烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

思考のトポス

2006-06-30 21:00:13 | 本:哲学

 『思考のトポス 現代哲学のアポリアから』(中山元著、新曜社刊)を読む。現代哲学の海の中からキーワードを選び、それぞれに短評が書かれている。
 この中で目に留まったキーワードに「確率論的理性」があった。様々な場面で使用される用語であるが、著者の指摘するように「人間の有限性が、逆に人間の能力の可能性の基礎になるというカント的な視点が、確率の概念の根柢に存在する」。未来を見通すことができない存在である人間が、未来を敢えて語るときに確率という概念は欠かせない。
 元来理性を意味するラチオratioは、「計算する」ということであったのだから、理性の働きを未来に向けるときには起こるべき確率を計算することは必然的なことだといえる。これは現在さかんに言われているリスク管理に直結する。この節でも論じられているが、統計的確率概念はリスク管理と密接な関係がある。というかリスク管理のために生み出されたのが統計的概念であるといえる。パスカルはこれに基づいて神への信仰を説いた。
 だが統計的概念から導出される規範(ノルム)という概念は、著者も指摘しているように、「本質性の概念も正常性の概念も含まれない」。個体を母集団から抽出して最も高頻度に認められる属性がその集団の規範となる。したがってここでいわれる「正常性」には「正しさ」という概念はない。にもかかわらず私たちは統計的「正常さ」にこだわり、統計的に平均であるとされることの中に「正常さ」をついつい読み込んでしまう。進化論的な言説は、ある個体の性質(形質)が生存に有利であるからこそ広く集団中に広まると説き、広く認められる性質には生物学的根拠があると主張する。これはこれで言説としては正しいのであるが、集団中に広まっている性質には「正しさ」はないのである。ここを履き違えてしまうと、遺伝か環境かという不毛な議論がますます混迷を深めることになる。集団中に少ない性質であっても、そこに積極的な価値を認めることこそ人間が社会を形作る上でたいせつなことであろう。
 平均から外れること、すなわち偏差が大きいことに対しては、しかしながら人間は両極端に相反する評価をしてしまう。ある一方の偏差について積極的評価すなわち賞賛が与えられるときには、自動的に反対の偏差には否定的評価を下してしまう。あるものが良ければ、自動的に反対側は悪いものとされる。「勝ち組」に対する「負け組」、「改革派」に対する「守旧派」など浅薄な価値評価の例には事欠かないし、ほとんどの場合もう一方の極端は否定のラベルを貼られてしまう。二項対立的思考法というのは、人間の認識方法として抜け出せない枠組みだと思うが、その限界はおそらくその枠組み自体にあるのではなく、価値づけが批判的に論ぜられることなくなされてしまうことにある。ある一方に気に入ったところを見つけると短絡的にその反対のものを拒絶する、これはこどもの考え方であり、大人になってからこういうことをしていると、最初のうちは面白がられても、最後には愚か者とみなされる。こうした思考法の持ち主が集団のリーダーである不幸は計り知れない。一方の偏差をリスクととらえ、それを排除する際には多くの価値のあるものも同時に排除されていることがあるということに、私たちはもっと敏感で繊細な感性をもっておかねばならない。それはあるリスクを敢えて許容する、あるリスクに対して寛容であることを意味する。大人の覚悟が必要なのだ。