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ばばの日記

団塊世代 仲良し夫婦の暮らし
HPは http://www.ibuchan.com/

2010年04月03日 14時20分08秒 | 思い出
夢か現か????

今朝、布団の中で「コケコッコー」という鶏の鳴き声を聞いた。

亀津に住むようになってから、数十年にして初めてのことかも知れない。

ばばが子供の頃は、実家集落でも鶏を飼っている家は多く、

うるさいくらい鶏の鳴き声は聞いたが、最近、とんとなかった。


ばばが幼かった頃、鶏が「コケコッコー」と鳴くと

ばばも一緒に「コケコッコー、夜が明けた~~~」と叫んでいた???(笑い)

鶏はコケコッコー、コケコッコーと同じように鳴いても、

ばばの耳には、2回目のコケコッコーは「夜が明けた~~~」と聞こえた。


今朝のあの鶏、何処で鳴いていたのだろう?

ばばの隣近所で鶏を飼っているお宅を知らないけれど。。。。


鶏をばばの家でも飼っていた。

飼っているのは卵を産む雌鳥ばかり。

食糧難だった当時、鶏が産む卵は貴重な蛋白源だった。

一個の卵を家族で分け合うために、割りほぐしてお汁に入れた。

じじの家でも、一個の卵を半熟などにすると

父は、まず一口ずつ子供達に食べさせ、残りを自分が食べていたそうだ。

当時、何処も同じように貧しかったはずだけど、

心は今より豊かだったような気がする。


以前もブログに書いたことがあったけれど、ばばの小さい頃は貴重だった鶏卵。

ある日、近所の畑で一カ所にたくさんの卵が

まとめて産まれているのを見つけたばば。

畑と言っても、門を入った所にある小さな畑、今で言う家庭菜園かな?

ばばは夢中で卵を拾い集めたけれど、両手に抱えきれないほどの量だったので

スカートの前をたくし上げ、その中に卵を入れ大喜びで家に帰った。

立派な窃盗罪かな???

両親か、兄姉がいればきっと「元の場所に返してきなさい」と叱られただろうけど

幸か不幸か誰もいなかった。

ばばは、当時料理なんか出来る年齢ではなかったと思うが

なぜか、一個卵を割ってみた。

すると!!!!!

何とも言えない悪臭が・・・・・・・

そう、卵は腐っていたのだ。

今なら、水に浮かべて浮くか沈むかで卵の鮮度を見分けることも出来ただろうけど

当時のばばにそんな知識はなく・・・・・・

一個が腐っていても、次の卵は・・・・と卵10数個を割り続けたばば。」

なんとまぁ、見事全部腐っていた!!!!

あの悪臭に耐え、よくもまあ十数個の腐った卵を割り続けたばばの根性たるや!!!!!!


しばらく経って仕事から帰ってきた両親がビックリしたことは言うまでもない。

腐った卵を割った場所の土をクワで掬ってはゴミ捨て場?に運んだっけ。。。。


卵と言えば・・・・・

加計呂麻では、小学生が鶏を飼っていた。

生活かの学習の一環でもあったが、毎朝、水を換え餌は市販の飼料に

青菜などを細かく刻んだ物を混ぜ、水を少量加えて与えていた。

鶏はよく卵を産んだ。

鶏は複数羽いて、多い日には3~4個の卵を集卵できた。

当時、児童数7名・職員数7名計14名。

4日も経てば全校児童職員数分の卵が貯まる。

そこで、主事さんがゆで卵など作って給食時に配ってくれた。

何とも思わず食べていたけれど、あの鶏は、たしか烏骨鶏だったかも。

烏骨鶏の卵って、一個500円もするんですって。

後日それを聞いて、ビックリ。

もっと味わって食べるべきだったなぁ~~~。


もう一つ、卵の話。

5,6年前のことだけど・・・・・

お茶の時間にやはり主事さんが卵焼きを作ってくれた。

その卵焼きを作った卵とは?

ダチョウの卵だった。

ダチョウの卵って、とてつもなく大きいよね~。

普通の卵の何個分くらいあるんだろう????

割るのも一苦労だとか聞いたような・・・・

その時は、卵の上の方に穴を開け、中身を出し

殻は、何か飾り物に加工すると言っていたなぁ。。。

卵焼きは美味しそうに出来上がったけれど、

あまりにも大きな卵を見てしまったせいか、

ばばはすっかり食欲を失ってしまって

結局食べなかった。

あの時食べておけばいい経験になったかも知れないけれど・・・・と

ふっと思うこともある・・・・・・・


鶏と卵のお話、おしまい!

