烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

哲学者は何を考えているのか

2006-06-24 19:51:45 | 本:哲学

 梅雨前線の活動も本格化して高温多湿の環境となり、本の読みづらい季節になった(おまけに仕事も忙しいし)。
 『哲学者は何を考えているのか』(ジュリアン・バジーニ、ジェレミー・スタンルーム編、松本俊吉訳)を書店で手に取り、目次を眺めると掲載されている「哲学者」の中にヘレナ・クローニンやリチャード・ドーキンスが目に留まった。これは編集方針が面白いかもと思い、即購入した。
 第一部は「ダーウィンの遺産」と題され、主に社会生物学、進化心理学から見た人間論について各論者に対するインタヴューの要旨が書かれている。インタヴュー記事にありがちな冗長な点もなくコンパクトで読みやすい。以下四人の論客の発言について、私なりに重要だと感じた発言の抜粋を記す。
1.ピーター・シンガー(ダーウィンと倫理)
進化論的事実からだけでは、倫理的な規範を導き出すことはできないのではないかとい批判に対するコメントとして。
「ダーウィン的に説明にできるのは、どの規範がうまくいき、どの規範が多くの[本能的]抵抗に遭うだろうかという点に、私たちの注意を促してくれるということであり、倫理的規範の策定にあたって、その点をわたしたちは心に留めておく必要があると私は考えています。けれども、私たちにとって重要な倫理的価値と、人間本性における進化した傾向性の強さとのあいだには、常にトレード・オフの関係があるのだということは認めねばなりません」。
2.ジャネット・ラドクリフ・リチャーズ(ダーウィン、自然、人間の思い上がり)
ダーウィン以降「自然性」に訴える議論は失効してしまっているという見解に関連して。
「私たちは、自然なものに干渉することは危険であるという、深く染み付いたものの考え方を身につけているようです。例えばそれは、神を演ずることに対する異議申し立てなどに現れています。けれども、そもそも私たちが干渉することができるのは、あらかじめ目的を有した、もしくはある一定の方向に進むべく意図された、何ものかに対してでしかありません。それに対してダーウィン的自然は、全体としてある一定の方向に進むべく意図されたものではなく、ただ単に生起するものにすぎないのです。ですから[現在与えられている自然のあり方が必ずしも最良のものであるという保証はないわけで]、もし自然が他の道筋を取っていたとしたら、物事はいまよりずっとよくなっていたかもしれない、と考えることもできるのです。もっとも、いまより悪くなっていた可能性も同じくらいありますが」。
3.ヘレナ・クローニン(進化心理学)
社会形成理論に対する反論として。
「ところで、ここにはひとつの皮肉な結果がともなっています。社会形成理論を『遺伝的決定論』に対する防波堤として唱えている人々は、実質的に-もしそれがうまくいけばの話ですが-度を越した『環境決定論』につながるような立場を採用しています。そうなると、子供たちは大人の操り人形となり、女性は家父長制社会の操り人形となり、人々はみな『メディア・メッセージ』や広告や言語的情報操作の操り人形となってしまうことになります。もっと言えば、いかなる人の心も、可能生としては、任意の他者によって操作されうる対象だということになってしまうでしょう」。
4.リチャード・ドーキンス(遺伝子と決定論)
「遺伝的」という用語を関することの意味について。
「それは、複雑な因果連鎖の網状構造の形成に、統計的に寄与しているだけなのです。そして自然選択が起こるためには、それで十分なのです。ダーウィニストが遺伝子について頻繁に語りたがるただひとつの理由は、ダーウィニズムのプログラムを遂行するには、生物集団における個体変異のなかで遺伝子の影響下にあるものに着目しなければならないということなのです。ですから*、私たちは決定論について語っているのではありません。私たちが語っているのは、統計的データであり、分散分析法であり、遺伝率なのです」。
*「ですから」というのはおかしな言葉で「だから」が正しいのだが、ここはそのまま掲載。

各論者の論点とも至極もっともな点であり、特に最後のドーキンスがいうように、「遺伝的」ということが「統計学的概念」だということは、社会的な合意を形成していく上でたいへん重要なことだ。義務教育で「統計学」はともかく「統計学的考え方」は絶対教えておくべきだと思うが、実際は簡単になるばかりでとうてい望めそうにない。
それにしても社会生物学的発言に対して、おかしな誤解をして反論する人々のどこに原因があるのかと尋ねられて、
「うーん、それは私にはわかりません。おそらくある種の人々にとっては、単に、人間の問題に根本的に興味を持っていない者がいるということが、想像の範囲を超えているのでしょう。それで彼らは、私たちが語る事柄はすべて人間にとって何らかの意義を有しているに違いないとか、少なくとも、そのように意図されているに違いないと、想定するのでしょう。彼らは単に、進化論それ自体に、人間とはほとんど無関係かもしれないけれども、問うに値する興味深い問題があるのだということを理解できないのです」。
と答えている箇所は、「本音」が漏れているようで苦笑してしまった。
まだ読書途中の本であるが、推薦できる本である。



1 コメント

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社会生物学の正しさは疑える。 (論理的虚構)
2007-10-13 21:37:36
数学は、公理という独断を採用しているために絶対確実に正しいかどうか分からない。
自然科学は、それに加えて実験による証明という、何らかの枠組みを独断的に前提しているために絶対確実性からさらに遠ざかった。
科学哲学は、科学を擁護したいがために、形而上学的実在論、科学的実在論、道具主義、操作主義、実証主義、奇跡論法、構成主義的経験論、介入、構造的実在論、内在的実在論などの独断に陥っている。
俗流心理学に至っては、ただ1つの演繹すらない。
しかし、演繹という語にまつわる問題もある。それは……。

どちらの陣営にも個人的な、あるいは自らが属する集団に共有されている感覚や感情を不当に〔論証なしに〕正当化するという事態が蔓延しているが、実際にはいずれも同一の誤謬に陥っているという点を以って同一項で括ることができる。
わたしは、それが暫定的なものであれ不確実なものを魔術的な仕方で確実なものに変換してしまう独断バカを一般人(これには一般的な多数派と一般的な少数派の双方が含まれる)と呼んでいる。
わたしは、こうした頭の弱い存在者群に対して啓蒙を実践しているところである……。

この問題に絶対確実な回答を与えるには、まず絶対主義対相対主義、超越論対非超越論に決着をつけねばなるまい。
「そして、指示の理論について考えねば……!」
# 記述説、因果説、記述の束説

それは、すべての独断を消去=救済する計画――。(隘路であることが判明したが、それでも……!)

■永劫懐疑
http://www5.plala.or.jp/skepticism/
  推薦のことば(ニーチェ)「この人を見よ。」
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