烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

食の歴史(2)

2006-06-12 21:42:41 | 本:歴史
 最近は仕事に忙しく、読書にあてる暇もなし。『食の歴史』をぽつりぽつりと読む。
 シンポジウムという言葉として今に伝わるシュンポシオンsymposionは、レスボス島生まれの詩人アルカイオス(前630-580年)の使用例を嚆矢とするらしい。食事をすませた後に、男たちが集まり談論風発、詩を捧げ楽しんだ。この本の教えるところによると、この会のお約束というものがあり、食後に必ず催すこと、お神酒を捧げアポロンの賛歌を合唱すること、詩を詠うこと、参加者は親族関係とは別のつながりを持っていたことなどがそれに当たるという。歓迎される新参者は、自分の来歴や自作の詩を同席者に披露することで共同体の一員となり伝統的秩序(コスモス)に従う。
 こうした記述を読んでいくと、秩序と無秩序、公的なものと私的なものが、会のときに混ぜ合わされた水とワインのようにほどよく混和されていたようである。中心となったのはあくまで「詩」だ。酒を飲めば詩、酒すなわち詩、これは洋の東西を問わない。漢詩の世界や和歌の世界もそうだろう。
 しかしそれと同時に「詩」ぬきのシュンポシオンもあったようで、高尚な哲学的話題を論じ合った。プラトンの『饗宴』がまさにそれだったようで、現在ではこちらの方が有名になっているようだが、当時としてはこういう会は非主流であったようだ。ひょっとしてプラトンは彼の仲間内では詩作があまり上手ではなかったのかもしれない。ちょうど音痴で歌が苦手な人が、二次会では歌わない物同士で別の宴会に流れていくように。

 

ダヴィンチ・コード

2006-06-10 18:57:05 | 映画のこと

 『ダヴィンチ・コード』を観た。映画をこれから観るという人は、ネタばれになる点に触れるから、ご覧になってから以下を読んでいただきたいと思うのだが、ひとことでいうとschizophrenicなシネマであった。さまざまな示唆的な断片的事実からキリストが妻とした女性がいたということを「断定」し、そのことが明るみにされるとキリスト教という「世界」が瓦解するという危機感を抱くこと、これはもうschizophreniaの妄想世界だ。それはそれとして面白いのだろうけど、これに長時間つきあわされるのは少し疲れる。よくあるトンデモ本の陰謀説の類といえる。
 気になったのは、この映画で重要な役割を担うソフィー・ヌブーなる女性が、どうしてキリストの末裔だと簡単に決めることができるのかが疑問だ。かのイエス・キリストの「血」をひいていることがこの映画では重要なのだが、遺伝学的にいうと直系の女性が始祖の男性の遺伝子を受け継いでいるかどうかは確実にはいえない。キリストは男性だから、確実にいえるのはその男児であれば彼のY染色体を受け継いでいるということだ。しかし他の常染色体およびX染色体については、世代を重ねることに配偶者の染色体を受け継ぐ可能性があるから確実にキリストの遺伝子を受け継いでいるとは断定できない。わかりやすくするために性染色体で話をすると、キリストに娘がいたとするとその子は、彼のX染色体を受け継いでいるが、彼女がある男性と結婚して子供をつくった場合、できる女児にキリストのX染色体を受け継がれる確率は0.5である。世代を重ねれば重ねるだけその確率は低くなっていくからその末裔である女性がキリストの遺伝子を受け継いでいる可能性はかなり低いといえる。一世代30年として2000÷30で約66世代、確率は0.5の66乗という天文学的に低い確率になる。これが直系の男性の場合であればY 染色体はその始祖の男性からしか受け継がれないから、別の男性との間に子供をつくっていなければ、直系の男児は確実にその始祖のY染色体を受け継いでいる。日本の天皇問題でもあれほど男児にこだわるのは、遺伝学的には一理あることだ。そうでないと万世一系の保証ができないから。ついでいいうと遺伝学的にはあまり重要性のないY染色体にこだわるというのは、まさに天皇の「象徴的」性格を反映していて面白い。
 だからこの映画では、鍵となる人物をソフィー・ヌブーという女性ではなく男性にすべきだったのだ。マグダラのマリアにひっぱられてしまったのだろうが、ここはやはりイエスの血を引き継ぐ人物は、男性として設定すべきだった。トム・ハンクスがその役でもよかったのになぁ。


