。

だから、ばばが走るのは持久走大会のみ。

持久走大会は校外へ出て走らなければならないので

どうしても子どもと一緒に走らなければならなかった。

道路は車もたくさん行き交うのでバラバラに走らせるわけにはいかない。

ばばが先頭に立つか、真ん中あたりを入って前の子に声をかけながら

速さを調節して走った。

母校は加計呂麻と違って児童数も多い。

1年生では、短距離はばばより速い子もいたかも知れないが

1㎞の持久走となると50代のばばと同じ走力ぐらいの子もいたので、

いつもその子について走っていた。

 

子どもたちは「先生、年、何歳?」と聞くので「100才」と答えると

「エエェ~~~ッ、100才?100才でマラソン走るって凄いねぇ」

家のばあちゃん○○才だけど走ったりしないよ」と

素直に感心していた。

ごめんよ、子どもたち、嘘ついて。

平気な顔してみんなと1㎞走ったけど、本当はきつかったんだよ。

でも、まだみんなと1㎞走れるっていうことで、少し安心もしていたんだよ。

みんなと走らなくなって2年目。

今は、のぉ~~んびり散歩をしているよ。

もう、順位にこだわらなくて良いし、ばば一人なら軽くジョギングしたくなる時もある。


キリンがビールを・・・・・

2008年05月29日 09時32分43秒 | Weblog

5月29日(木)

昨日の朝、いくつかのHPを覗いていると・・・・

何とJA会館2階で落語家、三遊亭歌之介さんの講演会があると書かれている。

当日の行事を、当日の朝HPで見つけたのだ。

瞬時の迷いもなくばばは「行こう」と決めた。

行くならじじ母と、ばば姉も誘って、3人で楽しんでこよう・・・・

じじ母も、ばば姉も外へはあまり出るタイプでないし、

気分転換になるかもとばばは考え、まず、ばば姉に電話。

ばば姉は快諾。

次ぎに、じじ両親の家へ下りていき、じじ母に打診。

じじは母耳がちょっと不自由になってきているし、JA会館は階段を上っていくので

大丈夫かな?とも思ったが、まず聞いてはみようと打診。

初めはあまり乗り気でないようだったが、しばらく考えて

「お父さん、1時間くらい話、聞いてきていい?」と聞いている。

じじ父は「行っておいで」と快諾。1一時開演なので、

1時40分頃出発しましょうねと約束。

 

何か目的ができるとばばはテキパキ動く。

ささっと冷蔵庫の掃除を済ませ、お昼の準備をしスタンバイ。

時間になったので、じじ母を迎えに行く。

ばば姉はすでにばばの来るのを横で待っていた。

JA会館は300人ぐらい入れるが、何名ぐらいの人が来るのだろう?

じじ母には、なるべく前の方で聞いて欲しい。

何か行事があるとJA会館前の駐車場はいっぱいになるので、

気にかけながら車を走らせた。ばばの家からJA会館まで

車なら3分もかからない。

JA会館に着いたが、駐車場はガラ空き。

エッ、もしかして日時を間違えた?

いや、そんなはずはない。だって、昼食後も確認したんだから。

それにしてもおかしい。

なんで、お客さんらしい人が見あたらないの?といぶかりながら

会館入り口に行くと、きちんと背広を着た男の人が4人立っている。

ばば達3人の他のお客さんが来る様子もない。

不思議に思い、不安にもなりながら立っている男の人に

「今日、こちらの2会で三遊亭歌之介さんの落語があるんですよね」と

恐る恐る聞いてみた。

すると、その人は横にいた男の人に何か言っている。

次ぎにばば達3人の方に向かって「あるそうですよ」と答えた。

ばばは、「あの・・・誰でも入場しても良いんでしょうか」と聞くと

男の人は首をひねっていたが「良いですよ」と言う。

ばばはキツネにつままれたような気持でじじ母と、ばば姉を促して階段を上った。

登り切ったところには受付があって、

なんと「伊仙町」「天城町」「徳之島町」と書いてある。

その横ではタバコを吸っている背広姿の男の人や、

椅子に座って談笑している男の人たちも・・・

(受付もするのかな?)と思いつつも、まさか・・・とそぉっと受付の前を通り過ぎた。

 受付にはたくさんの名札のような物も置かれていたが、

ばば達が通り過ぎても呼び止められることもなかったので、

会場へ向かった。

会場へ入ると、中は前と後ろに分けて椅子が置かれている。

前の椅子約7,80脚くらいには何とペットボトルのお茶が所々置かれている。

そして、両脇には長テーブルが・・・右に6脚ぐらい、左には12脚くらい・・・

そして、所々の椅子に背広姿のけっこう年配の男の人、男の人、男の人・・・・

何が何だか訳も分からずばば達3名は後ろの方の椅子に座った。

それにしても何か様子が変・・・・。

女の人はほとんど来ないし、次々入ってくる人は背広姿の男の人ばかり。

ばばは、改めて前に並べられた椅子を見ると、

最後尾の椅子には、「総代」と書いて貼ってある。

んん?総代?総代ってなんじゃらほい?