てるてる坊主、てる坊主、天気にしておくれ~~

2010年03月04日 18時23分55秒 | 思い出
3月4日(木)曇り時々晴れ

朝、我が家の下を賑やかな声が通りすぎた。

「あっ、亀津小学校、今日はお別れ遠足なんだ~~~」と直感。

台所に立ったついでに窓を開けて外を覗くと

リュックを背に背に弾んだ足取りの小学生集団が通っていく。

行く先は「なごみの岬公園かな?」それとも「陸上競技場かな?」

ばばは勝手に想像しながら子供達の背中を見つめていた。

今日一日晴れるといいね・・・・・天気予報では昼から傘マークが出ていたなぁ。。。

今の子供達は色とりどりのリュックを背負い、可愛いキャラクター水筒を下げ

お気に入りのおやつに、カラフルな愛情たっぷりのお弁当・・・・・・・・。


遠足の日は、授業がないので、まず嬉しい。

友達といっぱい遊べるのが嬉しい。

おやつが思う存分食べられて嬉しい。


遠足の前日、てるてる坊主作った子いるのかな?


ばばが小学校の頃って、リュックあったかなぁ?

おやつも母手作りの芋天ぷらとか、黒砂糖だったような・・・・

お弁当は卵焼きに塩鯖の焼いたのに・・・

えぇ~~~っと、あと何が入っていたんだろう?


低学年の頃は遠足の行き先は学校周辺の公園か(都会の公園とは大違い、遊具も何もないよ)

近くの海岸で決まりだったな・・・・

それでも「遠足」というだけで妙に嬉しかった。

学校からすぐ見える公園に行った時は、大きな柳の木に登って遊んだっけ・・・

お弁当の時間は、大事な大事なおむすびを一個転がしてしまって・・・


そうそう、隣集落の海岸まで行った時は、潮が引いていて小さなタコをいっぱい捕まえたよ。

お家で茹でて食べようと張り切って捕まえたよ。

でも、最後にちょっと大きなタコを見つけ捕まえようとしたら

タコがばばの手に噛み付いて・・・・・

その夜は魘されて、寝言で「憎たらしいぃ~~~タコ!!!」

って叫んだって母が翌朝笑ってた。


また、反対側の集落の海岸に行った時は陶器製の水筒を割ってしまって

怖くて母に言えず、後で母からさんざん叱られた・・・・・

水筒を割ったことではなくて、のらりくらり言い逃れをしようとしたことで。

その時、母が「正直の頭に神宿る」って言ったこと、今でも忘れられない。


怒られるのは一時的に怖いけど、嘘をつき通す方がよっぽど心が重いもんね。


当時はおおらかな時代だったと思うけど、男の先生が「トリス?」とかいう

ウイスキーの小瓶を持って飲みながら歩いてた。。。。。

大分経ってから「トリス?」がウイスキーって分かったけど、

当時は全然意味が分からなかったよ。


自分が児童・生徒時代は遠足は楽しかったけど

大人になって子供を預かる立場になると、遠足も楽しみばかりではなかったな。

子供が遠足で事故にあったり、怪我でもすると大変だもの。

ばばが今でも忘れられないアクシデントもいくつかあったなぁ。

川遊びをしていて裸足で川に入った子が川底にあった割れた瓶を踏んでしまい

何針も縫う大けがをしてしまった・・・・

遊具でターザンごっこをしていて、綱から手を放して地上に落下、足を骨折・・・・

蜂の巣に近づいて、刺され・・・・・

何故か全身に発疹が・・・・等々。


絶えず、子供に目を配らなければならないけれど、

遠足となると学年もごっちゃになり、行動範囲も広くなるので大変で

遠足が終わると、くた~~~っと疲れが出たものだ。


遠足の楽しみは、何と言ってもおやつとお弁当だけど、

おやつを食べ過ぎて、

お母さんが、きっと早起きして細々工夫して作ってくれたであろうお弁当は、

ほとんど手つかずの子もいたなぁ~。

「帰ってからお弁当をおやつにする」んだって。


万が一、遠足に出かけた後、雨が降っても、おやつやお弁当を食べていれば

子供は納得するのよね。


退職して、今は遠足で家の下を通る子供達を見ながら

「怪我などしないで無事帰っていらっしゃいよ~」と心の中でいのるばばだ。


ついさっき、ばば達が散歩に出かけようと準備していた時

また我が家の下の道路を、たくさんの小学生が賑やかにおしゃべりしながら

遠足から帰って来た。

そうっと窓を開けてみると、ちょうどばばの友人が子供達を引率して帰ってくるところだった。

ばばが二階から「パン、パン」と手を叩くと、友人は気付いてニコニコ笑いながら手を振った。


今にも降りそうな不安定な天気だったけど

子供達が帰るまで降り出さずに良かったね~。

りんごと塩鯖

2010年01月10日 21時16分33秒 | 思い出

☆☆☆ ↑ 上のテーマ(題名)をクリックしてテーマのすべてを表示させてからご覧下さい☆☆          

1月10日(日)曇り

昨日から家を1歩も出ない生活をしているばば。

夜中に咳が出るので、なるべく外気に当たらない方が良いだろうと・・・・

買い物は姉が一手に引き受けてくれ

じじの食事の準備も最低限に。。。。。ごめん!