食の歴史

2006-06-08 23:59:06 | 本:歴史

 法律では「牛殺し」を「人殺し」に劣らず厳しく罰せられた。特に仔牛を殺したり食べたりすることは、ほとんどなかったという。
 この記述を読むとインドの食のタブーに関する記述かと思うが、これは古代ギリシアに関する記述である。『食の歴史I』(J-L・フランドラン/M.モンタナーリ編、宮原信・北原美和子監訳、菊池祥子・末吉雄二・鶴田知佳子訳、藤原書店刊)の第6章にある記述で、アテナイの古い法律では上に書いたように牛殺しは人殺しと同罪扱いだったようだ。これはすなわち古代ギリシア人たちの食生活が穀物中心で、獣肉を食べることが少なかった(宗教的供犠と関連した食に制限されていた)ことを示しているという。
 そういえばギリシア神話には牛がよく登場する。ヨーロッパの語源もエウロペが乗った牛が放浪した地域ということを読んだことがあるし、ミノタウロスなどの神話もそうである。農耕中心の社会であり、農耕牛として牛はたいへん人と親しい関係を結んでいたのだろう。本書に古代ギリシアでは食用として濫りに牛を殺して食べるようなことはなかったと書かれている。
 古代ローマでも穀物すなわちパンとオリーブ、葡萄が食生活、文明人としての食生活とみなされていたようで、蛮族は肉を喰らうがゆえの蛮族であった。古代地中海世界では、肉が奢侈や社会的特権のシンボル、富の象徴とは考えられていなかったという。農耕民族だったということだ。
 日本ではヨーロッパを肉食の民族として十把一絡げにして論ずる風潮があるけれど、歴史をみるとそうした農耕民族としての古層があることをきちんと知っておくことは重要だろう。
 古代地中海世界では、肉を食べるということがほとんど宗教的儀式と重なっており、それを「一緒に食べる」こと、「等しく配分すること」が「食事」において大切なことだったという。読書途中の本であるが、こういう切り口で見る歴史もたいへん興味深い。


人口減少社会

2006-06-06 22:55:28 | 随想
 話は少し前のことになるが、2005年の合計特殊出生率が過去最低の1.25を記録したことが報道されていた。政府の積極的な(?)対策にも関わらず出生率は下がり続け、日本の人口減少が加速している。高学歴化とともに働く女性が増えているにもかかわらず、女性が出産・子育てをしながら安心して働ける環境になっていないことが原因だと論じ、職場環境の整備を訴える論説が多いように思う。確かに子育てをそっくり女性に任せている男性に比べれば、育児に積極的に参加する男性が少ない現状では女性は不利であろう。男性の育児への参加とうものは、単純に仕事から帰ってから家庭において育児を手伝うという範囲の問題ではなく、仕事(ひいては自分のキャリア)をある程度犠牲にすることを本人を含め社会が許容できるかどうかということにかかっている。実際は仕事を休んでまで育児に協力することを許容するような環境には程遠い。今後このあたりの社会環境整備がなされていくことだろう。しかし、環境が整えば自動的に女性が子供を(どんどん)生むようになるかというとそう簡単にはいかないだろう。生む子供は一人にとどめて、整備された環境を積極的に利用してさらに働き続けるという選択肢もじゅうぶんありうるからである。

 一般的に子供をつくる場合には、多かれ少なかれ親というものは自分の子供に夢を託しているだろう。今の生活よりもよりよい未来が約束されていると信じる(思い込む)ことなしには子供に未来を託すことは難しい。自分の生を一世代若い子供の中でもう一度生きさせること、そしてそうすることによって自分の世代では実現しなかった夢がもしかすると子供の世代が叶えてくれるかもしれないという欲望が子供を生もうとする欲望を支えている。現在の日本では、その欲望が萎えてしまっているのだろう。叶えたい選択肢が少なくなれば子供の数も少なくていい。さらに一人生まれれば乳幼児の死亡なんてほとんど起こらない日本では、発展途上国とは異なりほぼ確実に育つ。だから必然的に産む子供の数は少なくてもいい。
 社会が流動的になり夢を叶えるチャンスが多くなり、ちょっと失敗しても再起可能な環境になれば、託すことのできる夢の選択肢も増え、子供の数も増えるのではないだろうか。逆に社会が硬直化して少しの差がゴールを決定付けてしまうような環境では、失敗しないことが最も重要になるから賭けはしなくなる。子供を作るということは、ある意味大きな賭けのようなものだからそんな環境では子供の数は少なくなるだろう。「末は博士か大臣か」という親ばかな望みを子供に託すことができるのも、社会が階層化されていなければこそである。他愛もないそんな冗談が言えるのにも社会的必要条件があるのだ。子育ての環境整備もいいが、もっと大事なことは階層化する傾向を壊し、社会を流動化することだと思う。

人形愛の精神分析

2006-06-05 21:42:13 | 本:哲学

 『人形愛の精神分析』(藤田博史著、青土社刊)を読んだ。著者が人形を製作する人たち(人形作家)とともに行ったセミナーの記録をまとめた本であった。ラカン派精神分析の道具立てで人形を製作する営みについての精神分析的解釈なのだが、どうも分析が定型的で面白みに欠ける。分析をしているというより、ラカンのお題目を人形を題材にして繰り返しただけという感じが否めない。こうしたセミナーでは、それこそ著者のいうシニファンからシニファンへの意外な遷移が面白いのだが、あるべき言葉の炸裂、躍動感が伝わってこない。セミナー参加者からはもっと面白い発現があったと思われるのだが。
 人形を実際に製作している職人こそが感じる人形性なるものが引き出せそうに思うが、残念ながらそこで定型的な分析に走ってしまい、だいじな芽が摘まれてしまっている。