前4列の最後尾の椅子にはいずれも同じ札が・・・

そこで、改めて舞台上の横断幕を読んでみると

「第10回通常総代会」と書かれている。

そしてその横断幕の両脇には

何だか難しい演題らしきもの画が書かれた垂れ幕も1枚ずつかかっている。

えっ、もしかして、場違いの所に入り込んでしまった????

何が何だか訳が分からないまま小さくなって座っていると

ばばの先輩夫婦が入ってきた。

少しホッとしていると目があったので、先輩夫婦もばば達の前の椅子に座った。

ばばが先輩に「あのぉ~~~・・・・」と話しかけると、

先輩夫婦もばばが見たHPを見て駆けつけたのだと言う。

それで、少しホッとした。

1時からの開演ということだったが12時50分頃になって

歌之介さんがラフな格好で舞台に立ち

「え~~~っ、マイクのテスト、後ろ聞こえますか?」と言って舞台の袖の方に消えた。

やはり訳が分からない。

定刻の1時になると、ひとりの男の人がマイクを握り

「実は、こちらの手違いで総会と,講演の時間のお知らせを別々に発送したので、

総代の方達が遅れています。後、しばらくお待ち下さい」と言う。

普通なら始めに定例会をして、次ぎに講演をするらしいが

今日はその逆になるらしい。

歌之介さんは講演会が終わり次第、今日中で

飛行機で鹿児島に帰らなければならないそうだ。

だからいくら遅くても3時前には講演を終わらなければ飛行機に間に合わない。

マイクを握った人は説明をした後、歌之介さんの紹介を始めた。

しかし、歌之介さんの姿はない。

普通なら、本人がいるところで紹介をするんじゃないの?とばばは思っていたが・・・

進行の人が紹介を終わるのと入れ替わるようにばば達の左手入り口から

着物と羽織を着た歌之介さんが現れた。そのまま登壇。

70分話し続けた。

やはりプロ。鹿児島弁で次から次へと繰り出す話に息つく間もない。

しかし、隣のじじ母は意味が分かっているのだろうか?と気になり、

そぉっと様子を伺うが・・・ばばは可笑しくてたまらないのに、じじ母は全然笑っていない!・・・・・

そのうちはめていた補聴器を外した。

歌之介さんの声がとても大きいので、ガンガン響いて、

補聴器をつけない方が聞こえやすかったのかも知れない。

歌之介さんの話は何処までが本当か嘘なのか分からないままにテンポ良く話しが進む。

みんな肩を揺すったり手を叩いて笑っている。

ばば達の右後方に座ったおばさんは始めから終わりまで笑い続けていた。

あっという間に70分は過ぎ歌之介さんの講演は終わった。

歌之介さんを拍手で送り出すと

「一般の観客の方は出られて下さい。これから総代会か始まりますので」と

促さればば達は外へ出た。他の約20名の人たちと一緒に・・・・

 

「今日の歌之介さんの話の趣旨は「人間笑って、プラス思考で生きましょう」

と言うことだとばばはとらえた。

ばば姉は「こんなに笑ったの初めて。笑っただけで良かった」との感想。

じじ母は「あんなに良く憶えられるね、あの人頭いいね」が感想。

ばばが、歌之介さんのことをいろいろ話すと

「Rちゃんは、あの人と知り合いね」ときた。(そんなことないでしょう、お母さん)

 

歌之介さんお話の中で「今や、夜行性の?(嘘?)きりんがビールを造り、ブルドックはソースを、

虎はポットを可愛い亀の子までタワシを作るようになった」というくだりがあったが

動物名が頭につく会社(商品名?)ってけっこう多いんだなあと改めて思った。

 

70分の話をするために歌之介さん、今日は鹿児島と徳之島の

往復何時間を費やすのだろう・・・

本当のとんぼ返りだね。

 

 

ばばはじじと一緒に鹿児島で過去2回、歌之介さんの落語を聞いたことがある。

正に抱腹絶倒の連続だったが、あれから10数年、

ますます芸に磨きがかかったような気がした。

 

今日は、たまたま見つけたHPのお知らせに乗っかって

楽しいひとときを過ごせたが、でも、舞台が始まるまでは??????の時間だった。

せっかくプロの芸人さんが来て下さるのだから、もう少し広報活動が行き渡っていたら

もっとたくさんの人たちが楽しめたに違いないのにもったいなかったなあ・・・・

 

 


この差・・・・・

2008年05月28日 10時15分10秒 | Weblog

5月28日(水)

この2枚のパンが等分した同じ厚さのパンに見えますか?