ばば、子供の頃、病気になると嬉しかった。

学校は休めるし、普段は食べられない卵や塩鯖が食べられるし・・・・・

物の少なかった時代に幼少期を過ごしたじじとばばは

時々、幼かった日々のことについて話すことがある。

ばばが、今でも鮮やかに思い出すのは、S姉さんの鮮やかな手つきこと。

鮮やかな手つきで何をしたかって?

それはね・・・・・・・・・・

ばばが小学校低学年の頃なんて、調味料は量り売りだった。

あめ玉も一円で2個買えたよ。通称「五十銭飴」と言ってたけど、

今で言えばキャラメルのような色と形をしていたなぁ・・・・

そんな頃のある日、ばばは風邪か何かで学校を休んでいた。

すると、数件隣のS姉さんが遊びがてら家に寄ってくれ

お土産にりんごを持ってきたのだ。

すわっ、大事件です!

当時、りんごなんて見たことも食べたこともなかったもの・・・・・

S姉さんは、ばば母から包丁を借りると器用な手つきでクルクルりんごの皮をむき始めた。

細く細くつながって長くなるりんごの皮。

まるで,S姉さんがマジシャンに見えた。

その時食べたであろう、りんごの味は全然覚えていないが

S姉さんの鮮やかにりんごを剥く手つきと最後まで切れることなくつながった

りんごの皮の映像は何十年経ってもばばの脳裏から消えることがない。

ちょっと切ないなぁ・・・・・


次はじじの話。

じじも、幼い頃は病気になると嬉しかったそうだ。

「少しでも早く元気になってもらおう」と普段食べられない物も食べさせてもらえるから・・・・・

じじは、特に塩鯖が大好きだったそうだ。

今は、よっぽどのことがない限り、じじが塩鯖を食べることはないけれど、

あの塩加減はご飯が何杯でも食べられるのよね・・・・・

ある日、じじは風邪か何か病気で学校を休んだ。

すると、お母さんが昼ご飯は、塩鯖とご飯を枕元に持ってきてくれたそうだ。

じじは、熱があって学校を休んでいたにもかかわらず

塩鯖をおかずにご飯をどんぶりで7杯もお代わりして食べたそうな・・・・

これも切ないねぇ・・・・・


今は、食べたいと思えばほとんどの物はすぐ手に入る環境にいるじじとばば。

りんごも、産地からお取り寄せしてお腹一杯食べられるし

塩鯖も、すぐ手に入れて食べることが出来る。

だから、食に関しても「あれが食べたい!」という強い欲求はない。

「食べたい、食べたい」と長い間願い、やっと食することが出来た時の喜び

あの感動を、今の時代でも経験してみたいな・・・・・


とりあえず・・・・ばばが一番食べたい物って何?

うぅ~~ん、なあんにも思い浮かばない。

 

とりあえずは、明日こそ「100%元気ばば」復活して

じじの好きな野菜料理でも作りましょうか・・・・・


うさぎ追いし かの山 、こぶな釣りし かの川

2009年12月18日 15時09分57秒 | 思い出

12月18日(金)曇り

ばばが子供だった頃と今の子供たち、遊びも大きく様変わりしている。

どちらが遊び上手だっただろう?