 人形を作る行為は、「もの」づくりという観点から見ると、製作行為といえるが、例えば机を作る、家を作るといったものと同列に扱えない要素を含んでいる。それは「もの」にはない過剰ななにかであり、その要素のために人形づくりは人形が完成した時点で完結してしまう単なる製作行為ではない行為である。アリストテレス流にいえば、製作には原因があり、製作が完了した時点でその原因は終わるのであるが、人形は完成品がそこで行為を終わらせない何かを持っている。その「不気味さ」をもう少し掘り下げて欲しかった。


不完全性定理

2006-06-03 23:29:25 | 本:自然科学

 『不完全性定理』(野崎昭弘著、ちくま学芸文庫)を読む。ゲーデルの不完全性定理について「わかりやすく」解説した本である。とはいってもやっぱりこの定理は難しいのであるが、やさしく語るにはどういう切り口で話を進めるればいいのかということに参考になる。無矛盾な自然数の世界で、ある命題とその否定命題のいずれかが必ず証明可能であるわけではないこと、すなわちいずれとも決することができない命題があるということを証明したということなのだが、これは見方を変えればある命題の証明をあきらめれば、無矛盾性は保たれるということである。数学の世界では命題が証明できるということは非常に重要だから、この定理の証明に数学界は震撼したのだが、数学の世界でなければ証明できないことはいくらもある。そして証明できないからといって、それは必ずしも正しくないことではない。
 数学の世界と実際の世界とは共通するところもあるけれど、違うところもある。だからこの「不完全性定理」が証明されたことをもってまるで鬼の首でもとったように、さまざまな言説の不完全性をあげつらってもしかたがない。
 すばらしいと思うのは、刃物をどんどん研ぎ澄ましていくように形式化を極限まで進めていく努力と、著者も述べているように「このような結果が、人間の知性によって、厳密に証明された」ことだ。「人間の知性のある一般的な限界が、人間の知性によって証明された」ということはほんとうに驚くべきことであるし、こんなことは人間にしかできないのではないかと思う。
 たいせつなのは、ある限界が証明されたときに、どういう態度をとるのかということだろう。限界があることに幻滅し、その中でお互いの不完全性を論うことに汲々とするのか、限界を弁えた上で新しい挑戦をしていくのか。答えは明らかだ。



 さいごに、ゲーデルの不完全性定理が「理論の終わり」ではなく、「新しい理論の始まり」になったこともつけ加えておきたい。このように
 「大きな結果によって片付いたかに見える分野が新しい方向に、さらに豊かに発展していく」
のは数学のいろいろな分野でよくあることで、決してめずらしいことではない。


 そうだろう。私たちの世界でも珍しいことではない。このことはどちらの世界にも共通している正しいことだと思う。その証明はできないにしても。


他者の苦痛へのまなざし

2006-06-02 21:41:51 | 本:社会

『他者の苦痛へのまなざし』(スーザン・ソンダク著、北條文緒訳、みすず書房刊)を読む。戦争を伝える写真・映像について本書では、写真の持つ政治性について様々な角度から論じられている。それぞれに興味深かったが、特に第六章でそうした映像が伝える世界の苦痛を私たちがどう受け取るべきなのかという倫理的問題が論じられる。



写真が遠い土地での苦しみについてもたらす情報に関して何をなすべきだろうか。人びとは自分たちの身近にいるものたちの苦しみをしばしば受け入れることができない。


感じることが必ずしもよいとはかぎらない。周知のように、感傷性は残忍さの嗜好と完全に両立する。


感情を鈍化させるのは受動性である。無感動あるいは道徳的・感情的知覚麻痺と形容される状態は感情に満ちていて、その感情は怒りと挫折である。だがどのような感情が望ましいかと考える場合、同情を選ぶのは単純すぎる。


同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。われわれの同情はわれわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する。


現実と対峙した時の自分の感覚を信じることの重要性を特に強調する。戦争をはじめとして悲惨な映像に無感覚になっている現代人に必要なのは「現実にたいして十分反応する態度」なのだ。だからメディアという媒体によってこそ「現実」が作られる、すなわち再現されるものが「現実」であるという解釈を彼女は批判する。



現実がスペクタルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している。


苦痛というものは極めて個人的なもの(誰かの苦痛を代わりに引き受けるということが不可能なという意味で)だけに、その姿を写した写真がどれだけ忠実にその苦痛をすくい取っているかということが問われる。被写体と対峙した写真家に責任というものが生まれるのもそこにあるだろう。また同時にその姿を目の当たりにする私たちにも責任が生まれる。この責任の重さを背負いかねるとき、それはスペクタル化されたものなのだという現実から目を逸らす解釈の誘惑に落ちてしまうのだろうか。見たくないものが目の前に出現した時、目を閉じればそれがなくなると信じている浅薄な批評家を彼女は痛烈に非難しているのだ。