これは3日前、7等分にカットしてもらって買ったパンだ。

このパンについては前も書いたが、

じじ&ばばとお店で目に見えないバトルが繰り広げ続けられている因縁のパンだ。

このパンを買い始めてもう4年ぐらいになる。

ずっと同じパンだ。

ばばが仕事をしていた頃、たまたま帰りがけにこのパンを買ったのがきっかけ。

じじがこのパンをいたく気に入ってしまって、パンを買うならこのパンと指定。

だからだいたい3日に一回このパンを買う。

買って切ってもらうのだが、この切り方で暗黙のバトルが続いているのだ。

それは、じじとばばの方にも問題があるかも知れないが・・・

お店のパンコーナー前にパンの切り方が書いてあって

「5等分・6等分・7等分・8等分」と書かれ

その横にはその等分で切った時のパンの厚さが書いてある。

じじが7等分の厚さがちょうど1食分に良いというので7等分に決定。

ところがこの7等分が問題らしい。

今まできちんと7等分できていたのはそう多くない。

7枚に切られてはいるけれど厚さがまちまちだったり、

8枚に切られていたり、多い時は11枚に切られていたこともあった。

7という数字が問題なのだろうか?

11枚に切られた時は家に帰ってから気づいて、

仕方なく1回で2枚ぐらい食べたりもしたが・・・

このことを去年だったかブログにも書き、姪やむすめ達にも話し、笑われた・・・・・

普通7等分はしないのだろうか?

でも、ちゃんとパンコーナーに書いてあるからお願いしているんだけど・・・

じじ&ばばがやはり悪いのか?娘にはそのようなことを言われた。

「6等分が普通じゃない?」って。

「そうすれば問題ないじゃない」って。

 

4年間も同じパンを買い続けていれば当然レジの子とも顔なじみになり

ばばがパンを買いに行くと「○○様、耳はつけたままで7等分ですね」と

必ず確認してくれる。これはどの客に対しても同じであろうが・・・・

レジが込んでない時はちょっと立ち話などもする。

店員さんと親しくなればなるほどクレームはつけにくくなる。

もう今やばばは諦めてパンの厚さのことについては「貝」に徹している。

しかし、今回この2枚のパンを見た時にはさすがヒェ~~と思わず唸ったね。

このパンを買う時、ばばはまだ切ったパンを見てはいなかったが

思いきって店員さんに聞いてみた。

「普通は、6等分とか8等分が多いのですか?」と。

すると、店員さんも「そうですねえ」と答えた。

やはり「7」にこだわるじじが悪いのか。7等分は相当切りづらいのか?

でもここ2,3回の切り方はとても上手でじじでさえ

「今までで一番良い切り方だね」と褒めていた。その矢先のこの画像の2枚のパン。

 

ばばも、最近は必ずしも「7」でなくても良いと思い始めている。

だって、二人で毎朝1枚ずつのパンを食べる。

3日食べると1枚残る。では、翌朝残った1枚を誰が食べる?

我が家ではもちろんじじと決まっている。

たまぁにばばが半分食べてあげ、じじも半分食べ

後は新しいパンの1枚を又半分こにして食べて

めでたしめでたしの時もある。

 

だからさ、じじ、これからは6等分で買ってみようよ。

じじは「気分屋の誰かさんがまたパン食べない日があるかも知れないしさ」って言うけど。

「気分屋の誰jかさん」って誰よ。じじと二人しかいないこの家。

もしや?????????????

 

ねぇ、じじ、1枚のパンの厚さが今までより何㎜か厚くなるけど頑張って食べようよ。

ばばは、もう暗黙のバトルにほとほと疲れたよ。

 


サビサビの・・・・他

2008年05月27日 09時17分31秒 | Weblog

5月27日(火)

梅雨入り後、気温と湿度は鰻登り。

昨夕、電波時計の温度と湿度を見たら、温度は30,9度、湿度は65%。

2,3日前は湿度が80%以上もあった。

ばばの家は鉄筋コンクリート造りで、築後30数年。

床暖房とか断熱機能なんてない。

冬は寒いし、夏は昼間は窓を開け放っておくと風が良く通り涼しいが

夜、戸を閉めると中はサウナ状態。

だから、ばばは夕べ扇風機を出した。

この扇風機が問題児だ。

買って1年使っただけで、羽のガード部分がサビサビ錆びてしまった。

何で?こんなの見たこと無い!

