烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

カントの哲学

2006-06-28 20:14:49 | 本:哲学

 『カントの哲学 シニシズムを超えて』(池田雄一著、河出書房新社刊)を読む。冒頭に書かれてあるようにシニシズムに対するオルタナティブを模索するために、カントの三批判書を読むというものである。アウシュビッツのあとの哲学の屋台骨が崩壊した状況から現代哲学は立ち上がり、そして9.11テロを迎えた今日、シニシズムを克服することは可能なのだろうか。以下はこの著書を読んでの私の勝手で断片的な感想であるから、内容の要約にはなっていなことを予めお断りしておく。
 理性を構成的に使用するところからさまざまなアンチノミーが出来することを著者はまず提示する。そこでオースティンの言語行為論を援用しつつ、「事実確認的」言説を構成的に使用していくことの限界を指摘する。オウム真理教の疑似科学的言説は、事実確認的な言説で世界を説明し尽くそうというところからくる妄想であると診断している。果たして本当にそうか。
 著者の指摘するように、事実確認的言説は、それを発言した人に対して真偽の根拠を明らかにするように要請することが許されているものである。そして共有されている認識にもとづいて真偽の判定ができうる言説である。これに対置されている行為執行的言説は、発言することにより行為をなすような言説であり、これには「因果的な根拠の説明が排除されて」おり、まさにそのことによって言説の有効性が担保されている言説である。議長が「これで閉会にします」と宣言するとき、神父が「汝らを夫婦と認めます」と宣言する時、その言説に対して、根拠を問うことは禁じられている。言うならばその発言の当事者が「根拠」である。著者は、科学的言説は事実確認的言説であり、これによる一元化の暴走がオウム真理教のような事件を起こしたと述べているが、上述の議論からすれば、事実確認的言説が不足していることがそうした狂信的な凶行を招いたと言わざるをえない。カルト集団などの言説は、教祖などのカリスマの言説を無条件に、行為執行的言説と崇め、事実確認的言説を禁じてしまうことにより成り立つものである。科学的言説は、あくまでも事実確認的言説に開かれており、その土台で反証可能性を認めている。著者の述べているように「あらゆる言説が事実確認的言説に一元化されるということは、したがって科学的な言説からの逸脱を意味する」ことにはならないのである。反証可能性と反事実的仮定との混同がここに見られる。科学的な言説が白黒をはっきりさせるものだという誤解があるようだが、一般的にいって科学的言説の多くは統計的確率的言説であり、ある条件の下でこれこれの確率である現象が認められるということを述べるものだ。この点は明確にしておく必要があろう。


 続く章では、ラカニアンであるジジェクとジュバンチッチを引用して精神分析からみた倫理について触れている。自らの欲望をあきらめないことが精神分析的にみた倫理の根本だとされるのだが、これがカントの理性と底でつながっている。理性の統制的使用によりつくりだされる「理念」こそは、純粋な想像の産物であり、経験とは無関係に導出される。「君の意志の格律がいつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という実践理性の第一法則は、いっさいの経験と関係ない。この理性の命法は、精神分析的にいうと欲動の「汝享楽せよ」という行為遂行的命令なのである。カントとサドの共通性については、つとにラカンが指摘しているが、純粋理性と欲動は表裏一体であることの指摘は現代の倫理を考える上で重要である。


 最後の章では、人間の心という概念を構成的に語るのか、理念として統制的に使用するのかということが問題とされている。心を科学的に、構成的に語るということに著者は否定的であるように見えるが、ここでも「単純化していえば、(中略)人間の初期設定は遺伝子によるものか、あるいは学習や文化や制度によるものか、ということだ」と述べられており、遺伝と環境の悪しき二分法が顔を出している。ところどころに出てくる単純化しすぎた二分法が私には大変気になった。人間の自由を論じるうえでこうした二分法はかえって視野を狭くしてしまうものではないだろうか。
 現代の倫理を構築する上で、理念は欠かせないと私も思う。経験とは無関係なところで前提とされる「命法」が、人がお互いに助け合って生きていく上では欠かせないことは確かである。それに対するシニシズムにどのように敢えて然りを言うのか、これが問題である。