一概には言えないと思うが、ばばは自分の子供だった頃が

いろいろな遊びを工夫していたと思う。


今のように塾もないし、学校から帰ったら家の手伝いのない日は

集会場に誰からともなく集まり男女、学年の隔たり無く

大勢で楽しく遊んだものだ。

遊びと言っても「缶蹴り」「陣取り」「縄跳び」等が主だった。

特に「缶蹴り」はひとりが缶詰などの空き缶を力一杯蹴って

鬼になった子がその缶を拾ってきて元の場所に置く間に

他の子はあちこちに隠れる。

木の上、近くの家の裏や床下など、鬼に見つからないように知恵を絞って

隠れたものだ。

鬼を交代して日暮れまで遊び続けた。

集落中を走り回って、それはそれは楽しかった。


家の近くでの遊びの他に、一升瓶などの空き瓶を持って田んぼへ行き

鶏の餌にバッタを瓶のいっぱい捕まえてきたり、

浜へ行って打ち上げられて延々と続くアサリか蛤の貝を拾ってきたり・・・・

どちらも鶏の餌だった。

鶏が殻のフニャフニャした卵を産む時は

「カルシュウム不足」と言って貝殻を拾いに行った。

拾ってきた貝を石で細かく砕いて鶏にあげると

本当に固い殻の卵を産むので、月に数回かの貝殻拾いもばばの大事な遊び兼仕事だった。


川や田んぼへ行っては小エビやフナ、タニシ、川貝等を捕った。

ばばの大好きな歌「ふるさと」の歌詞に

「うさぎ 追いし かの山  こぶな 釣りし かの川~」という一節があるが

正にあの詞に詠われているような体験をしていたんだな~~。

山でうさぎを追いかけたことはないけれど。

徳之島にいるうさぎは天然記念物「アマミノクロウサギ」だろうね・・・・

最近はこの貴重なウサギが野良犬やハブ・マングースに食べられてしまったり

交通事故にあって死んだりすることが多いそうだ。


山と言ってもばばの記憶では果実や木の実を見つけるのを楽しみにしていたな~。

男の子はメジロなどを捕まえに言ったりしただろうけど。。。

ばばが山に行くのは、薪取りか、山の近くの畑に植えてあった

パイナップルや芋の収穫の時が多かった。

パイナップルや芋の収穫の他にばばは、野イチゴ・椎の実・ゲェーマ、キノコを

見つけて採るのが楽しみだったなぁ~~。


時は移り、時代も変わりばばが遊んだ満々と水をたたえていた川は

水流は細く細くなり昔の面影はなく・・・・・

又川へ続く道は薪を採る人もなくなり草や木の枝が生い茂り

足を踏み入れるのさえ怖くなっている。

山も木がどんどん切られはげ山が多くなり

大雨が降ると赤土を川に、海に流す。


「うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川」の風景は今いずこ・・・・・


長道・他

2009年10月24日 14時11分15秒 | 思い出

10月24日(土)小雨

「朱に交われば・・・」と言うけれど、

先日もちょっと書いたブーゲンビリアの花。

「白い花が咲く」と信じていたのに、周囲の赤とピンクの花に影響されたのか

よりにもよって、一番濃い赤い花になってしまった。

何という、裏切りじゃ!!!

純白と淡いピンクが共存している姿に惹かれて」買ったのに~~。

元の姿に戻すためには、どうしたらいいのかなあ。。。

画像の真ん中で一番紅を主張しているのが、可憐な白とピンクの花を咲かせていた木とは誰が信じよう?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日のお昼はハムと高菜入りのチャーハン・

カリカリに焼いた煮干しで取ったダシを使ったみそ汁

塩味で炊いた豚骨。

「美味しいね」「美味しいね」と言いながら食べていると

じじが急に「あの、長道の両側の広々した田んぼを見て感動したよ。

こんな光景が島にもあったんだなぁ」って。

あの長道とは?

ばばの実家集落から隣の天城町に向かう全長1㎞前後の直線道路のこと。


今はあの長道の両側はサトウキビ畑が広がっているが、

ばばが子供の頃は、ほぼ全部が水田であった。

ばばの家の田んぼも長道沿いにあった。

もちろんばばは子供の頃(入学前から中学生まで)は

田植えをしていた。

今でも田植えをしてみたい・・・と時々思う。

田植えは大好きな作業だった。

じじは、ばばと結婚が決まって初めてばばの家の田植えを一日だけ手伝ったが

作業はとてもきつくて、でも・・・弱音を吐くわけに行かず終日頑張ったと

今でも話す。

よっぽどきつかったんだね。

でも、ここで、リタイアしたらばば両親に悪い印象を与えると思ったんだね、じじ。


じじが、この長道を初めて通ったのは中学1年生の時だったそうだ。

中体連の試合が天城町であり、学校から応援に行きなさいと言われて

初めてバスに乗って行ったんだって。

その途中、長道を通って両側に延々と広がる水田のある風景に感動した・・・・と。

初めての一人旅?だったらしく、印象に強く残っているそうだ。

当時はバスに乗って隣町に行くのも大冒険だったんだよね~~。


せっかく競技の応援に行ってもバスは試合会場前までは行かないので

バスを降りてからもテクテクテクテク足が痛くなるほど歩き続けたそうだ。

その時代は、バスも数時間に一本しかなく、帰りのバスの時間を気にしいしい、

終日応援し、帰りに乗ったバスの中からは水田の水面に映る月が見えたって。。。。


じじが感動しながらバスに揺られ天城町に向かっていた時、

ばばは、もしかしたら長道の田んぼで田植えをしていたかも知れないね。


長道と言えば、ばばは田植えと、

中学校の3年間、毎年元日に行われた8集落対抗駅伝大会の思い出が強烈だけど

じじにとっては、初めてのバス乗り体験だった・・・・・


そうそう、当時じじはまだ数少なかったバスやトラックが走り去った後

その排気ガスの匂いをクンクン嗅いでいたんだって。

ちょっと変!