外見があまりに見苦しくなったので去年から買い替えようと思っていたのに、

扇風機としての機能は問題なしだから、困ったものだ。

でも、来客時に出すのはとても恥ずかしい。

ばばは去年の夏は毎夜クーラーを16度に設定して、

羽毛布団をかけてネックウォーマーをして寝るという相矛盾したことをしていた。

友達に話すと、みんなびっくりして、呆れていた。

だって、昼間40度近くまで上がった温度で温められたコンクリートは

夜になってもなかなか冷えず、とても眠れたものではない。

扇風機をかけて寝ても良いのだが、ばばはグルグル回るものが苦手で、

ブランコが揺れるのを見ても、CD時代の前、使っていたレコードがグルグル回るのを見てもダメ、

扇風機の羽根が回っているのをみてもダメ。頭が変になりそうになる。

ただ、回っているのを見なければいいのだが、

考えただけでもパニックになることがあって扇風機をつけっぱなしにして寝るより

クーラーをつけた方が良いのだ。(変人だろうな、確かに)

じじは、北極みたいな所に眠れないと扇風機さえつけずに寝ていた。

夕べ、倉庫から引っ張り出した扇風機はやはりサビサビだ。

もしかして、メイドイン○△×だったのか?

サビサビだけど、微風・涼風・強風と3段階に調節して使う分には申し分ない。

廃棄したいけど、ちょっともったいない気もする。

そう言えば、先週、ある電気屋さんがクーラーの無料点検を

○月○日しますと連絡はあったのに、期日はとっくに過ぎてもその後の連絡無し。

まあ、クーラーも壊れた訳じゃないので大丈夫か?

 

昔、扇風機もクーラーも無かった時代は団扇で充分だったのに、

なんて贅沢になったのだろう。

団扇も家族の人数分は無い時もあったっけ・・・

遊ぶ時はフクギの葉を「団扇」だと言ってすまして顔を扇いだりしていた。

 

 

考えてみたら、ばばが子どもの時は各家庭に水道はなく、

集落の何カ所かにある泉にいって水は汲んでいた。

天秤棒みたいなのの両端にバケツを下げて何回も泉と家を往復した。

ある場所から泉までは急な坂で、行きは下り坂だが、

帰りは大きいバケツ2個分の水を天秤棒で担いで

坂を登るので相当きつかった。

ある季節になると松の木から薄気味悪い毛虫のような虫が

足の踏み場もないほど無数に落ちてきて道を覆った。。

虫嫌いのばばは死ぬ思いで虫をなるべく踏みつけないように通ったものだ。

10人家族だった頃の飲料水、風呂水・・・

何十回家と泉を往復しても水瓶と風呂桶のいっぱいにならず悲しかった。

ばばは、背があまり伸びなかったのは、

きっと水の担ぎすぎで、バケツを下げた天秤棒で両肩を押さえすぎたせいだと

今でも本気で信じているくらいである。(ばば姉も全く同じことを言っている)

あの時、大事に大事に使っていた水も

今は蛇口をひねればジャーッといくらでも出てくる。

その水を金で買う時代になった。

 

数年前まではペットボトルのお茶を買うのに抵抗があったばばだが、

今は平気で買う自分が怖い。

 

他にも各家庭で作っていた物、自然からいただいていたものを

金で買う時代になった。

人間、安き方へ安き方へと流れていくのか・・・・・・

反省しつつも大きな波に飲み込まれていく自分が怖い・・・・・


学林地は今・・・他

2008年05月26日 13時47分09秒 | Weblog

5月26日(月)

ばばが学んだ中学校「東天城中学校」には学林地、いわゆる「学校の山」があった。

在学中は年に一回、ハブ被害の少ない冬の時期だったと思うが

教師・全校生徒は弁当持参で学林地へ出かけた。

学林地で何をするか?

まず、樹木の下草を刈り払う。

不要な木の枝を切り落とす。木の密集しているところの細い木を切る等々。

遠足と勤労を兼ねた1日だった。

作業の途中では休憩し、おやつを食べ、又延々と女子は下草払いを続ける。

お昼の弁当をすませて、又作業。

そして帰る時は女子は適当な長さに切った木材をカゴに入れ背負って帰った。

男子や教師は長いままの木を引っ張って帰った。

持ち帰った木を薪(当時の主な燃料)として

さる所に売却し、その代金で図書を買うと言うことだったが詳しいことは分からない。

ばば達が流した汗の代償で何冊くらいの図書が買えたのだろうか?

あの学林地は今もあるのだろうか?

