烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

龍宮

2006-06-14 23:59:13 | 本:文学

『龍宮』(川上弘美著、文藝春秋刊)を読む。川上弘美のこの小説に登場する人物はいずれも変わっている。異物である。ただしまったくの異物かというとそうではない。どこか自分の臍帯とつながっているのではないかと思わせる、そんな登場人物である。自分の中に棲息している小さな異物がある形をとって外界に現れ出でたる容姿が、かつて蛸であった人間であり高齢の狐であり、膝丈までしかない老婆である。変わった人種たちと完全に一体化はできないものの、不思議な交流がありどことなく親近感を覚える日々の生活がある。



「ひいばあさん、あなたはほんとうはここにはいないものでしょう」私が聞くと、イトはうなずいた。
「いないよ」
「それじゃ、どうしてここにいるの」
「あんたが呼んだんじゃないか」イトは静かに言った。
「私が、呼んだんでしたっけ」私も静かに聞き返した
そうだよ。
でも、どうして。
知らないよ。あたしは何も知らずに生きて、何も知らずに死んだだけだからね。かわいそうに。
私が言ったとたんに、イトはおんおん泣き出した。
(中略)
妙なものにかかずらっわってしまった。妙なものは、私の乳にとりつき、赤子のごとくに強く吸う。泣きながら強く吸う。私は妙なものが不憫で、どんどん吸わせる。妙なものが愛しく、どんどん吸わせる。私はイトを乳にとりつかせたまま、東に向かって歩きはじめた。


私の中にかつてありながら、今はすでに失っているもの。失ったということも忘れてしまっているものが奇妙な容姿をまとって現前化する。これが彼女の著す「私」の対話の相手である。