昨日に引き続き『西洋哲学史』を読む。第13章にエウリゲナの『ペリフュセオン』が引用されている。
自然を分割すると、四つの差異によって、四つの種に分割することができると思われる。その最初の種は創造し創造されないもの、第二の種は創造され創造するもの、第三の種は創造され創造しないもの、第四の種は創造せず創造されないものである。この四つの種のうちふたつの種は、相互に対立している。つまり第三の種は第一の種と、第四の種は第二の種と対立する。けれども第四の種は、それが存在することがありえない不可能なことがらに属しているのである。
ここで第一の種は、神であり、第二のものは、神の知性のうちにあるいっさいの原型、第三の種は被造物の世界、そして第四の種は神である。ここでエウリゲナが主張するところによれば、第一の自然から発して第二の自然、さらに第三の自然へと下り(カタファティケー)その中に神のはたらきを見るのが「肯定神学theologia positiva」で、そこからさらに第四の自然へと遡る(アポファティケー)行程が「否定神学theologia negatigva」である。この下降と上昇の運動で閉じられる円環運動が神をみる思考の運動である。この後半の過程は、非合理的な過程の臭いがあり啓蒙時代以降は評判が悪い。神秘的とされたものについては、「否定神学」のレッテルが貼られるのだ。しかし当時は決して今のような「神秘的=非合理的」とされる意味合いはなかったようだ。認識の側面を考える際に認識することから漏れてしまうものがあることをこの表現は、教えてくれる点で重要だと私には思われる。時代はずっと下るがラカンの欲望の理論において決して象徴化されない欲望というものの存在というのは、この思考法に通じるところがあるように思われるのだがどうだろうか。