そして、今もばばの後輩に当たる中学生達は、

ばば達と同じ作業をしているのであろうか?

年に1回、学林地作業というのがあるのだろうか?

今度、誰かに聞いてみたいと思っている。

 

山に関する話をもう一つ

徳之島で一番高い山は・・・と言えば井之川岳。

井之川岳については「じじの絵日記や写真集」にも紹介されているので省略したい。

約20年前ばばが勤務した伊仙町のS小学校は毎年2月に「井之川岳登山」があった。

その日は、幼稚園生から小学校全学年、地域の有志まで一緒に登山した。

ばばはこの学校に6年間勤務したので6回登山した。

毎年、バスを貸し切り井之川集落まで行く。そして徒歩で頂上を目指すのだ。

9時頃から登り始めだいたいお昼頃には頂上に着く。

登る途中、珍しい植物を見つけたり、所々にイノシシの糞があったり、小川があったり

両側の草木に掴まりながら急な坂道もどんどん登る。

幼稚園生や、入園前の子が案外元気でどんどん登るのにはびっくりしたものだ。

頂上に着くとしばらくしてお弁当。少し休んですぐ又下山だった。

いつもしたから見上げている井之川岳の頂上から、

逆に下を見下ろす時の気分は爽快だった。

毎年ひとりの落伍者もなく、全員登頂していたが、

ある年、ばばは風邪気味で熱も38度以上あり、最悪の体調で登山したことがあった。

登山とは言っても、遠足を兼ねているので担任が休んではいけないという一心で

登り始めはしたものの、途中、ものすごい吐き気と頭痛で

よほど引き返そうと思いながらも一歩一歩前進したのを思い出す。

 

又ある年は、登山の当日がとても寒い日で、登頂はしたものの

あまりの寒さと、頂上の天候不良でお弁当さえろくに食べられず

すぐに下山したこともあった。

 

もう、あれから20年が経った。

今もS小学校はあの登山を続けているのだろうか?


切りたくない!!

2008年05月25日 16時42分55秒 | Weblog

5月25日(日)時々

ばばは悩んでいる。

とても悩んでいる。毎日、縁側?に出る度に悩んでいる。

「切りたくない・・・」と。

何を?

