烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

哲学者は何を考えているのか2

2006-06-25 22:20:45 | 本:哲学

 『哲学者は何を考えているのか』の後半部分は、実在論と反実在論についてのインタヴューが並ぶ。その中でジョン・サールは、「外在的実在論external realism」と呼ぶ見解を擁護することに専念していると述べている。これは、私たちの知覚・思考・感覚・態度とは独立に現実世界が存在するという考えである。至極常識的な発想であるが、サールは「決して常識に訴えているのでは」なく、「私たちとは独立に存在する実在が存在するということ」を「背景的前提」とするということである。私たちはこうした前提なしには対話をすることすらおぼつかなくなるから、一般に行っている対話が意味のあるものならば、すでにその前提を受け容れているという超越論的論証である。その論証の返す刀で遠近法主義perspectivismを切り捨てる。「遠近法主義を主張する連中は、あらゆる知識は、ある特定の視点から見たものであるという自明の事実から、それゆえ、ただ存在するのは視点の取り方のみであるという結論を導くという、明白な過ちを犯していると私は思います。それは誤謬推理です」。
 確かに私たちがこの世界に住んで周りの人たちとコミュニケートしているという事実には、疑うことのできない、疑うこと自体が意味を成さない「基盤」というものがある。この外在的基盤には、さまざまな物理的生物学的諸条件が含まれるに違いないが、それらはあくまで条件である。その上に成立する意味の世界こそが問題であろう。サールが例にとりあげているように、塀と境界線とのあいだには大きな存在論的差異がある。境界線は、地面に引かれた一本の線であると同時にそれを設定する権限のある者によって宣言されてこそ初めて成立するものだからだ。遠近法主義者は、幾何学的直線の存在を云々しているのではなく、その成立を宣言する力の意味について論じているのだと私は思う。だからサールのように「明白な過ち」と簡単に切り捨てるわけにはいかないだろう。
 あるものについて論じる場合に少なくともそのものが何を指示するかがはっきりしないと論じようがない。そのものが成り立つ物理的基盤の実在性とは別に、そのものがどのような本質をもっているか(どのようにして私たちはそのものを知るか)ということは、私たちの思考と独立しているわけではなく、私たちがそのものに与える意味づけによって変わりうるはずだ。