・・・・・こんな話をしながら美味しい昼食タイムは、お・わ・り。


「あなたが泣きなさい!」

2009年09月22日 15時15分56秒 | 思い出

 

9月22日(火)晴れ

子ども1・・・しゃがんで泣きじゃくる

子ども2・・・泣いている子の頭をなでなでする

これは、ばばが遙か昔、幼稚園生だった頃

「どんぐりころころ」を二人組になって踊った時、

「♪・・やっぱりお山が恋しいと 泣いてはドジョウ困らせた♪場面の動作。


これまでにも何回かブログにも書いたが、

ばばは仲良しのKちゃんとペアで踊った。

昔、参観日なんてあったか定かではないが

廊下にはお母さん達が見ていたような気もする

ところが・・・・・・・・・・・

いよいよ上記の場面になっても

二人とも「泣くのはイヤだ・・・」って譲らず

ついに泣く動作をしないかった。

そして、レコードは終わった・・・・・

ばばとKちゃん、先生に叱られたかな?

家に帰って母に叱られたかな?これも記憶にはないが

きっと、強情っぱりのばばが本当は泣く役だったかも知れない・・と今頃になって思う。

不思議なもので、この場面は今でも鮮やかに思い出せるし

「どんぐりころころ」の踊りも全部踊れる。


幼稚園の意地の張り合いから数十年も経って、ばばはこの歌を

ずうっと間違えて歌っていたことに気づいた。

小学1年生の音楽の教科書を見たのだ。

すると・・・・

「どんぐり ころころ どんぶりこ」と書いてあるではないか!!!

ばばは幼稚園からずうっと「どんぐりこ」って歌っていた。

何十年も経って間違いに気づくってあるんですねぇ~~~。


ところで、今日、またまたばばは新事実を知ってしまった。

なんと!!!!!「どんぐり ころころ」には3番まで歌詞があるらしい。

ラジオを聞いていて生まれて初めて知った事実。

その歌詞っていうのがね、

 どんぐり ころころ 泣いてたら

 仲よし子リスが とんできて

 葉っぱに包んで おんぶして

 お山に つれて 帰ってった

・・・って。

ラジオを聞き終わって慌ててノートとペンを取ってきて早書きしたけど

今聞いたばかりなのにもかかわらず最後の方は合っているか自信がない。

全く、ばばったらぁ~~~。

・・・と書いても、落ち込んでなんかいないよ。

だって、昨夕、道でバッタリあった、ばばと同じ校区に住むHちゃん、

まだ40代だと思うんだけど

「自分の息子の名前、間違えて怒られちゃった~~~」って。


さて、さて、ばばと幼稚園生の時「どんぐりころころ」を踊ったKちゃん、

今は鹿児島在住だけど、Kちゃんもあのことは覚えているかな?????

もう、40年近く、イヤ、それ以上もKちゃんとは会っていないかも。

今度会えたら、ぜひ「どんぐりころころ事件?」覚えているか確かめてみたい。


「ムッチ投げィ」

2009年07月30日 14時27分37秒 | 思い出

7月30日(木)晴れ

今日は朝から用事で出かけたばば。

出かけ先で「徳高の上あたりに家がたくさん建ちましたね」

と言う話になった。

ばばが散歩を初めて2年ちょっとだが、その間にも5軒くらいの家が建った。


家を新築する時、棟上げの日に島では「餅投げ」というイベント?をする。

棟上げの終わった家の上から白い丸餅やお金、お菓子、飴玉などを

下で待つ人々に向かって投げ(撒く)、大人も子どもも競い合って拾うのだ。

このイベントはばばが子どもの頃もあったが、今、ばばの住む地域では

棟上げの日は昼過ぎに集落放送で

「今日○○時から、どこそこの○○さん宅の棟上げで餅投げがあります。

いらして下さい」と案内?がある。

滅多に出かける事はないが、たまたま散歩コースの途中の時は

ちょっと止まって参加する事もある。

撒かれた持ちを投げるってなかなか難しいものだ。

ばばが子どもの頃、母は「餅を投げる人を見上げてないで、

餅が落ちてくる地面を見ておきなさい」とばばに教えたものだ。

しかし、ばばはやはり屋根の上の人が気になって、

見上げてばかりいるので餅はなかなか拾えない。

でも、子どもの頃あるお宅の餅投げで

「シン餅」という大きな餅を拾った事は今でも忘れられない。
(後にも先にも一回きりの奇跡?だったかも・・)