実はばばの家は二階で、庭がない。

もう何十年も前、じじがブロックを一段積んで土を入れ花園らしき物を作った。

当初、じじが園芸に興味があり盆栽らしき物を育てたり、朝顔などを育てたりしていた。

むすめ達が幼かった頃、朝の早朝マラソンをむすめ達としていたじじが

その頃どこからか小さな苗木を拾ってきて植えたのか、

はたまた小鳥の落とし物の種から芽が出て育ったのか、

現在、2本の木が育っている。

一本はトベラ。一本はシャリンバイである。

2本とも季節が巡れば忘れずに可憐な花を咲かせばばの心をいやしてくれる。

花が終われば、階段は、落下したおびただしい花弁に覆われ掃除が大変な時もある。

高さは2本とも2メートル前後か?けっこう枝も広げ日除け、風よけ、

外からの視線よけに役だってくれている。

雀・ウグイス・磯ヒヨドリ・蝉なども飛んできて、羽を休め歌を歌っては去っていく。

今、この2本の木が後一月もしないうちに切られようとしている。

実は、ばばの家はちゃんとした玄関はあるが20年ほど使っていない。

玄関横の窓の高さにじじが縁側擬きを作って、そこからお客様も上がってもらう。

しかしその縁側擬きも年数と共に木が古くなり釘も頭を出し、

その釘を打ち込みつつ使っている。

しかし、先日業者さんを呼んでぐらつく網戸をきちんと作り直し、

我が家は雨戸も無かったので新しく設置してもらうことにした。

相談をして帰り際に業者さんが

「この縁側との隙間もったいないなあ・・・ウッドデッキにでもしたら、

広々して気持ちが良いだろうね」と言った。

ばばもしばし考えたが賛成した。

だって、じじが作った縁側擬きと花園の間は隙間があり砂やゴミが溜まりやすい。

ウッドデッキを作った方がスッキリまとまるだろうと・・・・

そして花鉢など並べたら良いだろうと・・

数日後、業者さんが見積書を持って来てくれ、改めて寸法などを測った。

その時ばばは「何とか二本の木は残せませんか」と聞いてみたが、無理らしい。

実はこの2本の木にかける水が自宅一階の倉庫に流れ、

長い年月で雨漏り状態になり、倉庫の壁や天井がボロボロになっているのだ。

それが分かってからはなるべく水をかける量を控えている。

そのせいか、今年は2本の木とも葉色はくすみ、花もあまり咲かず元気がない。

「背に腹は代えられぬ」で、2本の木はもうすぐ切り倒される運命にあるのだ。

切られるとなると、2本の木が不憫でならないばば。

今まで伸びすぎた枝を切ったり、落ちた花びらを掃いたりしてきたばばにとって、

この2本の木の枝振り、葉っぱの緑にこれまでどのくらい心を癒されてきたことか。

今も毎日朝起きると縁側へ出て花園擬きに植えた植物を眺めたり

2本の木を眺めるとホッとするし心が落ち着く。

この木は我が家の歴史を知っている。

我が家と共に成長してきた。

愛着がある。

何とか残したい。

でも、残せば水漏れの原因になる。

再来週あたり工事が始まるかも知れない。

ばばの心はまだ揺れている・・・・・

手前がトベラで、向こう側がシャリンバイの木である。


母・妻・妹

2008年05月24日 17時23分26秒 | Weblog

5月24日(土)時々

梅雨入り宣言から2日。雨は降らない。でも湿度は77%。朝は80数%もあった。

今日は、ばば兄とのエピソードを書いておきたい。

兄は昭和13年生。現在元気でいれば70才だった。

しかし昭和63年、9月19日、くも膜下出血で49才の生涯を閉じた。

ばばとは年が10才も離れていたので遊んだりとかした記憶はないが、

ある日大鍋で豚の餌を炊いていた時に兄が「これ美味しいよ」と、火の中から何か取り出し

ばばの口に入れてくれたことがあった。信頼する兄がくれたのでばばは何の疑いもなく

ムシャムシャ食べた。肉のような物で香ばしくとても美味しかった。

飲み込んだ後に「美味しかった、これなあに?」と聞くと

「バッタ」だと兄は涼しい顔をして答えた。グゥエッ~~~~。

結構大きかったので、トノサマバッタだったのだろうと思うが、バッタって食べられるんだよね。

確か「イナゴの佃煮」って聞いたことあるもん。イカナゴじゃないよ、イナゴだよ。

兄との思い出と言えば必ずこのバッタを食べたことを思い出す。

 

兄は姉妹から言うのもおかしいが、本当に真面目人間だった。

高校進学の時も一旦は名瀬の高校に入学したが

翌年、鹿児島の高校の編入試験を受け鹿児島のT高校へ入った。

当時、先生方は「T高校は無理」と兄を引き止めようとしたらしいが兄は無事T高校へ入った。

兄は大学まで鹿児島で学び、高校の国語教諭として喜界高校へ赴任が決まった。

同じ年、ばばは高校入試で名瀬の高校受験を考えていた。

しかし、兄の赴任先が喜界高校になったことでばば両親は

「兄さんの炊事の世話をしながら喜界高校へ行きなさい」と勧めた。

ばば両親にしてみたらやはり末っ子のばばをひとり手放すよりは

兄と一緒の方が安心と考えたのだろう。

ばばも大きな反発をすることもなく喜界高校を受験した。

 

高校入学後は、学校では兄のことを「N先生」と呼ばねばならず、それが嫌でたまらなかった。

でも、友達がいない時などは、「兄さん」と気兼ねなく呼んでいたけど何となく面はゆかったなあ。

「先生の妹」と言うことで、先生方からも友達からも特別視されているようなのが嫌だった。

(ばばが思っていただけかもしれない)

 

兄からも直接国語や古典の授業を受けた。

兄は言った。「R子、兄さんの教科の試験ではトップにもなるな、

その代わりあまりに恥ずかしい点数もとるな」と。

ばばは数学とか地理・化学は大っ嫌い。

国語・古典・英語だけが唯一好きだった。

兄には言われたけれど、ばばが頑張ってトップの点数をとるならそれでいいじゃない、

反対に、もし平均点以下とろうと、ばばの実力なんだから仕方ないじゃないと

ばばは開き直っていつもテストを受けていた。

兄妹、同じ学校というのも辛いものだ。

 

ばばは高校生でありながら家では兄の食事の世話・弁当作り・洗濯と

妹でありながら母の役割もしていた。それが嫌だとか辛いと思ったことは一度もない。

月にいくらかの生活費を手渡され、それでやりくりしていた。

お金が無くなると徳之島の両親に手紙を書き

米や芋など送ってもらっていた。

今考えれば、なぜ、兄に言ってお金をもらわなかったのか不思議でたまらない。

 

兄はよく勉強していた。ばばが夜中など目を覚ますと

いつでも机に向かう兄の後ろ姿があった。ばばは思ったものだ。

「兄はいったい、いつ眠っているんだろう」と・・・・

この兄の姿は、ずっと変わらなかった。

ばばは自分がおおざっぱだった分、真面目な兄を尊敬もしていたし信頼もしていた。

兄が大好きだった。

 

真面目人間の兄の授業は、あまり冗談も言わず、いつも淡々と進んでいったが、

たまにおもしろいことを言って笑わせることがあった。

ばばは、自分が教員になった時、兄の良かった面は真似をしようと心がけたものだ。

良くも悪くも兄が先輩教師として手本を示したくれたと思っている。

 

ある日、古典の授業の中で兄がこんなことを言った。

「お母さんと、奥さんと、妹にご飯をよそってもらったら・・・・」と。

兄が言うには、お母さんは我が子に腹一杯食べさせようと詰め込んで山盛りにご飯を入れる。

お嫁さんは、自分の夫の腹具合はよく分かるので適量のご飯を入れる。

妹は少なめに入れると・・・・・・

えっ、なんで?しかも、お姉さんじゃなくて妹。

もしかして、ばばのお弁当の詰め方に不満でも?

 

その頃ばばも青春真っただ中。ばばは色気より食い気。

当時はやり始めた「かっぱえびせん」も大好物だった。丸々お月さんのような顔だったばば。

痩せていた兄。兄の同僚の先生方は、ばばの家に遊びに来ては

「おい、R子、お前は自分だけ美味しいの食べて、

お兄さんにはろくな物食べさせてないんじゃないか」とばばをからかった。

反撃もできず、タダ恥ずかしく小さくなって、兄に申し訳ないと本気で考えていたばば。

今なら、あの年齢の頃はよく食べるし成長期だし・・・と考えるのだが、

当時は考えつかなかった。

 

結婚して、初めて兄が話した「母・妻・妹」のご飯のよそいかたの話を理解できるようになった。

母親の子を思う気持ちは一番強いもの。母の無償の愛・・・

ばば母もそうだったが、じじ母は子どもが60才になった今でも

やっぱり一番美味しい物はじじにあげようとする。

おかずなどのお裾分けも山盛り、食べきれないくらい入れる。

 

ばばは、どうだろう?

上京するじじに朝早くから18穀米入りご飯を炊き、全部おむすびにし、

保存食の豚味噌を作り、刺身のツマまで準備して

家にあるだけの野菜も生で、または調理してじじのバッグに詰め込めるだけ詰め込む。

こんな重いのを東京の道から引っ張って歩かせるぐらいなら

向こうで買わせた方がよっぽどいいのに・・・

じじが低血糖にならないようにと、おやつも、喉が渇いちゃ可愛そうと飲み物も。

 

ばばは、兄の話がよっぽど頭に残っているらしい。

じじを気遣い可愛がるじじ母と張り合うつもりなんて全然無いんだけど、

ここ数年、ばばは「じじの妻」を通り越して

「じじの母」になりかけているのではと自分でも可笑しくなる。


リ・ファリーヌ

2008年05月23日 11時36分46秒 | Weblog

5月23日(金)

9時前からばばはすりこ木でボールの中の物を搗き続けている。

何でこんなことになったのか?そもそも。朝の洗い片づけをしながら

21世紀の製菓素材革命・リファリーヌを見つけたからだ。

その前にもう一つ原因が。昨夕、じじ母が蒸し芋をくれた。

その芋の皮を剥くと中が濃い紫であまりに綺麗ので、

昨日食べ残した分は何かに使いたいと思っていた。

そして今朝、リファリーヌ発見したのが運の尽き。俄然ばばの創作意欲が高まる。

リファリーヌとはそもそも何者?薄力粉の代わりにお菓子作りや料理にという謳い文句の、

うるち米の粉である。ばばは、思った。

レンジで紫芋あん入りの大福を作ろうと。

そして粉・砂糖・水を合わせレンジで5分間チン。

出してかき混ぜ,すりこ木で搗く、又レンジへ・・・・

これを3回も繰り返せば美味しい大福の生地が出来上がるはずだった。

ところがレンジから出した生地はダマダマになっている。

アリャッ、こりゃ変だ。

そこで初めてばばは「あっ、これは餅粉でなく、うるち米の粉だった」と気づくがもう遅い。

生地は練れども練れども、搗けども搗けどもモチモチ感がでない。

当たり前だよなあ・・・オッチョコチョイのばば。

気を取り直して生地に餅粉を混ぜる。目分量で。

砂糖も適当に増やす。ついでに水も。

さらに散歩途中摘んで下ごしらえして冷凍していたヨモギの粉末も。

それ以後はレンジに入れ出しては搗き、練り、又レンジへの繰り返し。

途中、家の下から大勢の子どもの声が聞こえ気をとられ、窓際へ行って下を覗く。

亀津小の子どもたちが思い思いにリュックを背負い水筒を肩にかけ、

中には傘を持った子もいて・・・・そうか、今日は遠足なんだ。

・・・と言うことは6年生は沖縄へ修学旅行へ出発するんだな、

梅雨入り宣言の翌日に出発とは。今年も又雨の中の修学旅行かなあ・・・等と

とりとめもなく考え、途中大福餅の生地のことを思い出し

慌てて戻り又単純作業の繰り返し。

2~3分レンジに入れては取り出すので、落ち着いて他の作業ができやしない。

7,8回も単純作業を繰り返しただろうか?