「シン」とは「隅」と言う意味の方言だ。

餅投げの餅は四隅にはお正月のお供えのような大きな餅が置かれて

小さい丸餅は箱のような入れ物に入れられている。

屋根の上で一種の神事が終わると、

四隅の餅を4人の大工さん達が一個ずつ持ち

お互い屋根の中心に向かって「セーノッ」とかのかけ声と共に

対角線上に投げ合う。同時に他の大工さんが

小さい丸餅やお菓子飴玉なども投げる。

お餅の数やお金も吉数があるそうだが、詳しい数はばばは知らない。

 

餅投げのエピソードはいくらでもあるが、

特に印象的だったのは、もう時効だから言って良いかな????

約10年前、徳之島外で仕事をしていたときのことだが・・・

職場近くで新築のお宅の棟上げがあり「餅投げ」があった。

夕方4時頃からだったが、集落の方は勿論

何と!ばばの職場の上司はじめ職員全員参加したのだ。

勤務中だったけど、上司の許可のもと、ばば達も喜々として参加。

その時驚いたのは平均年齢70才以上?くらいの集落だったが

いったん餅投げが始まるや、おじいちゃん、おばあちゃんの

動きのすばしこい事。

ボーッと突っ立っているばばなんか押し倒されそうなくらいのパワーだった。

その時も、ばばは1,2個しか餅は拾えなかった。

気の毒に思ったのか。70代後半のおばあちゃんがばばに

数個お餅を分けてくれたっけ・・・・懐かしいなぁ・・・・

ふだん買って食べる白餅って、特別美味しいとか考えては食べないが

「餅投げ」で拾ったお餅は格別な味がするから不思議だ。


昔は、餅も剥き出しで投げていて少々土が付いていても平気で食べていたが

今時は餅もちゃんとラップで包まれている。

これも、時代の流れかな?


ばばは、実家や、今住んでいる我が家・じじ両親宅の棟上げには何故か参加していない。

我が家が建てられた当時、じとばばは加計呂麻にいて

家主不在のまま新築したのだ。

だから棟上げ当日の家主も参加する神事も何も知らないままだ。

もう、自分が当事者になっての餅投げはないと思うが

何処かの餅投げがあったら、張り切って「シン餅」狙いで出かけようかな???


ガムと消しゴム

2009年07月03日 13時45分54秒 | 思い出

7月3日(金)曇り時々雨

じじとばばは食事中色々おしゃべりをするが、

昨日はばばが「子どもの頃、ススキを石で叩いて潰して

その後、集落中のガジュマルの木の幹を石で叩いて樹液?を出し

潰したススキに樹液をまぶし付けて乾かし消しゴムを作ってたよ」

と言うと、じじが

「じじは、赤土団子にガジュマルの樹液を付けてガムを作っていた」と言った。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ばばの家は集落の一番外れにあり、庭に大きなガジュマルの木があった。

ススキだって家の周囲にいくらでもあったが、

消しゴムを作る時は、何故か家と一番反対側の集落の外れでススキを取り、

ガジュマルも家とは一番遠いお宅の木から石で叩いて樹液を出していた。

樹液は白くて、例えるなら今のボンドのような外見だった?

勿論ボンドのような接着力はないけれど、

何回も何十回も重ねて付けるうちに

ススキが固まったように見えたのかなあ??

そうして作った消しゴムは何日間か乾かして実際に使った記憶があるが

それで文字が消せたかというと・・・・・・・・・・ウ~~~ン。

答えはノーだった。

それでも、家の手伝いがない日には友達とせっせと消しゴム作りに精出していたばば。

一体何の目的で?自分でも分からない。。。。。。。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

じじのガム作りは、まず赤土を丸めて団子を作り、

それにガジュマルの樹液を何回も染み込ませ乾かすのだそうだ。

乾かした所で赤土を洗い流すと樹液の固まりが出来ていて

それを「チューインガム」と言って噛んでいたそうだ。

ばばが「どんな味だった?」と聞くと

「ただ赤土の匂いがした」と答えた。

ばばの「消しゴム」、じじの「ガム」、いずれも貧しかった時代の

子どもの遊びだったのだろうな。

今思いだしても、切なくなる。


今のように何でもお店で買える時代ではなかった、ばばの子ども時代。

学校で使う粘土は、山の近くの地層が剥き出しになっている場所を探し

そこから粘土層を見つけて竹の割った物で削り取って持って行った。

もう一つ、粘土を採る方法は、川に潜るのだ。

すると、川底に粘土の固まりがあって何度も何度も川底に潜っては

必要なだけ粘土を削り取って学校へ持って行った。

自然からいただいた粘土は今のお店で買う粘土のように柔らかくもなくて

すぐ固くなってしまうが、それでも水で濡らしながら

好みの堅さにして使っていた。


ない物は自分で見つける、そして作る・・・・が当たり前だった時代。

必死に頭を巡らせ、考え、工夫して生活していた時代だったなあ。。。


何でも易きに流れてしまう現在の自分を反省!