いい加減腕も疲れたので「まっ、いいか」とボールを取り出しひとしきり練る。

そして片栗粉を敷いたバットの中にあけ、しばし冷ます。

次ぎに生地を適当な大きさに切り、前もって作ってあった紫芋あんを入れて形を整える。

8個も作ると紫芋あんはなくなった。

さて、どうしよう・・・そうだ、白あんがあったじゃないと思い出し、芋あんの代用に。

かくして約30個近くの大福餅はできたけれど・・・・・・

んん~~~っ、何だか時間と労力だけ無駄にしたような気がする。

じじ、味はどう?

じじ両親に届けようと思うけど、OK?


あんばソーメンはいかが?

2008年05月22日 18時00分53秒 | Weblog

5月22日(木)時々雨

沖縄と奄美諸島に、やっと「梅雨入り」宣言がされた。

例年より10日以上遅れての梅雨入り宣言だという。

朝から空は厚い雲に覆われ降ったり晴れたり。

そんな中、今日、ばばは公民館講座の島料理教室だ。

去年に続き今年も受講することにした。

ズボラばばも、何故か小さい頃から料理だけは好きだった。

でも、せっかくばば母が季節の料理や節句の料理、正月料理など作っても

一緒に作ることはほとんど無かった。

母が亡くなってから「もっと、いろいろな料理を習っておけばよかった」と

後悔したが時すでに遅し。

だから、ばばの料理は自己流ばかり。

退職して暇ができた時、ばばがまず思ってのは、

郷土の料理を勉強してみようと言うことだった。

1年間で15回、いろいろな料理を学んだ。

中でも、ばばがよく作るのは「アンバソーメン」。

アンバソーメンはばば母も作ってくれたが、

それとは全く別物のアンバソーメンの作り方を習った。

 

ばば母が作ったアンバソーメンは、とても素朴な味で作り方も簡単だ。

まず、ソーメンを湯がく。ソーメンには元々塩味がついているので、

茹でた後充分水気を切り(洗わずに)鍋にもどして、

ソーメンが熱々のうちに油をいれて絡めて出来上がり。

塩味だけのあっさりしたアンバソーメンのできあがり。

母は薄焼き卵や味付け肉・豚骨の煮たのを添えたりもしていた。

ばばが6年間、天城町に通勤した時は、いつもこのアンバソーメンを作って

ばばの帰りを待っていてくれた。

仕事帰りにばばは必ず実家により、母と「アンバソーメン」を食べてしばらくおしゃべりして

「又明日ね」と、じじとむすめ達の待つ我が家へ帰ったものだ。

本当にばば母を思い出す一番の島料理「おふくろの味」だ。

 

でも、このアンバソーメンを作るとばばの知人達は「こんなの食べたことがない」とびっくりした。

ばばはばばで「アンバソーメンとは、これだ」と信じていた。

ところが、公民館講座で習ったのは・・・うどん(素麺でもよい)を茹でて洗っておく。

別鍋でジャコ(煮干し)を香りが出るまで油で炒めそこへ肉や野菜を入れてさらに炒め

調味料(醤油・酒・みりん・昆布茶)水を入れ味をととのえる。

そこへ茹でておいたうどん(ソーメン)を入れて味を絡めニラかネギを入れ完成。

スープは麺に絡めるくらいでそんなに多くはないが、スープを多めにして、

普通のうどんのように食べても美味しい。

 

昔、ばばの実家では、人を頼んで農作業をする時、屋根の葺き替えの時、

お弔いの時などもこのうどん(ソーメン)を作っていたが、

アンバソーメンって言っていたかなあ・・・

最近ばばは公民館講座で習ったアンバソーメンがお気に入りで

先日の実家の庭木伐採・剪定を知り合いのお兄さんに願いした時も

このアンバソーメンを午前中のお茶に準備して好評だった。

じじとのお昼ご飯にも作るし、じじ両親にも時々作って持って行く。

ばば母の「アンバソーメン」と公民館講座で習った「アンバソーメン」、

見た目も味も違うけれど、二つの「味」とも大事にしていきたい。