 

 


サイ・タナガ・ガン捕るど~~~

2009年06月18日 14時01分06秒 | 思い出

 6月18日(木)曇り時々小雨

パソコンをするばばの横で昼寝をしていたじじが

急に起きたのでびっくり。

「じじの肩に巨大キノボリトカゲがとまっていて、

ばばに取って!取って!と叫んでいる夢を見たって」

夢にまで、求めている動植物が出るようになったか~~じじ~~。


ばばが子どもの頃はキノボリトカゲも

身の回りでしょっちゅう見かけていたが

今は「見たい!遭遇したい!」と願ってもなかなか実現しない。

ばばが子どもの頃見ていたこと、していたことで

今の子達は経験できないこともたくさんある。

時代と共に子どもたちの生活も大きく様変わりするからね・・・

ばばが子どもの頃遊んでいたことなども

思い出し、思い出し少しずつ書きためていこう。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ばばが子どもの頃、編み物が流行ったことがあった。

ほとんどの家庭にか編み針なんて洒落た物はなく・・・・

ばばが何を編み針の代用にしたかというと・・・・

通りがかりのお宅の竹垣の適当な竹の小枝を折って使っていた。

毛糸はきっと家にあったセーターでも解いた物を使ったのだろう。

学校でも、家でも暇さえあれば竹垣の竹から作った編み針で

せっせと何かを編んでいた。

残念ながら「何を」編んだのかは記憶にない。

その後社会人になってから、今度はかぎ針編みに興味を持ち

こたつカバーのような大物からセーター・ベスト・

他、色々な小物も編んだが、棒針編みでは作品を仕上げたことがない・・・

・・と言うか、編み方自体が分からないばば。

幼かったあの日あんなに熱中した棒針編みなのに、

ばばにとっては「昔取った杵柄」にはならなかったなぁ。。。

 

田植えのことはこれまでも何度かブログに書いたが

ばばの楽しみは「田植え」の仕事以外に

フナや小エビやタニシを捕まえること・・・

三つとも食糧にもなるが、ばばがしたかったのは

捕まえた生き物を家で飼うことだった。

タニシは何とか二世誕生まで飼うことが出来たが

フナや小エビは悉く途中で死なせてしまった。(ごめんね~~ごめんね~~)

当時は小エビなどは笊ですくって取るほどたくさんいたけれど

農薬の使用と共に姿を消してしまったのか時の流れと共に

減反政策で田んぼは畑にされ、水生動物は、ついには絶滅した。


ばばの家では5,6カ所に田んぼがあった。

田んぼで仕事をする時のどが渇いたら・・・・

母がお茶なども準備していたかも知れないが、

ばばは飲もうと思わなかった。

田んぼには水が湧き出る場所があり「イジュン」=泉と言っていた。

何処の田んぼにもあるわけではないが、

ばばの家の田んぼには3カ所ぐらい泉のある田んぼがあった。

ばばは作業の途中、水飲みに行くのだがコップなんて洒落た物はない。

何で飲~~~~~むか?

答えはツワブキの葉っぱを三角錐型に丸め

とんがった所を折り曲げて作った即席コップ。

即席コップですくって飲む水は甘くて美味しかった。

今考えれば消毒していたわけではないし、

不純物も混じっていたかも知れないけれど

田んぼの泉の水を飲んでお腹が痛くなったことは一度もなかった。


ある日、ばばはいつものように泉で水を飲もうとした。

すると泉の中に発見!!

小エビ(サイと言っていた)が数匹!。

好奇心旺盛なばばは水飲みどころではない。

持っていた即席コップで何とか小エビを掬おうと悪戦苦闘。

何とか捕まえた小エビは、泉の横に小石などで仕切をしてその中へ入れた。

数匹の小エビを夢中で追っているうちに、

泉の奥の穴からテナガエビ(方言ではタナガと言う)も出てきた!

ワオ~~~!!!

こうなると小エビなんかめじゃない。

ひたすらタナガをターゲットにする。

ばばが掬おうとすると穴の中へ逃げるので

ネコジャラシのような植物を手折って穴の入り口でヒラヒラさせ

おびき出そうとしたが、敵も然る者、なかなか挑発に乗ってこない。

そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎ

「ばば~~~」と呼ぶ母の声。

ハッと現実に戻り、みんなが仕事をしている所へ戻ったが

その後も「喉渇いた~~」と言う口実で何度も泉へ行き

タナガ捕獲に挑戦したがついに成功しなかった。

この日、捕まえたサイを家に持ち帰ることはせず、

泉の中でなく田んぼへ放してやった。

泉の中には時には蟹がいることもあった。

ばばは獲物を見つけるたびに仕事をほったらかして捕獲しようと試みたが

ばばの腕ではせいぜいサイしか捕れなかった。

それにしても、時には自分の手が入り、ネコジャラシが入り・・した

泉の水を何とも思わず「甘くて美味しい」と飲んでいた幼かったばば。


農作業の手伝いは辛かったけど

大好きな両親・姉妹といつも一緒で、今考えると

何物にも代えがたい至福の時間だった。


加計呂麻島

2009年06月06日 21時39分06秒 | 思い出

6月6日(土)晴れ

ばばは、これまで7年間、加計呂麻で生活した。

30数年前に4年間と、約10年前に3年間・・・・・

「加計呂麻慕情」という歌に「鳥もかよわぬ 加計呂麻島に・・・・」という歌詞がある。

いかにも絶海の孤島のようなイメージがあり、

加計呂麻の方々は「鳥も通う加計呂麻島に・・・・・」と

歌詞を変更して歌っていた。

ばばも転勤の時、上司から「勤務地は加計呂麻です」

と告げられた時は、ショックで赴任拒否まで一時は考えた。

しかし・・・・・・・・・・

加計呂麻は楽園だ。

自然が豊か、人々はあくまで善良で優しい・・・

ちょっと世俗を離れて暮らしたい時など、ピッタリの場所だ。

行く時こそ不安だらけだが一ヶ月も住めば

誰もが「楽園」だと感じるはずだ。


ばばは加計呂麻の勤務地に行くべく、徳之島から約2時間半船に乗り古仁屋で下り

更にフェリーに乗り換え約20分。

港についても迎えは無し、何処へ行けばいいのか????

港で勤務地の場所を聞き自家用の軽自動車で山道を進むが

途中、土砂崩れで前進できなくなり、立ち往生していると

前方からあせびっしょりの女の方が走ってきて・・・・

迂回して職場へ向かうようにとのこと・・・・

迂回と言ったって、始めてきた土地で何処へ行けばいいの?

ここは山の中よ・・・・


こんな時頼りになるのがじじ。

だって、じじは加計呂麻で約10年過ごしていたからね。

狭い山道で何とか方向変換をし迂回路へ。

約40分くらいで新職場へ着いた。


ほどなくばばの荷物が着くと、集落中の方があちこちから集まって下さり

あっという間に片づけ終了。


翌朝は、アカヒゲの鳴き声で目が覚めた。

職場まで玄関先から120歩。

行き交う方々が丁寧に挨拶して下さり、言葉をかけて区下さる。

でも、ほとんどが70才以上の年配の方々ばかり。

ばばが生活した集落は歩いて6,7分もあれば集落一周できた。

何と集落の生活排水を流す溝には大ウナギもいたよ。

職場から1分で海。

砂浜は白く、水は透明。

気持ちよさそうに泳ぐ魚の姿や、時には大きな貝も見えた。

そんな海でシーカヤックに乗ったり、泳いだり・・・

夕方ともなると、沈む夕陽が綺麗で・・・・・

その夕陽を見ていると小さなクヨクヨ・ムシャクシャなんか吹っ飛んでしまう。

集落に「売店」とよばれる小さな店が2軒。

お米、塩、酒、ちょっとしたお菓子など、日常生活に必要な最低限の物は買える。

売店にない品物は車に乗って山を越え、フェリーに乗って古仁屋に渡り

20分ほど駆け足で店を回り、さっさと買って

また個人の瀬渡し船のような船で戻り、車で山越えで帰る。


小さな集落内の生活なので、土曜日は毎週のように古仁屋に渡り

さらには奄美市まで足を延ばし、ショッピングをしたり美味しい物を食べたり。。。

これがばばの一番の楽しみだった。


こぢんまりとした集落での3年間の単身生活。

今になって思えば、楽しい思い出ばかりだ。

集落の方々とのおつきあいはまだ続いている。

善良で、義理堅いおじいちゃん、おばあちゃんにもう一度会いに行きたい!